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第37話 破戒と悪夢⑥
深く、深く、沈むように儚那は落ちていった。
深淵の底で浮遊するように漂っていると、ぽつ、ぽつりと白い光が差してくる。
導かれるように泳いでいけば、そこは慣れ親しんだ離宮の森の中だった。座り込む自身の手と足が見える。子供のように小さい手足だ。
そう、自分はまだ七つの子供だった。覚えている。女官たちと鬼ごっこをしていて、いつのまにかはぐれて迷子になってしまった日のことを。
生い茂る椰子の林を心細く歩き出した儚那は、やがて広い草地に出た。そこには大きな一枚岩が横たわっていて、絡み合う二つの人影が見えた。
一人はかすかに記憶に残る顔だ。父の弟で、儚那の叔父に当たる羅丹王子。兄王を呪い、自身が王座に就こうと企んでいる。そんな黒い噂が幼い儚那の耳にまで届いてくるような男だった。
もう一人は、まるで女のようにほっそりとした、見たことのない青年。淡色の美しい髪が腰掛ける岩の上にまで降りていた。優美だ。しかしその表情は憂いに溢れ、うつむいている。
青年の気を引こうと働きかける飢えたハイエナのような叔父のいやらしい手つきを、青年はやんわりと押し戻しているようにも見えた。
初めに叔父と目が合った。
「なんだお前は? お前は、まだ生きていたのか!? 兄上は何をしている、なぜお前はこんな所をほっつき歩いているのだ。ええい、こちらを見るな!」
叔父は忌々しげに立ち上がると、青年を残してずんずんと椰子の木の奥へ立ち去ってしまった。
すると青年が顔を上げた。
猜疑に満ちた、美しい顔だ。こちらを見つめる瞳の色はぞっとするほど冷たかった。
そのとき林の奥から、
「ひいさまー! どこにおられるのですかー?」
紅玉の呼ぶ声がして、ほっとして立ち上がろうとすると、
「お前は王族の子か」
青年が恐ろしく冷ややかな声で言い放った。
儚那は威圧されて言葉が出ず、ただこくんと頷いた。
「そうか」
青年の口元がにぃぃ、と三日月のように歪んだ。
「待っておれ、今に──、──」
今に──のその先は、何と言われたのかわからなかった。否、確かに聞いたはずなのに、すっぽりと記憶から抜け落ちている。
けれど頭から冷血を浴びせられたような恐怖だけは、深く心にこびりついた。
「ひいさまー!」
「あ……」
行かなくては。あちらへ、声のする方へ。
すくんだ足でふらふらと歩き出した。
「ひいさまー!」
「ひいさま」
「ひい様っ!」
はっとして目を開けると、両脇からこちらを覗き込む親しい者たちの顔が一斉に見える。
「ひい様! ああ」
「ひい様、私がわかりますか!?」
「ひい様……」
女官たちが次々に話しかけてくる。
するとあれは夢だったのだ、幼い頃の悪い夢。
「あ、わたし……、だいじょうぶ、心配しないで……?」
「ひい様、良かったっ……」
女官たちはみな泣き腫らした顔をしていた。
かわいい。そして、なんて自分は幸せなのだろうと思った。
「ひい様」
蘇芳の低い声がした。その目は、眠りに落ちる間際に見た海の色をしていた。
ではやはり、あの時の唇は……。
急に恥ずかしさに襲われて目を逸らした。
そうあの時は、熱に浮かされていて何もわからなかった。蘇芳も、あえて口にすることはないだろう。
「……ありがとう。もう、だいじょうぶ」
けれど、あんなにまでして必死にこの身を生かそうとしてくれた人の思いを、その唇の温かさを、忘れることはきっとなかった。
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