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第18話

心も身体も傷つき、笑顔を見せなくなった真くんを 少しでも癒やしてあげたくて 鎌倉の別荘へ連れてきて半月が過ぎた。 初夏の風が、湿った空気を孕んで 庭の紫陽花を揺らしている。 窓の外を眺める、その視線の先 色とりどりに、鮮やかに色付いて咲き誇る紫陽花が 真くんの瞳にはどんな色に映っているのか・・・ 言葉もなく、静かに佇むその姿に不安が募るばかりだった。 西島先輩や弁護士と相談の上で 子供達には黙って、真くんを別荘へ連れて来た。 偶然、暴行の現場に居合わせて 真くんを家に連れ帰ってきてくれた子供達には 本当に感謝している。 しかし、教師という立場で 彼らと向き合わなければならないのは 今の真くんには苦痛以外の何ものでもないだろう。 現に脩が朝晩、元気づけようとしている様子は健気で 我が息子ながら、その優しさは見習いたいものだが 真くんが心を開くにはまだ日が浅いのも事実だった。 せめて・・・ もう少し傷が癒えれば 脩とも話せるようになるだろう。 ただ・・・ この判断に誤算が生じる。 まさか真くんを捜して、別荘へやってくる程 脩が彼に深い想いを抱いているとは思ってもみなかった。 俺は、あの頃と変わらず自分勝手で 家族より真くんの事しか見えていなかった。 否、彼の事だって・・・ 本当の気持ちを思いやる事も 言葉の裏側にある真実も見えてはいなかったのだ。 『自分が芹沢さんを誘ったから・・・  自業自得なんだよ・・・』 それ以外の言葉を発しない真くんが痛々しくて 彼を守れなかった自分の力のなさが歯痒くてたまらず 彼がどんな想いで、恭一を庇っているのか 何故、そうしているのか・・・ その理由を知ろうともしないで ただ、俺は恭一を憎んでしまっていた。 恭一が俺に、想いを寄せてる事も 真くんが理事と関係を持っていた事も・・・ 俺は知らないまま 闇雲に、憎しみだけを深くしていたのだ。 あの日・・・ ホテルで、真くんを抱き潰し 何も言わずに置き去りにした自分を棚に上げ 俺は昔と何も変わらないまま・・・ 他人ばかりを責めていたに過ぎない。 それに気づいていれば・・・ 気持ちよさそうに寝ていた彼を起こすのが 心苦しかったなんて、都合のいい綺麗事だろう。 目を覚ました真くんに 「・・・やり直したい・・・」と 告げる勇気の欠片さえなかったのだ。 ・・・断られるかもしれない・・・ それが怖くて 自分が抱いている気持ちを 素直にはっきりと告げる事が出来なかった。 たとえ・・・ 想いを告げられなくとも 抱きしめ続けていれば・・・ メモだけを残して、彼をひとりになんてしなければ こんな事にはならなかったのに・・・・ 後悔ばかりが胸をよぎり 心が押し潰ぶされそうだった。 今、自分に出来るのは 彼をひとりにしない事と 自分の腕の中から離さない事だと 思い込み過ぎて 真くんの自由さえ奪ってしまっていたのに そんな事にも気づけない程に俺は・・・ 後ろめたさと、自分よがりの欲望に飲み込まれ 俺は、自分の思い通りに事が運ぶ事だけが 正しいのだと勘違いしていたのだ。 「真くん・・・もう食べないのかい?  もう少し、食べないと治るものも治らないよ?」 取れたての魚の刺身を 二口ほどつまんで、箸をおいてしまった真くんへ 少しおどけて、話しかけてみるが 「・・・ごめん・・・  でも・・・もうおなかいっぱいなんだ・・・」 そう言って、ついっと気まずそうに目を逸らす真くんの横顔と 青く薄い瞼が、あまりにも綺麗で 思わず見惚れてしまう。 彼がこんなにも、傷ついた原因は 少なからず自分にあるのに・・・ 肋骨だってひびが入って 所々、紫色に変色した痣と瘡蓋が残る身体の真くんに 欲情してしまってるなんて・・・ 一体、自分はどれだけ彼を欲していたのだろう・・・ 離れていた間は、想いに蓋をして 思い出さないようにしていたから平気だったのだろうか? そばに置いて、彼の匂いや温もり そして、ほんのりと熱のこもった眼差しを向けられるだけで どうして十数年も離れていられたのか、不思議で仕方がなかった。 俯いたまま、静かに立ち上がり 部屋へ戻ろうとする真くんの細い手首を 気付けば、捕まえていた。 「っ・・・亮一くん?  ・・・痛いよ・・・」 行かせたくない気持ちが流行り過ぎて 握った手に力がこもり過ぎたのか 真くんは、びくりと身体を固く緊張させる。 