70 / 75
第70話 月虹国の恋姫①
まんじりともできない夜が明けると、儚那はひとり浜辺を歩いていた。
離宮同様、王宮の森にも最奥地には王室専用の海が設けられている。随所に警備の者は配置されているが、王族が羽を伸ばす場所であるため滅多に姿を見せる事はない。
濡れた浜辺がまだ素足に冷たい冬の終わりに、優しい陽の光に照らされた足元へ波がひとひらの貝を連れてきた。
何気なくそれを拾いあげると、右手でもてあそびながら乾いた砂地に場所を移した。座って膝を抱え、白砂を指で掻く。なにかしていないと気が変になりそうだった。
できる事なら帰りたい。そうだ、やっぱり帰ろうか──逃げ腰になってきたとき、
「あの……」
よく知る声が背後から響いて、心臓がどんと脈を打った。
「こちらでひい様がお待ちだと、春麗たちに聞いたのですが」
おずおずとかかる声に応えられずに、うつむいて少しだけ頭を縦に振った。左側の影が濃くなる。蘇芳が隣に腰を落としていた。
近い。息づかいさえ分かるこんな距離では、とてもかなわない。砂を払うふりをして立ち上がろうとしたが、
「凄いな……」
当たり前のように左手を取られて、指で掌を広げられた。その指が弓術でこしらえた儚那の手の豆をなぞる。
「こんなになるまで、本当によくがんばりましたな」
呆れ混じりの感嘆をされても、応えられずに目を伏せた。
「その、昨日の謁見のことなのですが──」
「……」
次は核心を突かれそうになる気配に体がこわばった。
「身分の別なく──という、あのお話の後で私をここに呼んで下さったという事は、あれは私のための措置であったと、うぬぼれても良いのでしょうか……」
探り探りの問いかけにも、儚那はただ唇を噛んだ。顔が耳まで熱くなっていく。
掌に触れる手指の温かさは、心地よいはずなのに酷くつらくもあった。
「逃げないということは、是 と受け止めても、良うございますか……」
畳みかけての問いかけに、たったひとこと、『是』と言えばいい。それがなぜこんなにも苦しいのか。
答える代わりに儚那は、右手に持っていた貝殻を左手の上に転がした。
「これは、桜貝ですか。綺麗だ」
蘇芳は、あ、と気がついたように官服の内袋を探ると、いつか離宮の浜辺で拾った二枚貝を取り出した。
「持っていたのを忘れていました」
にこりと笑んで、つまみ上げられた蘇芳の貝。その貝に、儚那はたわむれに自らの貝を近づけた。
するとあちらも近づいて、貝のフチに貝が重なる。
はじめ所在なく触れ合っていた貝たちは、しかしあるところで吸い付くように、不意にかちりと重なり合った。
「え……?」
重なって、それきり貝は動かなくなった。
一分の隙間もなくぴたりとはまっていた。
儚那は驚いて顔を上げた。するともっと驚いたような目と目があった。
ザザ…… ザザザ……
離宮で交わした言葉と波が、潮騒とともに押し寄せる。
──蘇芳は、運命を信じる?
──さあ、私はそんなもの信じません。
けれど、もし──もしもこの世に運命と呼ぶものがあるのなら、それは大海を漂う貝の片割れを見つけ出すようなものだ。
大海に漂う貝の片割れを、見つけ出すようなものだ──
儚那は何も言葉にできずにただ、海と同じ藍色の瞳を見つめ返した。気が付いた時には涙があふれて頰を伝っていた。
ふたりはどちらともなく近づくと、唇を重ねた。
静かに寄せる波音だけが辺りを包み込んでいだ。
ともだちにシェアしよう!