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第35話 破戒と悪夢④

**  昼前から王宮に詰めていた蘇芳は、午後の軍事演習を終えるとようやく後宮の門を潜った。あんなにも高かった陽は既に傾きかけている。 「今お戻りでございますか」  自室の前に来たところで、主よりも背が低く痩せた猿のような男が回廊の奥からちょろりと顔を出した。 「一覚(いっかく)か、どうした」 「お話は中でいたしまする」  キョロキョロと辺りを気にするところをみると、内々の話らしい。蘇芳は頷いて部屋の扉を開けた。  椅子に掛けるよう促したが、せっかちな一覚はすぐにも話し出そうとする。  部下とはいえ二回りも年上の兵士に立っていられては居心地が悪い。やむなくこちらも立つことにした。 「以前から蘇芳様に密かに探れと仰せつかっていた、例の学士の件でございますが……」 「おお、何か分かったか?」 「は。あの若者は、何度帰りを追うてみても途中で煙のようにかき消えてしまいまする。それゆえ探るのに骨を折りましたが、ようやくひとつばかり手掛かりを見つけました」 「手掛かり?」 「は。私の見立てでは、あやつは南方の民と深い関わりがあるように存じます」 「南方の……? なぜそう思う」 「は。本日の昼頃、あやつが王都の郊外で手下と思しき男を連れているのを見たのです。その中の複数の者の顔に、南方の民特有の彫物と、化粧がしてございましたゆえ」 「なるほど……確かなのか?」 「はっは、恐れながらこの一覚、目の良さにかけましては剣豪の蘇芳様にも負けぬと自負しておりまする。 それにお忘れか? 私はもとは南方の民の出。あの者たちのことは誰よりも熟知しておりまする。彫物や化粧を好む部族もあれば、私のように一芸に秀でた者を多数生み出す部族もありました。 私が王国に破れ一族を去ったのは、二十五年も昔のこと。ゆえにあの若者のことは存じませぬが、いずれ必ずこの目で突き止めてご覧にいれましょう」  ニィ、と歯を()いて笑う不敵さは、確かにあの八熾(やさか)と通じるものがあった。  蘇芳は背中に寒気を覚えつつ、こっくりと頷いた。 「そうしてくれ。私はあまり後宮(ここ)から動けぬ身。そなたの目と耳が頼りだ」 「御意」  一覚が頭を腰よりも下げて部屋を辞したのち、入れ違いに長身の春麗が息を切らして飛び込んできた。 「蘇芳様、大変でございます! 先ほどひい様が帰られたのですが、右足に大怪我を負っていらして。ご自分で転んで矢を刺したとおっしゃるのですが……」 「なに、矢を? いま矢を刺したと言ったのか!? なぜそんな、いや歩きながら申せ、いらっしゃるのはお部屋か」 「医務室です、いま医女長様に診てもらっておいでです、高熱が出ていらして」  何ということか。自分が目を離した隙にまたもとんでもない事態が起きてしまった。 (ひい様、どうかご無事で──)  口惜しさに(ほぞ)を噛みながら、蘇芳は長い回廊を急いだ。

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