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第20話 八熾という男①

 定刻になって身支度を手伝われ、迎えにきた蘇芳とともに広間へ続く回廊に立っても、頭だけは忙しく働いている。  ちらりと横を向くと、一糸乱れぬ青藍の官服を身につける蘇芳が見えた。      それにしても、あの時の蘇芳の目は狡かった……と儚那は思う。  目隠しを取られ目が合った時の、熱を帯びた眼差し。あんな目で見つめられたら、まるで本当に愛されているかのような心地になる。  後を追うように落とされた口づけはひどく熱くて、欲しい、と言われているようだった。 「……してくれても、良かったのに」 「は、何かおっしゃいましたか?」 「えっ! や、そのぅ、もっと髪を高く結ってくれても、良かったのになぁ……って」 「ふうん?」  取り繕って金の冠に触れる。結った髪が慣れない冠の中で居心地悪く収まっている。服は王族の男子の正装である新緑の袍を身につけていた。  広い回廊は水を打ったような静けさに包まれている。石造りの床は冷えびえとして、カツーン、カツーン、自分たちの靴音以外に聞こえてくるものはない。  後宮から出られない儚那のために、急あつらえで出来上がった謁見の広間に足を踏み入れた。  上座の三段高い中央の席に腰を下ろす。貴人の声や姿は不用意に明かしてはならない。そのため天井から(すだれ)が降ろされ、来客席から儚那の姿をはっきりと見ることはできない。   言葉もまた直接には交わさず、逐一、取次の者に伝達してもらうという煩わしさだ。  招かれた学士なる者が中央で片膝を付き、平伏しているのが見えた。 「ようこそ参られた。おもてを上げよと殿下はおっしゃっている」  儚那の側に控える蘇芳がうやうやしく言った。実際には儚那がしゃべっていない言葉なのだが、定型文程度なら取次が独断で話を進めてしまうのが常だ。  おもむろに頭を上げた学士の顔もこちらからはっきりとは見えなかったが、 「八熾(やさか)と申します」  子宮の底にぞっと響くような、低く乾いた声音には聞き覚えがあった。

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