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スタート・ライン 5
「ただいま。お父さんは?」
「今日、明日はホテルに泊まるそうよ。赴任前で引き継ぎが大変みたいなの」
「えっ、じゃあ出国前日まで会えないの?」
結局、父が望んだ家族団らんの時間は、日曜日以降やってこなかった。
昨日までは深夜の帰宅で、今日からは泊まり込みだなんて、過酷だ。
ただ、これは今に始まったことではない。
今までにも幾度となくあった。
父は『帰って来ない』のではなく、『帰りたくても帰れない』状況だったのだと、今更ながら気付くなんて。僕は今まで何を見ていたのか。
「お母さん、明日、僕がお父さんの着替えを届けてくるよ」
「まぁ、いいの? 助かるわ」
お父さんが帰って来られないのなら、僕が会いに行こう。大切な人と離れ離れの時間が、どんなに辛く寂しいものか知っている。
翌日、僕はまず駿の会社に向かった。
連絡を入れると、駿がスーツのジャケットを片手に走って来た。
駿に会うのは、あの日以来なので、少し照れ臭い。
「駿、会いたかったよ。父のことでバタバタしてごめん」
「いや、お父さんの赴任を優先するのは当たり前だ。それより想、その……あれから身体の方は……」
「……大丈夫だよ」
「本当になんともないんだな」
「くすっ、この通り無事だよ」
「はぁ、良かったよ。やっぱり電話で話すだけじゃ不安でさ。元気そうな顔を見られて安心したよ」
歩き出した拍子に、駿の手と僕の手が一瞬ぶつかった。
あの日ひとつになった身体が、磁石のように引き合っているのを感じるよ。
駿と触れ合いたい……唇を重ねたい。
駄目だ。
溢れ出る情動は、今は封印しないと。
あっ……でも駿も同じ気持ちなんだね。
隣で顔を赤らめる様子に、何故かホッとした。
「ところで、その荷物は?」
「実はお父さんが昨日からホテルに泊まり込んでいるので、着替えを届けたいんだ。駿も付き合ってくれる?」
「えっ、俺が行っていいのか」
「もちろんだよ」
「想……無理すんなよ。赴任前のお父さんを不安にさせるのは良くないぞ」
「うん、分かっているよ。でも……安心させたくて」
「おし、分かった」
駿の顔がキリッと引き締まった。
駿とお父さんは先日少しだけ顔を合わせていた。でも僕と一つになった駿にも会って欲しくて。
お父さんの会社は丸の内にある。
受付で父を呼び出してもらうと、ロビーで待つように言われた。
「五井物産の本店か……緊張するな」
「大丈夫だよ。駿……あのね、僕、最近お父さんとすごく上手くいっているんだ。それって全部、駿のお陰だよ」
「俺が何かしたか」
「……駿とひとつになって、心を開くことを知ったんだ。お父さんに僕の方から歩み寄ったら、見えなかった景色が見えて……僕を羽ばたかせてくれてありがとう」
「想、照れるよ」
「どうしても直に伝えたくて……あ、お父さんだ!」
****
「白石副部長、息子さんが下にお見えです」
「……分かった。すぐにロビーに下りると伝えてくれ」
想が会社に?
私はポーカーフェイスを装いながら、急ぎ足で向かった。
息子はアメリカの大学を出た後、私達の帰国にあわせて日本の企業に就職したが、特別扱いで英国赴任になってしまった。だから、こんな風に日本で仕事中に会うのは初めてだ。
エレベーターを降りると、すぐに息子の姿を見つけた。
背筋を伸ばし立つスーツ姿は、すっかり様になっていた。
あの儚くか弱かった息子が、ここまでよく無事に成長してくれた。
「お父さん!」
想が私を見つめ、優美に微笑んでくれた。
その男なのに優し過ぎる容貌を、昔は男らしくないと心配もしたが、今は違う。
年相応の凜々しさが加味された芯の通った優しさは、私の癒やしだ。
「お父さん、お疲れ様です。着替えを届けに来ました」
「悪かったな、助かるよ」
「あの、今日は……駿も一緒です」
その時になって息子の隣に背の高い男性が立っていることに気が付いた。
彼は息子の幼なじみで親友だ。ただ我が家のリビングで会った時とは少し雰囲気が違うようにも見えた。
「君も来てくれたのか」
「はい。親子水入らずの所、申し訳ありません」
「いや、君なら歓迎するよ」
先日まともに顔を突き合わせる迄は、妻と息子の絶対的信頼を得た男はどんな人間なのかとヤキモキもした。だが実際に会って見ると、少し話しただけで猜疑心は信頼に変わった。
彼は爽やかで誠実で、意志の強い目をしている。
「せっかく二人が来てくれたんだ。向かいのホテルのバーで一杯奢るよ」
「え? でも、お父さん仕事はいいんですか」
「なぁに、こっちの方が大事だ」
「嬉しいです」
二人を連れて、丸の内の夜景を見下ろせるバーに入った。
奥まったソファ席はリラックス出来る場所だった。
ここには一度息子と来てみたいと思っていたので、また一つ夢が叶った。
「さぁ、好きなものを頼みなさい。想は何が好きだ?」
「……お父さんと……駿です」
「ん?」
想の言葉に、一瞬首を傾げた。
すると想は明らかに頬を染めていた。
「あの、えっと……『キール』を頼んでも?」
「じゃあ、皆、それにしよう」
『キール』は白ワインとカシスリキュールを混ぜたカクテルで、確か『最高の出会い』という意味があったような。
『最高の出会い』か……それは駿くんと想のことなのだろうか。
グラスを傾けていると、再び息子が口を開いた。
「お父さん、駿は……僕にとって大切な人です」
「……あぁ……そうみたいだな。母さんからもよく聞いているよ」
「だからお父さんが旅立つ前に会っておいて欲しかったんです」
「俺もお会いしたかったです」
「そうか……私も嬉しいよ」
その場では、その後二人が何かを深く語ることはなかったが、想が駿くんといると本当に幸せそうなので、しみじみと良かったと思った。
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