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第36話 破戒と悪夢⑤

**  朦朧とする意識の底で呼び声が聞こえる。    ひい様、ひい様…… お気を確かに……  女官たちと、医女長と──あとひとつは誰のものだろうか。  儚那が痛む足を引きずって、紅玉らの元に倒れ込んだのが少し前のこと。 『怪我をした衝撃と、傷口が熱を帯びたせいで高熱が出たのでしょう』  そう医女長に告げられたまでは覚えていたが、あとはただもう息苦しく、喉が渇いて、思考も視界も定かではなくなった。  ひい様、ひい様……  案じる声はなおも絶え間なく続いている。  ジグザグに歪む景色のなかで、耳だけが不思議によく聞こえた。  このまま自分は死ぬのだろうか──そう心弱く思いもしたが、怪我くらいでは死んでいられぬと、もう一人の自分が(げき)を飛ばす。  気付けば誰かに背を支えられていた。大きな手だ。触れられていると、温かな海に抱かれているような。 「ひい様、飲めますか」  口に木製の匙らしきものが当てられた。喉に薬湯と思しき液体が入り込んでくる。 「ぅっ、くっ……」  上手く飲み込めず、吐き出した薬湯は顎にこぼれていった。   「もう一度です」  再び匙を当てられた。その冷やりとした感触の不快さに思わず手を振り払ってしまった。  はねた薬湯が頬にかかるのを感じた。   「はっ……! はぁっ……」  全身を包む悪心と悪寒でガチガチと歯の根が震える。 「ひい様……」  暑いような寒いような掌を温かな手に包み込まれる。それだけで少し安堵した。  その手が今度は、儚那の頭を抱きかかえるように低く持ち上げる。ほどなくして唇に柔らかなものが押し当てられた。  その柔らかさの隙間から薬湯の甘苦い味が広がって、少しずつ喉に注がれていく。誰かが口移しで服薬をさせていることに気が付いた。  実の父親に望まれもせず育ってきた、こんな自分をそうまでして生かそうとしてくれる優しさ。そのありがたさに、儚那の閉じた目尻からつっと涙が伝い落ちていった。  やがてゆっくりと離れていく人影を追うように、薄く瞳を開けた。  ぼんやりと滲む世界の中に、こちらを見つめる眼差しがあった。穏やかな優しい海色の目。けれどそれも束の間のことで、ひとつ、またひとつと現れては積み重なっていく黒点が、目の前の景色をみな闇色に塗り変えていった──。

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