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第12話 兆候と赤い月②

 隠し回廊から出口を押し上げて市街地に出る。  草木に足を取られても、疲れなど微塵も感じなかった。  葦原は街道を挟んで西に広がっていた。全身がすっぽりと隠れる葦の葉を掻き分けていく。靴を履いていない足は、皮が破けて血を流していた。  血の匂いを敏感に察知したのだろう。やがて炯々と光る目が四つ、葦草の奥に浮かび上がった。  ハイエナだ。  二頭の飢えたハイエナが、獰猛な唸りをあげて儚那に飛びかかった。  命の危機にはとっさに目を瞑る。  遠くからビュワッと物が放たれる気配と、どさりと何かが落ちた音がした。気圧されて後ろに倒れ込む。  初めに、赤い月が見えた。その月を背に、大弓を構えた男がじっとこちらを見下ろしていた。  草の上に目をやる。矢で穿たれ絶命した二頭の亡骸が落ちていた。 「あ……」 「ボサっとするな。死ぬぞ」  闇に紛れた夜色の男。あの日と同じ、低く乾いた声だった。 「え……」  足首をくすぐる草の感覚に儚那は今初めて気がついた。まだ冷たい春の夜気が不安に頬を撫ぜていく。  一体ここはどこだろう。部屋で寝ていたはずなのに、自分はなぜこんなところにいるのだろう。 「あ……わたし……?」  「来ると思っていた。遅かったな」 「どうして……」 「どうしてだろうな」  ニイと意味ありげに笑うと、男は弓をガシャリと野に放ってこちらに手を伸べた。  儚那は無言で首を横に振った。ここまで来たのは確かに自分の足だ。でも正気を取り戻した今、その手を取るのは危険すぎた。  この男がどこから来たのか、どういう人間なのか何も分からないのだ。そんなものに王太子である自分が流されるわけにはいかなかった。  男の方からこちらに一歩近づいた。儚那は一歩後ろに下がる。  怖い。もと来た道を駆け出すと、男はその何倍もの速さで追って、逃げる儚那の腕をあっさりと捕まえた。 「離してっ……」  つかまれた腕がじんと熱を帯びる。身体中の力が抜けていくようで、はからずも草地の上にへたり込んだ。   「来たのはお前だ」 「……」   生まれてこのかた、お前などと呼び捨てられたことも一度もない。無礼だと思う反面、王族という立場から逃れた解放があった。  でも。  「ひっ!」   巨大な鴉にのし掛かられるように目の前に影が差す。無理矢理に顎を引かれて口の中を蹂躙される。   「前よりもずっと甘いな。思った通り、Ωの女というものは」    乾いた親指の腹で下唇をざらりと引かれる。  震えるような快感が背筋に抜けた。  やはり聞き間違いではなかった。この人は自分を女だと思っている。 「んっ……」  唇をまた重ねられた。  この人はきっと女を好きなのだ。自分が男だと知ったら興を失い、簡単に手放すだろう。   「ぁ、あっ……」    ならば明かしてしまえばいい。  そう分かっているのにためらわれた。  王宮も立場もない、男ですらない。  葦原のこんな何もないところで、  「いい声だ。そらもっと鳴いてみせろ」 「ゃ、……ぁあっ……」  ただの女として扱われることに、複雑な喜びを感じていた。

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