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第8話 傷跡と口づけ②

 心が混乱を極めていた。  野犬のような恐ろしい男に唐突にあんなことをされて、酷く汚らわしいと思ったのに、あの時は体が全くいうことを聞かなかった。抗えず、流されたいと願う思いさえあった。   でも安全な後宮に帰ることができて、寝台に体を落ち着けると、少しずつ頭が冷静になってきた。そして吐き気がした。  あの時、なぜ自分があんな風になってしまったのかも、あの男がいったい何を求めてあんなことをしてきたのかも、皆目分からなかった。  思い返すと心が乱れる。  男は『甘い』と言っていたから、いずれこの身が食べられるところだったのだろうか? しかしそれとも違う気がした。  繰り返し読んだ書物の中では、恋人たちが頬に口づけを贈りあうシーンがあった。それは儚那にも分かる。恋慕うふたりが愛を確かめ合う行為だ。  でもあの時は、愛なんてなかった。  あるのはただ暴力と、恐怖と、得体の知れない強烈な欲だけ。  なのに抗い切れなかった。流されたいと願う頼りない自分の心があった。     忘れようにも忘れられない。  特に口の中を蹂躙された感覚はいつまでも生々しく中に残って、物を食もうとするたびに、胃が不快にせりあがる。  誰にも言えないと思った。  あれが何かは分からなくとも、人に言えば軽蔑される醜悪な行いだという自覚はあったから。     それを蘇芳に問い詰められて、やっと胸の内をさらけ出したのに、どうして今、こんなことになっているのだろうか。   「す、お、……んん……っ」    側近、というよりも、幼い頃から頼りにしてきた兄のような存在の蘇芳の唇が自分のそれと重なっている。  『同じ行為で打ち消してやるから忘れよ』とは、あまりに強引なやり方な気がするけれど。  けれど蘇芳の言うことに、今まで一度だって間違いはなかった。      自分が普通の男ではない妊娠できる体だと知り混沌として悩んだ夜も、『儚那』という父に授けられた名を愛してきたのに、それが実はΩなどという劣等種は早く儚くなれ、死ねという願いを込めて付けられた名なのだと知った日も、 『そんなことは関係ありません。普通の男であろとなかろうと、名が何であろうとも、何ひとつ恥じることはありません。ひい様はただひい様らしくあればよい。それだけで、明日もきっと楽しい日になりましょう』  そう言って頭を撫でてくれた。そして、いつも本当にその通りになった。  だから大丈夫。この手を信じて取れば良いのだと、頭では理解をしていても。    「あっ……」    下唇を舌でつうっとなぞられると、ぞくぞくとした甘い痺れが湧いてきてたまらない。  続けられてはおかしくなる。なのに執拗にそればかりを繰り返される。   「ゃっ、……ゃあんっ!」  自然に腰がのけ反って、反動で蘇芳の眼鏡が瞼に触れた。 「ああ、冷たかったですか。これは失礼」   わけのわからないことを言うと、蘇芳はいちど唇を離して眼鏡を外した。 「……」    眼鏡が当たって冷たくて声が出たとか、そういうことではないのだが、酷く恥ずかしいのでそういうことにしておきたい。  蘇芳が存外、朴念仁(ぼくねんじん)で良かった、と思った。

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