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第29話 最速記録

** 「大弓は小弓に比べて小回りがきかないが、代わりに威力は強い。弦が長ければ長いほど矢に伝えられる力も増すからだ。だがそのぶん力の均衡を保つのは難しくなる」  シュロの木陰で始まった二回目の講義も、まずは長弓の説明からである。 「素引きはやってみたか……」  途中まで問うて、八熾の動きが止まった。 「オイなんだそのぐるぐる巻きは?」  問われて思わず手元を隠した。散々に膏薬を塗り込まれ、これでもかと白布を巻き付けられた右手である。  過剰な練習で傷を負ったとはいえ、儚那は過保護というか何というか、形容しがたい執着を感じる治療を朝晩二回も受ける羽目になった。  そのうえ食事は半強制的に摂らされて、夜は夜で睡眠効果を高める薬湯を飲まされる。  おかげで気力体力ともに回復はしたが、正直もうあの治療は受けたくないなとは思っている。 「それじゃ練習にならねえだろが、しょっぱなから無茶しやがって。顔色は? 少し赤いな」  出し抜けに額を触れられ小さく悲鳴を上げた。 「だっ、大丈夫ですからっ、どうぞ続きを」 「ならば素引きだ。やってみろ」 「はいっ」  この五日間、肌身離さず持っていた弓を左に構えた。だいぶ手に馴染んできた弦を右手に掛け、ぐっと耳の後ろに引き寄せる。  ビィンと離して残身を取ると、八熾はへえ、と片眉を上げた。 「なかなか良い。五日にしちゃやるな」  まあお前が上手くなっても仕方ねぇんだけどな。と付け加えてせせら笑う。 「そんなことはありません! 私が上達すればその分王太子殿下にもつぶさにお伝えすることができるのですから」 「ほー? そりゃいい心掛けだ。だったらもっと肘を張れ。弓が伸び切ったら外側に反らせろ。弓の位置が下がっている。体の重心がずれている。目線が低い。右手の形が……」 「ちょ、ちょっと待って下さい、そういっぺんに言われてもっ!」 「ああ? とっとと上達してぇんだろが。だったら泣き言いわずについてきやがれ」 「う、うう……」  予想はしていたが手厳しい。  慌てて弦に手をかけ、さらに引いたが、 「引きが甘い! 膝が曲がっている! 体の半分まで足を開けと言ったろうが!」  すぐ別の注意が飛んでくる。  早くも泣きたくなったが、ぐっと堪えて耐えた。 (こうなるのは覚悟の上だ)  非力な自分が戦場で通用する武を身につけようと思えば、並大抵の努力では追いつかないことは初めから理解していた。  つらいだなんて、今更のこと。  けれど本当につらいのは、このまま何も身に付けられず一生を終えることだ。 (否、私はやる!)  儚那は的から真っ直ぐの位置に足を揃え、左手で弓を押し反らした。 「……良い目じゃねぇか」  右手で弦を引き切って、的を見据えて手を離す。  ヒュウ、と八熾が口笛を鳴らした。 「そこまでだ。もういい。次、矢を番えろ」 「えっ、それじゃあ……?」 「ああ、素引きはしまいだ! 五日で矢を取るのは最速記録だぞ。クソ生意気な女め」  口は悪いがすこぶる愉しげに声を上げた。    言葉にできない喜びに儚那は震えた。閉ざされていた暗闇に光が差し込まれたかのようだった。

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