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スタート・ライン 2

「えっ、そうだったの? もうっ、あなたったら本当に口下手なんだから。やっぱり男親は駄目ね、とんちんかんなサイズを選んでって……密かに思っていたのよ」 「酷いな……散々考えた末だったのに」 「それならそうと、ちゃんと伝えないと駄目よ」 「あぁ……そうだな、確かに言葉に出して伝えないといけないことだった」    僕とお父さんの会話を聞いたお母さんは、苦笑していた。 ……  高校3年生の冬。  朝目覚めると、珍しく父が食卓で珈琲を飲んでいた。 「お……父さん、おはようございます。英国から戻られたのですね」 「あぁ、早朝便で着いたんだ」 「お帰りなさい」 「ん……もう具合はいいのか。出張中にまた熱を出したと聞いたぞ」 「ごめんなさい」  熱ばかり出して、ごめんなさい。  心も身体も弱くて、ごめんなさい。  唇を噛んで俯くと、父が小さな溜め息をついた。    お母さんが、間に入ってくれる。 「想、そんな格好のままじゃ風邪を引くわよ。そうだ! お父さんからあなたにお土産があるのよ」 「えっ」 「コホン……明日から、それを学校に着て行きなさい」 「あ、はい」  紙袋は重かった。  何だろうと中を覗くと、グレーのダッフルコートが入っていた。 「……コホン、その色なら学校に着ていけるだろう」 「はい、ありがとうございます。お父さん」 「……うむ」   僕とお父さんとの関係は、相変わらずよそよそしい。  その理由は分かっている。  幼い頃お父さんに珍しく誘われて二人で公園で遊んだ。嬉しくて興奮した僕はその場で喘息の発作を起こし、救急車を呼ぶ羽目になった。  あれからだ。  あれからずっとお父さんは、僕をどう扱ったらいいのか分からないようだ。 せめて僕以外の兄弟がいたら良かったのに……僕なんてお父さんの役に何も立たないから。  翌日……制服にダッフルコートを羽織って、唖然とした。  あまりに大きなサイズに、僕の身体が埋もれてしまったから。  袖丈は特に長くて、これじゃ……指先しか見えないよ。 「……っ」  華奢すぎる身体が、コートの中で泳いでいる。  溺れそうだ、息が苦しくて。  声を出さずに、少しだけ泣いた。  こんなコートが似合う息子になりたかった。 「想、遅れるわよ。今日はお楽しみの駿くんと行ける日でしょう」 「あ、本当だ。行ってきます」  この不格好な姿を見て、駿はなんと言うだろうか。  駿に笑われたりしないか、心配になって胸が痛かった。  小走りで向かうと駿の元気な声が届いたので、立ち止まった。  変わらない笑顔にほっとした。 『ダッフルコートの袖が長くて良かった』  そう思えたのは、駿のおかげ。 ……  駿は、僕の世界をいとも容易く、元気にひっくり返してくれる。  だから駿が好きだ。  僕を生かしてくれる駿が好きだ。  昨夜、駿とひとつになった身体には、駿のパワーが宿っている。  身体の奥でじわりと広がった熱を思い出すと、身体が急に熱くなった。 「あら? 想、顔が赤いわよ」 「だっ、大丈夫だよ」  お母さんは僕の額に手をあて、顔をしかめた。 「ううん、本当にお熱よ」  すぐに体温計を渡され測ると、37,6度。  ……微熱があった。  これは知恵熱だ、とは絶対に言えないけれども。 「どこも具合は悪くないよ」 「駄目よ。もう横になりなさい」  お父さんも加勢してくる。 「そうだぞ。想、とにかくパジャマに着替えてきなさい。明日は会社だろう?」 「……そうします」 「あぁそれがいい。お父さんがいるから大丈夫だ」 「……お父さんが家にいてくれるの……心強くて……嬉しい」  来週には赴任してしまう父に向かって放つ言葉ではないのは分かっていたが、どうしてもこのタイミングで伝えたかった。 「……私はいつも外で闘ってきたつもりだったが……そうか……私が家に居ることが、家族を守ることに繋がるなんて知らなかったよ」 「お父さん……僕が不器用なのはお父さんに似たようです」 「ははっ、想とこんな風に話せるようになるなんて……会社の命令とはいえ、海外勤務を希望したのは私だが……今度ばかりは後ろ髪を引かれるな」 「お父さん、前も話しましたが、お母さんのことは僕が守ります。でも……お父さんの支えにもなりたいんです。僕……」 「あぁ、想の存在がずっと支えだったよ。これからもだ。お父さん……海外赴任はこれを最後にしたいな。もう家族が離れるのは懲り懲りだっ……」  お父さんにも、こんな弱い部分があったなんて。  見かけの強靱さにばかり囚われていた。  部屋に戻り、我慢出来ずに駿に電話をした。 「駿……聞いて欲しい。僕ね、駿とつながれて、本当に良かったと思っている。僕の心と身体を開いてくれて、ありがとう」 「想……嬉しいことを言ってくれるんだな。俺の方こそ、今……体中が想の優しい気持ちで満ちているよ」  僕は、まるで生まれ変わったように、新しいことをどんどん受け入れられるようになった。  ずっと……うじうじと悩んでいたことが、霧が晴れるように消えて行くよ!        

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