震える唇からは、消えそうな声音で 俺の名を呼ぶ呟きが漏れた。 今にも泣き出しそうに揺れた瞳と目があった瞬間 煽られるように、彼を強く抱きしめていた。 「・・・真くん、好きだ。  もう離さないから・・・  二度と、離さないから・・・」 俺の言葉が耳に届いているのか・・・ 真くんは、ガタガタと震えながら 抱きしめられるだけの人形のようだった。 「大丈夫・・・大丈夫だから・・・  真くん・・・俺だよ・・・亮一だ。  もう、誰にも触れさせたりしない。  だから、安心して・・・」 背中をさすりながら、何度も何度も 彼の名前を耳元で呼び続ける。 何度も「大丈夫だから」と 優しく声をかけ続けて彼の名を呼ぶ。 やがて、力なく身体の重みを俺に預けた真くんから 悲痛な嗚咽が溢れ出した。 「・・ごめ・・・ん・・・  ごめん・・な・・さい・・・・」 誰に謝っているのか・・・ 泣きながら 「ごめんなさい」と声にならない吐息のような言葉を溢れさせる彼を 俺はただ、抱きしめるしか出来なかった。 どれほどの時間、そうしていただろうか? 泣くだけ泣いて落ち着いたのだろう。 彼は、ふうっ・・・と溜め息を漏らして 俺の胸に預けていた頭を持ち上げた。 痩せた頬を伝う涙を、指先で拭えば 真くんが閉じた瞳を細く開けて 鼻先が触れる距離で俺を見つめる。 「・・・先生・・・」 この時に気付くべきだったのかもしれない。 何故、真くんが俺を見つめ『先生』と呟いたのかを。 だが俺は彼の囁いた声をさらりと流してしまい どんな言葉を重ねるよりも たったひとつのキスや 身体を重ねる事で 気持ちを伝えあえる場合がある・・・ また、自分勝手に事を進めてしまう。 「・・・真くん・・・愛してるよ・・・」 その言葉に、彼の瞳から またぽろぽろと綺麗な涙が零れ落ちる。 俺はそれを唇で受け止め 唇を重ね合わせた。 ふるっ・・・と震えた身体をギュッと抱きしめ 「・・・愛してる・・・」と俺は愛の言葉を繰り返した。 唇の隙間から、中に舌先を入れて くちゅり・・・と水音が響きだすと 真くんが「・・・嫌だ・・・」と首を横に小さく振った。 「・・・ごめん・・・怖かった・・・?」 思わず、抑えきれない欲情に負けそうなるのを耐え 唇を離し真くんに訊けば 「ち、ちがっ・・違うの・・・」 「ん・・・何?  ・・・・・言っていいよ?」 真くんは、ゴクリと唾を飲み込むと震える声で・・・ でも・・・俺の目をしっかりと見つめて 「・・・俺・・・よ、汚れてるから・・・  凄く、汚れてるから・・・  先生とは、もう・・・出来ない・・・」 その言葉にハッと息が止まってしまう。 そんな事ないのに・・・ そんな事、考えてもみなかったから。 「・・・汚れてるんだよ・・・  だから・・・もう・・・  あの時みたいに、俺を抱けないって言ってよ・・・」 そう言うと、また俯いて 小さく嗚咽を漏らした。 真くんの様子がおかしい。 こんな風になるまで俺は・・・ どれだけ真くんを傷つけてしまったのだろう。 「・・・真くん・・・  きみは汚れてなんかいない!  ずっと・・・  ずっと忘れられなかった・・・  真くん、きみを心から愛してるんだ」 ふるふると、首を横に振る真くんの頭の後ろに手を回して 唇を塞ぐ。 「・・・やだ・・・汚れ・・てる・・・」 そう、繰り返し 抵抗する真くんの身体を押し倒して シャツの隙間から手を入れて、滑らかな肌を撫でた。 「汚れてなんかいないよ・・・  ・・・凄く、綺麗だ・・・」 「・・・先・・生・・・?」 「・・・うん?」 俺の下で、体温を上げ始めた真くんが 「・・・信じて・・・いいの?」 そう訊いてくるその瞳は不安で揺れていた。 「・・・真くん、愛してる・・・  俺を・・・許して欲しい。  ・・・やり直したいんだ・・・  身体だけじゃなく、心も・・・  離れていた時間も・・・  全て繋ぎいで巻き戻したい・・・」 思いを込めて見つめ返すと 真くんの腕が、俺の背中に回り ギュッと抱きしめられた。 「・・・先生・・・ありがとう・・・」 真くんが、何度めかの涙を零し 俺達は、やっと・・・ 心も身体を重ね合わせる事が出来た。 それが・・・ 浅はかな俺の欲望が、また真くんを傷つけ 脩を傷つけることになるなんて 思いもよらずに・・・ この時の俺は・・・ 真くんの温もりと熱に溺れてしまっていた。

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