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第46話 離宮へ⑦

 陽がさんさんと降り注ぐ離宮の中で、儚那は翌日の昼過ぎまで惰眠を貪った。  それでも体に残る酒の余韻は布団の中でやり過ごし、やっとのろのろと起き始める。  用意された卵煮と粥とポポの実をたらふく味わってから、膝下丈の薄衣に着替える。差し出された蘇芳の手を取り、離宮専用の浜辺へ出向いた頃には陽がうっすらと傾きかけていた。  固有種の巨大な葉が左右から生い茂る小径は、海まで続いている。きめ細やかな白砂が素足にぽかぽかと心地良かった。  荒い潮風を聞きながら、んーっと伸びをして大気をいっぱいに吸い込んだ。扇のような葉陰に、大好物の茫栗(マンゴスチン)がたわわに実るのを見つけて、ひとつもいだ。 「ああ、いきなり食べてはいけません。貸してください」  言うなり手を出されたので仕方なく差し出すと、蘇芳はその丸い実を長い指でつまんだ。実の真横に親指の爪で筋を入れてから、上下をぐっと押し込む。  すると分厚い茫栗の皮はあっけなく割れ、赤々といびつに口を開けた果皮の中から、深窓の姫の乳房のような真っ白な果肉の丘が現れた。ピンと皮を張って並んだ柔らかそうな房のひとつが、爪で剥かれて唇の間に吸い込まれていく。 「ふむ……よく熟していて美味。これならばお腹を壊すことはないでしょう」  皮の色素で赤紫に染まった親指の先をちゅっと舐め、ひとつ減った黒紅色の実を儚那に手渡した。 「あっ、ありっ、……ありがと……」  なぜか目のやり場に困って胸が鳴り、儚那はつい三房もいっぺんに頬張って見事に咳き込んだ。 「大丈夫ですか?」  近づかれると余計に苦しくなる。以前はこんなことはなかったのに、自分はどうしてしまったのか。  咳が落ち着くのを待ちながら、二人で濡れた浜辺に足を浸した。  高い透明度を誇る珊瑚礁の浅瀬には、優しい黄土色の波と青い光の網が揺れている。 「昨日は──」  その水模様に目を細めながら、蘇芳が切り出した。 「昨日は姉宮様に、ようおっしゃいましたな。宮様とは一度話し合うた方がよいとは私も思いましたが、私の立場からそれを申し上げても、きっとお心には届かなかった。仲の良い弟君の進言なればこそ、姉宮様はお気持ちを踏み出せたのです。私も嬉しゅうございました」  ザザザザン……小波が寄せた。  海に臨む蘇芳の横顔は冴えた白磁の花器のようで、儚那は一瞬、返す言葉を失った。   「どうか?」 「あっ、いやその、ね──ねえさまと、宮様とは、とても深いご縁で繋がっていると、思うから……」 「はい」  精緻な花器がにっこりと笑む。  ふと、運命などという言葉が心に浮かんだ。  『お前に会ったのは、きっと運命だな──』  前に誰かに、そう、八熾に言われた言葉だ。 「……蘇芳は」 「何です?」 「蘇芳は、運命を信じる?」  問うと蘇芳は目を(しばた)かせ、は、と声を出した。 「さあ、私はそんなものは信じません。まるで目の前のものを投げ出して、情や幻の中に逃げ込むような不確かな言葉です。(らち)もない」 「そう……よかった」 「けれど、もし──」   つと腰を折ってしゃがみこむと、蘇芳は浜辺に打ち寄せられた小さな桜貝を拾い上げた。 「もしもこの世に運命と呼ぶものがあるのなら、それは大海を漂う貝の片割れを見つけ出すようなものだ」 「貝の、片割れ……?」 「ご存じないか? 古来より二枚貝は一対になっていて、決して他の貝と合うことはありません。それがこの海の中で散り散りになってしまっては、再び片割れと出会うことは、奇跡と言えましょう」  翡翠の海を紅に変える落日に向かって、蘇芳は桜貝をかざした。 「そんな奇跡ならば、或いは運命と呼べるのかも──」  かざした貝の白い腹が、夕陽を集めて鈍く光った。

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