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第4話 野犬のような男①

 女官たちとかたまっていたはずの儚那は、唐突に押し寄せてきた群衆に背を押され、その場からぐんぐんと引き離されていた。  手を伸ばし、声を上げてもみな喧騒にかき消されてしまう。ついには商人らしき男が肩から下げた大きな荷に腰を打たれ、露天と露天の間に弾き飛ばされた。  転ぶ!   目をつぶり覚悟をした時、ふっと体が宙に浮いた。 「え……」    儚那は一瞬はホッとした。けれど体を抱き止めている何者かの手の感触に、今度は別の恐怖を感じた。   「大丈夫か」  頭上から低い声が落ちてくる。蘇芳の声も低いがそれともまた違う声だ。儚那はびくりと身を固くした。後宮の外の男と話をした経験などなかった。しかも体を触れられている。 「あ……の」   「うん?」  礼を述べなくては。そう思うのに言葉にならない。恐怖で足がすくんだ。      「どうした、どこか悪いのか」   ぐんっと体を反転させられ、強引に顔を向き合わされた。こんな手荒な扱いを受けるのも初めてだった。   「……サイ?」 「えっ」  男は儚那を見下ろすと、少し驚いたように名のようなものを呼んだ。儚那の知らない名だった。  いきおい蘇芳のくれた首巻きが解けて、はらりと落ちた。閉じ込められていた甘い香りが胸元から立ちのぼる。 「あっ」     風にさらわれる前に首巻きを拾わなければ。そう思って手を伸ばしたが、 「なんだこの香り?」  長い前髪に隠れて表情の読めない男の顔が、ぬっと近づいた。 「ひっ」    ジタバタするうち体勢を崩して尻餅をついた。露天の裏には葦原が広がり、倒れ込むと背の高い草の中に体がすっぽりと覆い隠されてしまう。さっきまでの喧騒が嘘のように、誰の姿も見えなくなった。  男はなおも儚那を離さず、しゃがみ込んで儚那の胸元をくんくんと犬のように嗅いでくる。不気味だ。そして怖い。 「やっ……」  やめてと言おうとした瞬間、ちゅう、と胸元を吸われる気配がした。びくっと体中が引きつる。恐怖か羞恥か嫌悪か、よくわからない感情でぐちゃぐちゃになっていく。  「甘い」 「やめ……っ」   「名前は?」  「え」 「あんたの名前」   「……は、……はか、な……」  とっさに本名を明かしてしまった。王族の名は知られてはいけない決まりがあるのに。     男がにわかに顔をあげた。それでようやく顔が見えた。   「答えたな?」  ニヤ、と含み笑む。   赤みがかった黒い目が儚那を映していた。不揃いな黒髪がその目にかかり、横でラフにまとめた髪が、光に透けてやや赤らいだ。  全身に黒い衣服を纏っている。たくましい体の線が服越しにも透けていた。 「答えたということは、合意だということだ」 「え?」  言葉の意味は分からないが、得体の知れない恐ろしさだけは感じた。逃れようともがく体を押さえられる。儚那の白い手首に節張った手が重なった。  頬に涙が伝い始める。黒く大きな影が視界を遮った。 「んっ……!」  気が付いた時には唇を塞がれていた。こんなことはもちろん、したことがない。現実とも思えず衝撃で気を失いかけた。  名を問われて答えると、誘いを受けたことになる。豊穣の祭りにはそんな暗黙の印があることなど、儚那はまるで知らなかった。

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