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第11話 兆候と赤い月①

**  食べ物が喉を通るようになり三日ほど経た後の夕べ、帝王学の講義を終えた儚那は後宮の中庭で寛いでいた。    気に入りの椅子に腰掛け、季節の花々に囲まれながら書簡の文字を追う。  五経のひとつである礼記(らいき)は、唐国の後漢時代の儒学者である子思が編んだと伝わっている。子思は孔子の孫にして礼の大家で、『中庸』の中にて過不足なく偏りのない徳についてを述べている。  中庸とはただ大小や上下の中間を取れば良いという論説ではなく、常にどちらにも偏ることなく、かつ物事を誤たず判断すべしという難しい教えだ。 「どちらにも偏らず、かつ、誤たず……」  いずれ国王になるために儚那が学ぶ心得は多い。  もう何度も読み返したくだりを(そらん)じていると、ふいに文字の上に霧が現れ二重三重に文字が揺れた。  眠気が襲ってきたかと腕を伸ばしてみたが、一向に治まらない。むしろ酷くなって足元までがぼやけ始め、ぐら、と中庭の景色が渦を巻いた。 「ひい様?」 「ひい様っ!」  少し離れて控えていた三人の女官が目を丸くする。ガタリと椅子から倒れた儚那を両脇から支えた。 「震えてらっしゃるわ」  「お風邪を召したのかも」 「私たちで部屋にお連れするから、紅玉は医女長様を早く!」  体の強い方ではない儚那のためにてきぱきと連携する女官らの声が、壁一枚隔てた世界のように遠く聞こえる。  感染症のような寒気と間接の痛みに苛まれて浅い呼吸を繰り返した。  左右を支える女官らの負担にならぬよう努めて足に力を入れたが、ほとんど引きずられるようにして寝台に寝かされる。  訪れた医女団の検査を受け、煎じ薬を飲まされたところまではかすかに覚えていたが、仔細は何も分からぬまま、気がつけば夜になっていた。  真っ暗な部屋の中、寝台の脇に誰かが寝ている気配がした。交代で看病に来ていた女官のうちの誰かだろう。 「ん……」  起き上がると同時に息苦しさと熱に打たれた儚那は、壁を伝いながら寝台を降りて格子窓を開けた。     風が抜け、薄紅の光が部屋に落ちた。  薄紅? 不思議に思って空を見上げると、光の正体は月だった。それも赤い満月の。  満月にはまるで後光のように、色とりどりの光が混じり合う月虹が差していた。  光輪が美しく見える土地柄から名付けられた、月虹国のゆえんでもある月の現象だ。    その月虹を従えた赤い月は、しかしところどころに黒い影が滲んで、美しさよりも恐れと不安を掻き立てた。赤は血の赤。あの月は、まるで凶々しく巨大な瞳のような──。     どく、どくりと心臓が波打った。  知っている。  あの凶々しさを自分は知っている。あの目は、あの赤い月は。  「あ……」  それまでとは比較にならない、意識が混濁するほどの熱に襲われ儚那はふたたび膝をついた。    熱い。身体中が燃えるように熱かった。  あの目が自分を呼んでいる。そう思った。  行かなくては。  意思ではない本能が強く心を支配する。  儚那は立ち上がった。体の痛みはもう消えていた。息苦しさもめまいもなく、熱に浮かされた心地よさに夢見るように歩き出した。  部屋を抜けて回廊に出る。赤い月が目に宿ったように闇の中でも足元がよく見えた。  後宮の門は固く閉ざされている。  儚那は王族でも一部の者しか知らない地下の隠し通路に入ると、途方もない長い回廊を地上に向かってひたすらに駆け、あの祭りの日に見た、悪夢の、深い葦原を目指した。

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