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第62話 南方烈氏鵺の乱⑥

 この戦が終わるまでは、その辺に伸びててもらうしかねぇなぁ──。  独り言のように呟くと、赤目は風のように間合いを詰めて儚那のみぞおちに拳を打ち込んだ。 「──!」  呼吸を止められる苦しさに悲鳴も出ず、儚那はほとんど無意識の所作で直刀を大地に突き立てた。    倒れたら終わりだ。気絶すれば命はない。 「……かはっ……ぐっ……」  まだだ。まだ終われない。  白目を剥いて落ちかけたが、耐えて踏み留まった。口から血泡が吹き出し、視界と脚ががくがくと揺れる。  望まれもせず生まれてきたこの身だった。  生きることは喜びよりも、悲しみの方が遥かに多いものだと知った。  それでもきっと諦めない。  たとえ肉体は滅び魂だけになり果てても、この世界を信じている。絶対にこの国を守り抜く。 「たいした根性じゃねえか。骨のあるやつをなぶり殺すのは愉し……」     赤目が近づいてきたところで、儚那は胸に隠していた懐剣を抜き、首を狙って突き出した。が、赤目はかまいたちのような動きで跳び去りそれをかわす。 「……てめえ……」  首にわずかな傷を負った赤目の体に殺気が灯る。  儚那はぜいぜいと息をつき、直刀を引き抜いて両手に構え直した。  赤目がチッと舌打ちをする。 「もういい分かった。そんなに死にてぇんなら今殺ってやる!」  多くの血を吸い込んできた柳葉刀が、ぎらと光って振り下ろされる。  儚那はとっさに直刀をかざし刃の横腹でそれを受けた。が、剣の重みに耐え切れなかった直刀の刃は、パンと砕けて散り散りになった。 「あ……」  唯一の守りである剣までが砕け散った。  懐剣を拾う暇はない。弓を取る間もない。  もはやなす術が無かった。  儚那は肉体の死を悟り、目を瞑った。 (月虹国、万歳────)  黙して覚悟の時を待ったが、頭蓋を叩き割られる痛みはいつまでも来なかった。  恐る恐る目を開くと、柳葉刀の刃は儚那の頭上一寸のところでぶるぶると留まっていた。  殺気に満ちた敵の目は限界まで見開かれ、噛み締める歯と歯の間からたらりと鮮血がこぼれていく。 (いったい……?)  自分は助かったのか、違うのか?  恐ろしい目に睨み付けられ逃げることもかなわない。  が、やがて赤目の位置が、ズ……ズ、と斜めにずれた。  ズ、ズルリ、上体と下肢がしだいにずれて、その体の隙間から真っ赤な鎧が見え始めた。 「す、……」 「ご無事か、ひい様!」  儚那は初め、それを赤い鎧だと錯覚した。  けれどその肩に刻まれた紋様は紛うかたなき王国の印。  白銀のはずの鎧は、無数に浴びた返り血のために名の通り蘇芳色に染め上がっていた。 「あ……」  蘇芳が生きていた。いったいどれほどの死線を越えたかも知れない鎧、それでも、生きてまた会えた。 「ひい様っ!」  ふっと意識が遠のいて、必ず抱き止めてくれる腕を信じるように脚が崩れた。  その信頼性の通りに、逞しい腕が儚那の体をしっかりと支えた。 「な……ぜ、そなた、こんなところに、いる……王宮から動くなと、あれほど……」  止めようにも止まらない涙が頬をあたためていく。 「ご心配には及びませぬ。王宮と後宮は、帰還した王宮軍と我が隊がともに戦い、これを守りました。ゆえに生き残った王宮軍の将二人と私の副官に王都は任せ、私は私兵二百騎を率いて鵺を追い、ここまで参ったのです」 「……みんなは……」 「無事です、ご安心を」 「……そう……」  まだ何も終わっていないのに、ひとかけらの安堵をつかんで涙に変わった。 「しかし、そなた……王命に、叛いたのか……」  背を支える掌の熱が、鎧越しにも伝わって来る心地がした。  次に会うのは冥府だと思っていた。  それが、生きてこの地上でまた会えた。  藍色の瞳の奥に海が見える。その海に、脆弱な我が身が漂っていた。 「私の許可なく、持ち場を離れた罪は、お、重いぞ……」  やっと分かった。やっと本当に受け入れることができた。  自分は、この心には、彼が────きっと住んでいるのだと。

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