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ラブ・コール 2
新商品『ラブ・コール』の試飲発表会は、日比谷のホテルの宴会場を貸し切って行われることになっていた。僕も企画開発のリーダーの一人として発表の機会があるので、朝からずっと緊張している。
有楽町駅に着くと、駿からモーニングコールがかかってきた。
「想、おはよう!」
「駿、おはよう!」
駿の明るく元気な声が心地良い。
「想、いよいよだな、今どこ?」
「もうホテルの前だよ」
「もう? 早いな。俺はまだ会社だ。これから最終ミーティングをしてから向かうよ」
「頑張ってね。僕は商品の搬入に立ち会う係を任されていて」
「想が? 力仕事なら俺の出番なのに」
電話の向こうでガッツポーズを作る駿を想像したら、楽しい気分になった。
「くすっ大丈夫だよ、運ぶのは業者さんだし」
「想のことだから手伝いそうだ。いいか、もうかなり疲れが溜っているんだ。無理だけはするなよ」
「うん、言う通りにするよ。駿、今日が終われば明日が来る。今から明日が待ち遠しいよ」
「俺もだ」
「じゃあ、後で」
ところが……
駿との通話で元気をもらったはずなのに、ホテルに着くと少し気分が悪くなった。
しっかりしろ。
トイレの鏡に顔を映すと、随分とやつれて見えた。
こんな顔色で、家を出て来たのか。
お母さんに心配かけてしまったな。
お母さん、ずっと黙って見守って応援してくれた。
夜遅く帰宅する僕に、いつも栄養のある温かい食事を出してくれて、本当にありがとう。
僕は、ずっと心配ばかりかける息子だったよね。
今も変わらないかもしれないが、お母さんが信じてくれるのが嬉しかった。
トイレから出て商品の搬入のため業務用通路を歩いていると、今度はくらりと目眩がした。
まずい……貧血だ。
すぐにサーッと目の前が真っ暗になっていく。
慌てて壁に手をつくが、耳鳴りがして、視界が回り出す。
駿っ……
思わず心の中で駿を呼ぶが、駿はまだここに到着していないことを思い出し絶望した。
壁にもたれ目をギュッと瞑って耐えていると、突然ふわりと花のような香りがした。
「あのっ、大丈夫ですか」
「……っ」
誰かが心配そうに声をかけてくれたようだ。
「貧血みたいで……うっ……」
もう立っていられなくて、とうとうその場に蹲ってしまった。
「大変だ! 立てますか」
男なのに、僕はどうして肝心な所でこんなにもひ弱なんだ。
身体は怠く、視界は真っ暗のままだ。
力なく首を振ると、その男性は僕に何かを持たせてくれた。
「あの、これはハーブのブーケです。気分が和らぐかも」
「……」
ペパーミントの爽やかな香りが鼻腔に届き、少し気分がクリアになった。
「す……みません」
「医務室で横になった方がいいと思います」
「いえ……このままで大丈夫ですから、もう行って下さい」
「そんな訳には、いきません」
きっぱり言い切る澄んだ声の主は、心底僕を心配してくれているようだ。
見ず知らずの僕なのに。
声からして、優しそうな人だな。
「……困ったな、僕一人では動かせない。そうだ!」
どうやら誰かを呼んでくれるようだ。
こんな姿、社内の人にだけは見られたくない。
身体が弱いと遠慮されるのも、気を遣われるのも……もういやなのに、どうして僕はこうなんだ。
目眩のせいで、立ち上がることすら出来ないなんて。
暫くすると誰かがバタバタと駆け寄って来た。
さっきの青年とは違う声がする。
「大丈夫ですか。医務室で休んだ方が早く回復しますよ! 俺に掴まって」
「えっ」
力強い声、明るい声には聞き覚えがあった。
「あれ……もしかして白石か」
「菅野の知り合い?」
「あぁ、高校の同級生なんだ」
驚いたことに、先月、江ノ島で再会したばかりの高校の同級生の声がした。
「そうなの? 菅野、彼を人目に付く前に医務室へ運ぼう」
「……すみません……」
僕にはそういうのが精一杯だった。
「俺たちは同級生だろ。そんなに気を遣うなって」
結局、僕は二人がかりで医務室へ運ばれ、少し横になることになった。
まだ視界が回転していて真っ直ぐに歩ける状態ではないので、30分は横になるように指示をされてしまった。
困った。
「白石、俺は何をしたらいい?」
「菅野……」
駿……
駿に連絡を取って欲しいとは言えなかった。
駿は……今……最終ミーティングの最中だ。
「あのさ……白石は生真面目過ぎるぞ。こんな時は人を頼ればいい。誰だって具合が悪い時があるもんさ」
「……商品の搬入指示を出さないと」
「それって社外秘?」
「いや、この書類を業者に渡せば……なんとかなる」
「了解、C通路のタロウ運輸だな」
「ごめん……」
恥ずかしくて涙が滲んでくると、そっといい香りのするハンドタオルで目元を拭いてくれる人がいた。
「大丈夫ですよ。少し休めば元通りになります。だから……そんなに心配しないで」
優しい手だと思った。
「少し眠った方が回復も早いですよ」
そのまま彼が額に手をあててくれると、不思議なほど自然に眠りに落ちることが出来た。
ハーブの花の香りに包まれて。
次に目覚めた時、僕は駿の腕の中にいた。
「しゅ……ん……どうして……」
「想、馬鹿だな。無理をして」
「……ごめん」
「いいんだよ。想が俺を呼んでくれて、嬉しかった」
「え……」
駿の背後には、菅野が小さく手を振って笑っていた。
連絡を取ってくれたのは、菅野だったのか。
僕の心の中の声を聞いてくれたのか。
「じゃあ、俺たちお邪魔だから行くよ」
「あぁ恩に着る」
駿と菅野がハイタッチしている。
「同級生のよしみさ」
「あの……最初に僕を見つけてくれた人は?」
「……僕です。菅野の同期です。あなたが菅野の同級生だったなんて、これもご縁ですね」
彼は驚く程、可憐な男性だった。
そして、彼からは優しい花の香りがした。
「改めてお礼をさせて下さい。ありがとうございます」
「お礼なんて、あ、そうだ。よかったら今日は1日中ホテルで花を売っているので、よかったらお立ち寄り下さい。新商品のお祝いをさせて下さい」
受取った名刺には『フラワーアーティスト 葉山瑞樹』と書かれていた。
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