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スタート・ライン 3

「想、疲れだろう。少し横になれよ」 「うん、そうする所だよ」  素直に答えると、電話の向こうの駿が焦った様子になった。 「想、まさか腹を壊したのか」 「お腹? 大丈夫だけど」 「そ、そうか、ふぅー良かった。あ、じゃあ熱はないか」 「熱……うーん」 「あぁぁ、なんてこった! やっぱりあるのか……ごめんな。やっぱり無理させたよな……俺しつこくて……」  シュンと項垂れる駿の姿が見えるようで、思わず、くすっと笑ってしまった。 「おーい、なんで笑うんだ?」 「ごめんね。心配かけて……でも熱の原因なら分かっているんだ」 「どうした? 喉が痛いのか。それとも頭か」 「どれも違うよ……強いて言えば……」 「なんだ?」  胸に手をあてて、確信した。 「動悸かな……駿としたことを反芻するとドキドキする」 「そ、想……煽るなぁー」 「たぶん、微熱は……知恵熱みたいなものだと思う。だから大丈夫だよ」 「そ、そうか……ふぅ……あぁ俺まで興奮して熱を出しそうだ」 「駿が? 駄目だよ、まだ駄目だ」  必死になると、駿が不思議そうな声を出した。 「どうして、まだ駄目なんだ?」 「もしも駿が熱を出してしまったら、その時は、僕が看病しに行きたいんだ」  きっぱり断言してしまった。 「想……俺、今すぐ熱出したい。そうしたら今すぐ想に会えるから」 「え? 熱は駄目だよ……心配しちゃうよ」 「はは、だよな。看病とかじゃなくて……やっぱりお互い元気に会うのが一番だな」 「そうだね」 「知恵熱だって熱だ。油断しないで、ゆっくり休んでくれよ」 「分かった」  電話を切ると、やっぱり胸がドキドキしていた。  もう全てを分け合ったのに……まだ声だけでもこんなにドキドキするなんて。  パジャマに着替えるためにポロシャツを脱ぐと、胸元に散らされたキスマークを見つけ、またドキドキした。  そのタイミングでドアをノックされたので、慌ててボタンを留めた。  お母さんがミネラルウォーターを持って、部屋に入って来た。   「想、水分をちゃんと取らないと」 「ありがとう」 「ちゃんとパジャマに着替えたのね、お洗濯してくるわね。あら、このポロシャツ、いい色ね」 「うん……駿と一緒に買ったんだ」 「駿くんの色ね。あの子はいつも想に青空を連れてきてくれたものね」 「確かに……駿は僕の青空だよ。今もね」  ずっと雨の日が、苦手だった。   雨の日は息が苦しくて……  湿気や気圧の低下、温度の変化についていけない僕の身体は、いつも悲鳴をあげていた。 発作を起こす頻度も高かった。  息苦し過ぎて、ベッドに横にもなれず、壁を背に項垂れていると、駿が来てくれた。 ……   「想、大丈夫か。来たよ」 「駿……こっちに来て」 「あぁ」 「苦しくて……たまらないよ」 「あぁ、俺に掴まってろ」  誰かに掴まっていないと……発作に振り落とされそうで……怖かった。 「雨の日はしんどそうだな」 「……お母さんが……低気圧のせいだって……んっ……」  目をギュッと閉じて身体を強張らせてしまう。  これは発作に逆効果なのに……   「想、目を開けて俺を見ろよ。そうだ……俺の服を見てろ」 駿は目が覚めるような青いTシャツを着ていた。 「あ……青い……」 「せめて洋服だけでも、青空にしてやりたいよ」 「……うれしい」  どうして駿が僕にここまで優しくしてくれるのか、信じられない気持ちの方が強かったが、駿はそれから……雨が降ると、いつも青色の洋服でお見舞いに来てくれた。 …… 「あの日から駿くんは青のイメージよね。でも今日は想が青を着るなんて、どういう風の吹き回しなのかしら?」 「え……たまには、ぼ、ぼ……僕も……」 「くすっ」  どう答えて言いのか分からず動揺していると、お母さんが背中を撫でてくれた。 「あのね……想はもう立派な成人男性よ。親が口出しする年はとうに越えたのよね。もう小さかったあなたが27歳なんて信じられないわ。お母さんはあなたが幸せでいてくれるのなら、何も言わないから安心してね」 「お母さん……」 「お父さんのことも大丈夫よ。だから想の道を迷わず歩んでいいのよ」    こんなに優しい言葉をかけてもらえるなんて、僕は本当にお父さんとお母さんに愛されている。   「でも、もし可能なら……あともう少しだけ一緒にいてね。お父さんと銀座で久しぶりにゆっくり話し合ったの。お父さんね少し疲れてしまったみたいで……今度の海外赴任を最後にしたいって。帰国したら早期退職してゆっくりしたいって……だから……」  お父さんの様子が少し変だったが、お母さんとそこまで話していたのか。  お父さんの最後の赴任までの1週間、大切に過ごしたい。 僕はまだ頼りないかもしれないが、精神的にお父さんの支えになりたい。 「僕はお父さんの留守中、お母さんを守るよ。守らせて……日本に戻ったらしたかったことだよ」 「ごめんね。寂しがり屋のお母さんで……さぁ少し寝なさい。想は考え過ぎると熱が高くなるでしょう」  母が額に手をあててくれると力が抜けて、あっという間に眠りに落ちた。  うつらうつらしていると、扉が静かに開いた。 「想……大丈夫か」  お父さんの声だ。  あぁ……僕は覚えている。  小さい頃、いつも僕が寝込んでいると、真夜中に扉が静かに開いた。  お父さんの心配そうな声が、そっと降って来た。  幼い僕はどう答えていいのか分からなくて、寝たふりをしてしまった。  今の僕なら、お父さんの呼びかけに返事が出来る。    そっと身体を起すと、お父さんと目があった。  いつの間にか歳を取って…… 「……お父さん、僕はもう大丈夫です。お父さんこそ、お疲れなんですね」 「悪いな、さっきは弱音を吐いて……こんなの情けないよな」 「そんなことないです。僕のお父さんなんだから、どんなお父さんでも大好きです」  初めて面と向かって言えた。  お父さんが好きだと……

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