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第44話 離宮へ⑤

 その時、あのう、と手を上げたのは木蘭だった。 「姉宮様、あの、うかがって良いのか分かりませんが、そういえば姉宮様はどうしてこちらへ……? どこかお体の具合でもお悪いのですか?」  あ、と儚那も顔をあげた。  そうだ。離宮に入るということは、王族の女にとってただならぬ意味がある。  すると今まで綻んでいた花は、急にしおしおとしぼんでしまった。 「実は……いいえよくある、つまらない話よ。夫がね、側室を娶ったの……」    うつむいた姉の長いまつ毛が白い円卓に影を描いた。 「ねえさま、それは……」 「いいえ分かっているの。あの人の立場なら仕方がないわ。あの人は何も悪くない。嫁いでくる方も、何も悪くないの。ただね、ただ……あの人の腕が、私以外の人をって、それを思うと、どうしても……!」 「ねえさま……」 「姉宮様、もうおっしゃらないで! 私が酷いことをお聞き致しました」  女官たちと側に集まると、姉はふるふると首を横に振った。 「いいえ悪いのは私よ。私の覚悟が足りなかったせい。名家に嫁ぐということが、どういうことかを分かっていたつもりだった。でもあまりにもあの人が、私を愛してくれたから、ずっとこんな日が続くのだと、そう、思ってしまったから──」    雨に打たれた芙蓉のように、ほろほろと涙を流す姉の手を、儚那は柔く握った。   「でも旦那様の、宮様のお気持ちはどうなのです? 本当にその、お気持ちを変えてしまわれたのですか?」 「だってお相手は私より五つも若いのよ? それにとても綺麗な方で──」 「そんな……でももしそうならば許しません!」 「儚那?」 「宮様は私に誓ったのです。私はあの頃、ねえさまを連れていこうとなさる宮様のことが憎くて憎くて──だけど宮様はお誓いになりました。子供だった私にひざまずいて、ねえさまをきっと幸せにすると誓ったのです。だから私は許しました。その宮様がねえさまを泣かせるのなら、これは私にとっても酷い裏切りです。今度お会いしたらとっちめてやらなければ!」  フンッと鼻を鳴らして拳を握った。  「あら、まあ、ふふ。貴方ってば昔から、本当に、──ほん、……」  ゆるゆると肩を震わせ、ついに少女のようにしゃくりあげた姉の姿に儚那は内心驚いていた。  同じ母を亡くした時でさえ、人前では気丈に振る舞っていた姉なのに。 (これが、ねえさまの恋──?)  そうとするならば、恋とは夢物語のように、甘く蕩けるものばかりではないらしい。  体が張り裂けるほどの痛みを伴うそれが、悲しいのに、なぜか羨ましくもあった。こんなにも誰かを強く思う心を知ってみたかった。  傷ついても、血を流しても。  それでも追わずにはいられない、かたちなきもの。  そんな恋を、いつか自分も知る時が来るのだろうか。 「その、側室のことについて、ちゃんとお二人でお話になったことはあるのですか?」 「……ないわ」 「ならば話をされるべきだと思います。それは宮様のお立場を思えば、やむを得ぬのかもしれませんが──あんなにもねえさまに熱を上げていた宮様が、よもやお心変わりをなさるとは、私にはどうしても思えぬのです」 「そう……ね、……せめてあの人の心が、まだ私にも残っているのなら──」  呟いてまた一粒の涙を落とす、散りそうな花。  それは今まで目にしたどんな名高い芸妓よりも、傾国と呼ばれる姫よりも、今の姉が世界で一番美しいひとだと、儚那は思った。

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