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瞬きをしている間に日は沈み、夜になる。月が高く昇った頃、また男が現れた。
「今晩は。鬼の君」
口を開かずに顔を背けたが、男は微笑んだまま正面に座った。
「本当は朝に遣いを出して手紙を送りたかったのですが、私以外の者ではこの屋敷から帰ってくる事ができなかったでしょうから」
そう言って男が1枚の紙を差し出してくる。ごちゃごちゃと墨で何かが書かれていた。一応字は読めた筈だが、我の知る文字とは随分違う。
「何だこれは?」
「貴方を想う歌です。如何ですか? もしよろしければ、こちらに」
男は更に何も書かれていない紙と筆を取り出した。
「こんな文字我は読めぬし、書けぬ」
紙を放り投げると、男は何度か瞬きをしてから「これは失敬」と言った。
「ならば少々気恥ずかしいですが、読み上げましょう」
男は声高らかに紙に書かれていたらしい歌とやらを読諳んじた。要約すると、我の美しさに目を奪われて寿命が千年どころか1万年延びたらしい。そんなわけあるか。
男は口を閉じてから期待に満ちた目で我を見る。あまりにもその視線が煩かったから適当に手を叩いてやった。すると男はちっとも嬉しくなさそうな顔をする。
「用が済んだなら帰れば良いだろう」
「返歌は無いのですか」
「別に我は何処も変わってない。術であれば失敗したんじゃないのか」
「嗚呼……まさか知らぬとは。いいえ、人の文化は鬼には通じなくても何ら不思議はありません」
男はあからさまに肩を落としたが、すぐに気を取り直したのか、歌の返事を同じように歌で返す事だと説明する。
だが我は歌など知らない。物欲しそうな視線を感じて仕方無く一言返してやった。
「鶴にも遠く及ばぬ」
これで満足かと男を見れば、眉が下がっている。
「私の想いは届きませんか」
「逆に問うが、何故届くと思っている?」
「貴方がこうして私と話してくださるからです」
「獲って食う機会を伺っているだけだ。あまり妖を信用するな」
「肝に銘じておきましょう」
男はまた我の髪を弄りだした。今日は櫛を使って髪を梳いている。
「長い髪など珍しくないだろうに」
「貴方の髪は特別です」
一通り梳いて満足したかと思えば、急に花の匂いが漂い始めた。男は匂いの元である油を手に取り、髪に刷り込んでいく。
「何だそれは」
「髪油です。椿は良い匂いでしょう? 貴方の為に取り寄せたのです」
我の髪だというのにやりたい放題だ。だが匂いは悪くない。悪意も見えないから好きにさせる。我よりもこの男の方が強いのなら、蹴散らすよりも飽きるか死ぬのを待った方が楽だ。
男は髪を弄りながら1人で喋り続け、夜明けが近付いてからやっと立ち上がった。
「では、また明日」
「さっさと去ね」
「貴方が口吸いをしてくださるのなら、私は馬より速く走り出す事ができるでしょう」
冗談めかした言葉に、何故か餌を咥えたまま走る馬を想像してしまう。面白かったからつい、男に唇を押し付けてやった。
「やれるものならやってみよ」
男は数回瞬きをした後、紙に筆を走らせてから即座にこの家を出て走り去っていった。
「あっという間に見えなくなったか」
思いの外俊敏だったようだ。当然馬には敵わないだろうが、人間の中では圧倒的に速いだろう。
「でなければ昨日のうちに我に食われていたな」
男の感触を思い出し、無意識に舌なめずりをする。今まで気にも留めていなかったが、人間の唇というものは柔らかく甘美だった。置いていかれた紙には、1枚目とはまた別の文字が書かれている。
「読めぬと言っているだろうが」
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