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第38話 密約の謀①

 南国特有の大きな木の葉が人目を遠ざけるその陰に、掻き消えそうな吐息が重なる。 「儚那……」  名を呼ばれるたび、違和感を覚える。  王族はおいそれと本名を明かさない。名を知られると呪詛される恐れがあるという理由もあるが、貴人にとって本名とは、体にぴったりと張り付いている下着のようなものだ。  役職名や敬称などの通り名はいわば着衣で、互いに本名を呼び合うのは親兄弟くらいのもの。  他人から本名を呼ばれると、いきなり下着をめくられたような心地がして単純に恥ずかしいのだ。 「はっ……」  かと言っていまさら、偽名を語るわけにもいかない。 「儚那……声出せよ、もっと」 「……い、言わな……な、なを」    「ああ?」 「あまり、名を、呼ばないで……」  八熾の巨躯が、座り込む儚那の脚の間に膝を入れ、ぬっと頭上から見下ろした。 「なに照れてんだよ? こっち向けよ」  柔い顎をくっと引かれる。きめ細やかな白い頬に赤黒い舌が這い回った。 「そなたに言っても、わからぬ道理だ……」  クゥーと海鳥が鳴いて、バサバサッと木の葉が揺れる。  密約をした日からふた月余りが経った。太ももの傷痕は元通りとはいかないまでも、もうほとんど見えなくなっていた。  こんなことを続けたくはなかったが、約束を(たが)えば、何をされるか分からない。今は黙して八熾に身を任せるしかなかった。  ピィー、とひよどりが鳴いた。  今日はここで落ち会う前に、八熾が初めて別の誰かと林の中に立っているところを見かけた。  八熾と同じ褐色の肌に赤みがかった黒髪を束ね、目立たぬ色の服を身につけた小柄な男。  熱っぽい視線で八熾を見上げ、こそこそと耳打ちをされて嬉しそうに笑んでいた。  それから男はどこぞへ消えた。恋仲というより、もう少し浅い主従的な関係を思わせる二人だった。 「さっき……」 「なんだよ」 「さっき一緒にいた男は、そなたの仲間か」  八熾はやや思案顔をしてから、ああ、とつぶやいた。 「大したもんじゃねえよ。なんだ、妬いたのか?」 「はあ?」  なぜそうなる。儚那は憮然とした。 「正直に言えよ。妬いたか? 妬いたんだろ?」  急に目をキラキラさせて、なぜ妙に嬉しそうなのか八熾の気持ちがわからない。大きな野犬がはしゃいでいるようで毒気を抜かれ、つい少しだけ吹き出してしまった。 「笑った? いまお前笑ったな!? 笑うとますます、あいつに似てるな──」  そっと儚那の頬に指を触れ、懐かしむような顔をする。 「あいつ、とはサイという者のことか? そんなに私と似ているのか? そやつはそなたの何なのだ」  問うてから、この聞き方は誤解を生むかもしれないと気づいたが遅かった。八熾の目がまた煌めいた。 「気になるのか!?」 「いや、まあ……その」 「そうか! なら教えてやる。サイは俺の二つ年上の幼馴染で、あっ、といっても背は俺の方が上だからな? あいつは子供の頃から舞の名手で、そうだな、綺麗だった」  綺麗、という言葉が引っかかった。八熾が他人の容姿を褒めるのを初めて聞いたからかもしれない。 「でも性格はキツいやつで、口説き落とすのに半年もかかった。まあその後は、あいつの方が俺を放さなかったけどなぁ」  アッハハハと高笑う。  そこまでは聞いていない。儚那はなんだか面白くなかった。 「……妬いたな?」 「えっ」 「今度こそ妬いたな!? なあ」  なあなあなあとしつこく来るので儚那はますますむかっ腹が立ってきた。だけではなく、耳と頬までが熱かった。 「だっ、誰が妬くか! そ、お前など、何とも思ってないわっ」  睨みつけると八熾は惚けたように目を丸くした。 「あいつも、落とす前はいつも蔑んだ目で俺を見て、そうやってキィキィ怒っていた……」  うっとりと言われても困る。 「ああそうか、それは良かったな。だからどうした。調子に乗ってあまり私に触るなよ、この野蛮人めがっ!」   柄にもなく叱りつけると、八熾はなにやら雷に打たれたような顔をして、 「たまらねえ──…」 「いや、そなた鼻血……」  まさしく犬のようにのしかかってきた。

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