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第70話 月虹国の恋姫①

 まんじりともできない夜が明けると、儚那はひとり浜辺を歩いていた。  離宮同様、王宮の森にも最奥地には王室専用の海が設けられている。随所に警備の者は配置されているが、王族が羽を伸ばす場所であるため滅多に姿を見せる事はない。  濡れた浜辺がまだ素足に冷たい冬の終わりに、優しい陽の光に照らされた足元へ波がひとひらの貝を連れてきた。  何気なくそれを拾いあげると、右手でもてあそびながら乾いた砂地に場所を移した。座って膝を抱え、白砂を指で掻く。なにかしていないと気が変になりそうだった。  できる事なら帰りたい。そうだ、やっぱり帰ろうか──逃げ腰になってきたとき、 「あの……」    よく知る声が背後から響いて、心臓がどんと脈を打った。 「こちらでひい様がお待ちだと、春麗たちに聞いたのですが」  おずおずとかかる声に応えられずに、うつむいて少しだけ頭を縦に振った。左側の影が濃くなる。蘇芳が隣に腰を落としていた。  近い。息づかいさえ分かるこんな距離では、とてもかなわない。砂を払うふりをして立ち上がろうとしたが、 「凄いな……」  当たり前のように左手を取られて、指で掌を広げられた。その指が弓術でこしらえた儚那の手の豆をなぞる。 「こんなになるまで、本当によくがんばりましたな」  呆れ混じりの感嘆をされても、応えられずに目を伏せた。 「その、昨日の謁見のことなのですが──」 「……」  次は核心を突かれそうになる気配に体がこわばった。 「身分の別なく──という、あのお話の後で私をここに呼んで下さったという事は、あれは私のための措置であったと、うぬぼれても良いのでしょうか……」  探り探りの問いかけにも、儚那はただ唇を噛んだ。顔が耳まで熱くなっていく。  掌に触れる手指の温かさは、心地よいはずなのに酷くつらくもあった。 「逃げないということは、()と受け止めても、良うございますか……」  畳みかけての問いかけに、たったひとこと、『是』と言えばいい。それがなぜこんなにも苦しいのか。  答える代わりに儚那は、右手に持っていた貝殻を左手の上に転がした。 「これは、桜貝ですか。綺麗だ」  蘇芳は、あ、と気がついたように官服の内袋を探ると、いつか離宮の浜辺で拾った二枚貝を取り出した。 「持っていたのを忘れていました」   にこりと笑んで、つまみ上げられた蘇芳の貝。その貝に、儚那はたわむれに自らの貝を近づけた。    するとあちらも近づいて、貝のフチに貝が重なる。  はじめ所在なく触れ合っていた貝たちは、しかしあるところで吸い付くように、不意にかちりと重なり合った。   「え……?」  重なって、それきり貝は動かなくなった。  一分の隙間もなくぴたりとはまっていた。  儚那は驚いて顔を上げた。するともっと驚いたような目と目があった。  ザザ…… ザザザ……  離宮で交わした言葉と波が、潮騒とともに押し寄せる。  ──蘇芳は、運命を信じる?  ──さあ、私はそんなもの信じません。 けれど、もし──もしもこの世に運命と呼ぶものがあるのなら、それは大海を漂う貝の片割れを見つけ出すようなものだ。  大海に漂う貝の片割れを、見つけ出すようなものだ──  儚那は何も言葉にできずにただ、海と同じ藍色の瞳を見つめ返した。気が付いた時には涙があふれて頰を伝っていた。  ふたりはどちらともなく近づくと、唇を重ねた。  静かに寄せる波音だけが辺りを包み込んでいだ。

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