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歩み出す初恋 9

 久しぶりに早い時間に帰宅できるので、私は珍しく浮かれていた。  同時に、この歳になってもまだ相変わらず仕事に追われていると、乾いた笑みを浮かべてしまった。  赴任先のアメリカから戻って、まだ1年足らずなのに、先日また海外赴任を命じられてしまった。今度は中東だ。情勢的にも安定していないので、家族は連れていけない。いや、そもそも息子はもう社会人なのだから、最初から無理なのだ。  一人で行くのは、寂しいものだな。  私としたことが、ここまで夢中で走ってきたのに、急に息切れしてしまったようだ。  最近は疲労感がなかなか取れない。  家で待つのは優しい妻と、まだ少し病弱で内気な息子。二人を残して行かねばならないことが、寂しくもあり気がかりでもある。  一人息子の想は、幼い頃発症した小児喘息が重く入退院を繰り返し、小学校に馴染めずいじめを受けた経緯がある。そんな息子を守ろうと妻と相談して都会のマンモス校から、神奈川の鵠沼という落ち着いた土地に引っ越してきたのだ。  ただ……私が出来たのはそこまでだった。働き盛りの私は海外出張で月の半分は日本にいなかったし、土日は接待ゴルフ、平日も会食が続き、ろくに家族と顔を合わせることもないまま、月日が流れてしまった。  たまに想の寝顔を見るのが精一杯だった。喉も弱く熱を出しやすい想の、ベッドでうなされる姿が可哀想で、次第に見るのも辛くなってしまった。  想がもっと健康だったら、公園に連れ出すのに。  妻がもっと社交的だったら、都会の洒落たレストランで食事でもするのに。  そんな意地の悪いことばかり願ってしまった。  つまり私の家庭は一見何不自由なく見えるかもしれないが、とても冷めていた。  妻と息子への愛情がないわけではない。大切で愛おしい家族なのに、その愛情をどうかければいいのか、分からないままここまで来てしまった。  マンションの最上階、我が家のインターホンを押すが誰も出てこない。  珍しいな、もう夜なのに。  まさか何かあったのか!  焦って鍵を取りだしたが、手が震えてしまった。帰宅時に妻が不在だったことは一度もないから! 「おいっ、いないのか!」  部屋の電気は全て消えており、誰もいなかった。  急に寂寥とした気持ちがやってきた。  いつも私は妻と息子に、こんな想いをさせていたのか。  しばらくすると、玄関先から二人の弾んだ声が聞えたのは意外だった。  こんなに妻は明るかっただろうか。  こんなに息子の声は溌剌としていただろうか。 「あら、あなた、今日は早く帰る予定だった?」 「会食が急になくなってね、それより君が出掛けるなんて珍しいな。想と一緒だったのか」 「そうよ、駿くんの所に行っていたの」 「駿……?」  すぐに反応できなかったのは、父親失格だ。青山と聞いて、ようやく思い出す始末だなんて。  彼は想を小学校の友人で、内気な息子は彼によく懐いていたようだ。妻から話を聞くだけでは、まるで想が彼の庇護下にいるようにも感じ、正直、男親としては複雑だった。だからつい嫌味なことを言ってしまった。私も大人気ない。 「想は、まだ青山くんを頼っているのか」 「……頼ってはいません。駿は僕の……」  哀れむように言うと、珍しく想が意志の強い顔つきになった。  だが、これ以上の会話は思いつかない。だから決まり文句のように「疲れが出ないように早く寝なさい」と言い放ち、突き放してしまった。  私は仕事が出来ても、息子とのコミュニケーション能力はゼロに等しい。  今日もここまでだ。  間もなく私は中東へ赴任する。  もうこの家には私がいない方がいいのかもしれない。  あぁ……またやってきた。先ほどから何なのだ? この寂寥とした心地は。  砂に埋もれてしまいそうで、息苦しい。  そう思った瞬間、想の一言が私を引き上げてくれた。 「お父さん、今日は夕食まだなんですよね。一緒に食べませんか」 思いがけない想からの誘い。そこからは会話が流れるように続いた。  息子はいつの間にか酒も強くなり、流暢に話すようになっていた。そして、明るくなっていた。想が勧めてくれたビールは興味深く、今まで私が接したことがない味がした。 「最初は物足りなくて、儚く頼りない感じだが、その後、ぐっと芯の強い味わいになったぞ」  想はふわりと微笑み、それは自分だと言う。 「お父さん、僕も物足りなく頼りないだけでは……もうないです」 息子が顔をスッとあげてくれた。まっすぐに私を見つめてくれた。  久しぶりに真正面から見た息子の顔は、私の記憶よりずっと精悍になっていた。頼りなく寂しげで……陰のある顔つきが、変わっていたことに驚いた。  一体、いつの間に?  私は息子の成長を目の当たりにして、上手く言葉が出てこない。  想に父親として触れたのはいつだろう? もうとっくに成人した息子の頭を撫でてやりたいと手が一瞬動いたのを、想は見逃さなかった。  想の手が優しく私の手を包んでくれた。 「お父さん、赴任……頑張ってきて下さい。留守中、お母さんのことは僕が守りますから安心して下さい」   頼もしい一言に、不覚にも泣きそうになった。  ずっとこんな風に息子と語り合いたかったのかもしれない。 「想……頼んだぞ」  想の肩に、今度は自分から手を置いた。 「はい、お父さん」  その手で想の頭を幼子のように撫でてやると、想は頬を染めて照れていた。 「お、お父さんってば! 僕はもう子供では……ありませんよ」 「ははっ、親にとっては、いつまでも子供だ。想……困ったことがあるのなら私を頼りなさい。お父さんは、想の幸せをいつも願っているから」  これは本音だ。  ずっと心が離れていた息子とようやく近づくことが出来たから、自然と漏れる言葉だ。ここまで無事に成長してくれただけでも奇跡だということを、忘れないでいよう。 「まぁ……あなたたちが……そんなこと言うなんて。やだ……私……感激してしまったわ」 「お母さんってば、最近涙腺が弱すぎるよ」 「まぁ! 想には言われたくないわ」 「くすっ……僕も……お母さんと一緒だよ。涙が……浮かぶよ」  パスタを運んできた妻が、目を見開いていた。  想も明るくなったが、妻も明るくなった。  パスタの湯気のせいか……  私の視界も霞み、ふわりと揺らいだ。  寂寥とした世界はいつの間にか消えて、日溜まりの世界になっていた。  とても温かい光景が広がっている。  あぁ、これが温かい家庭というものなのか。  あぁ、これが私の家族だ。 あとがき(不要な方は飛ばして下さいね) ****  今日はとても長くなりました。  しかも、すべて想のお父さん視点でした。   お気づきかもしれませんが、かなり都合よくふんわり進んでいる物語です。 現実はこうはいかないと承知の上で書いていますので、そこはご理解くださいね  想のお母さんとお父さんは、とても優しく想を理解してくれる人物として設定しました。何故なら……私は過去作で……家族や母親を亡くした悲しく寂しい主人公や、酷い父親に悩まされ続ける苦悩の主人公を散々書いてきたので、この物語では真逆を行きたいと思っているからなんです(照)

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