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 その日は初めて空の色を気にした。日が沈むのを望み、男が来るのを待つ。  だが男が来ないまま、また日が昇った。首を傾げている間に3度日が沈み、月が昇る。 「もう満足したか」  息を吐けば、何者かが家に侵入する音がした。それも複数だ。という事は、我が待つあの男ではないようだ。火を幾つも焚いてブツブツと何か言いながらぞろぞろと家の中を歩いている。歩きながら淡々と規則的に喋り続けているという事は、きっと術でも唱えているのだろう。奴らも陰陽師らしい。 「喧しい……」  さっさと始末してしまおう。顔を隠して女人の声色を作り、陰陽師どもを誘い出す為に声を出した。 「ああ恐ろしい……助けておくれ……」  予想通り、突然聞こえた声に驚いたらしい陰陽師どもが慌て始めるのが見えた。   「鬼だ、鬼が出たよ……助けて」 「こっちだ」  我の居場所に気付いた1人が近付いてきた。他の者は少し遅れてこちらへと向かってくる。  そうだ。こちらへ来い。あと5尺……4尺……2歩、1歩。今だ。  陰陽師どもに顔を見せたのと同時に、最も近くにいた者の腕を掴んで引き寄せた。捕まえた者の悲鳴と、他の者の術らしき言葉が重なる。だが、そんなものは我には効かぬ。着物越しに細枝で叩かれるようなものだ。伸ばした爪で掴んだ者の服を裂き、食らう為に口を開けた。だが―― 「止めなさい」 「ぐッ……」  歯を突き立てようとしたその瞬間、聞き覚えがある声を聞いたのと同時に、急に体が締め付けられた。反射でつい食らおうとした者から手が離れる。それっきり身動きが取れなくなった。 「晴様!」 「晴様、ありがとうございます」  我を締め付けたのはやはりあの男だった。ハル様と呼ばれているらしい。人間どもばかりに構ってこちらを見ようともしない男を恨めしげに睨む。  1度我に興味を抱いたと言っても所詮は男も陰陽師。ただの人間なのだ。この状況で我を逃がす馬鹿ではないだろう。大人しく目を閉じ、自分の命が尽きるのを待った。  だが、男は人間達に帰るよう促しているようだ。次第に人間の気配が消えて行く。やがて1人分の呼吸音しか聞こえなくなり、我は目を開けた。 「起きましたか」 「別に寝てはいない」 「失敬。焦って少々乱暴にしてしまいました」  ふっと締め付けから解放される。男は相変わらず我を見て機嫌が良さそうに笑うが、どこか疲れているようにも見えた。 「何故我を祓わぬ?」 「狂おしい程に貴方に心を奪われてしまったからです。貴方を失う事は――ましてや自分の手で祓うなど私にはできません」 「酔狂な男だ。愚かな事よ」  それよりも、と男が居住まいを正して我を見た。   「文も送れず約束を破ってしまい、4日も姿を見せる事ができず、申し訳ありません」 「我にはその程度、人間が1度欠伸をしただけで過ぎる時間に等しい。それに、貴様が勝手に言っただけで我は約束をしたつもりはない」 「それでも私は寂しかったです」  男がそっと我の手を握る。男の手は柔く生温かくて触り心地が良い。だがどんな味、食感だろうとは考えなかった。 「寂しがるなら4日も空けなければ良いだろう」 「私は陰陽師ですから、呼ばれてしまえば何時であろうと仕事に行かなくてはなりません。私にしかできない事ですから」 「貴様は我よりも仕事を選ぶのか」  そんなに仕事が大事ならば仕事と結婚してしまえ。不満を顕にして唇を尖らせると、男は何故か嬉しそうな顔をした。 「もしかして妬いてくれているのですか?」 「ふん。我に愛の言葉を囁いておきながら、我より優先する事があるのは腹が立つだけだ」 「それを妬いているというのです」  そう言われてしまえば何も言い返せない。この男の言う通りなのだろう。  無言で男を見ていると、男の手が今度は顔に触れる。そのまま唇を重ね、褥に押し倒された。何をされるのか分かったが、敢えて流される事にした。  男が目を覚ましたのは、もう少しで日が昇り始めるという頃だった。さり気なく出て行こうとしているが、内心焦っているのが見て取れる。そのくせ、惜しそうにちらちらと我を見る視線が煩くてつい声を掛けた。 「そんなに急ぐ必要は無いだろうに」 「折角貴方をこの腕に抱く事ができたのです。間抜けで常識の無い男などと思われては堪らない」 「我は人の常識など知らぬし、貴様は既に十分変わり者だ」 「鬼の君らしい言葉だ」  話している間に空が白み始めてきたようだ。男は「ああ……」と小さく声を漏らす。全く、こうも忙しい生き物は人間くらいだろう。  男は何度もこちらを振り返り、少しずつ外に向かって進んだ。 「そんなに見ても引き止めないぞ」 「それは残念です」  男は少しも残念ではなさそうな調子で言い、少し何かを考える素振りを見せてから、何年も閉めっぱなしだった妻戸を開ける。眩しいと文句を言ったが、最後まで開ききってしまった。   「今日は良い天気ですよ。貴方もこちらに来て見てみては――」  こちらを振り返った男の言葉が止まる。口を半開きにしたまま我を見ていた。 「何だ?」  その問いには答えず、男は我を晴天に浮かぶ雲に喩える歌を詠んだ。   「何故そうなる」 「雪の方がお好きでしたか。しかし明るい時間に見る貴方はこれ程まで白く美しいとは」 「どうでも良い」  見た目を何に例えられても鬼は鬼だ。我である事に変わりはない。   「では、また今夜。紫雲」 「……しぐも?」 「気品があり白く美しく、決して人には手が届く事ない。たとえ届いても、掴んで引き寄せる事はできないでしょう」 「それで雲か」 「貴方は私が知る中で最も美しい」  紫が「最上級」を表すのは我が人間の生活に興味を抱いていた頃と変わっていないらしい。男は再度「紫雲」と我を呼んだ。 「気に入りませんでしたか」 「好きに呼べ」 「ありがとうございます。では、貴方も私の名を呼んでくれませんか?」 「妖に真名を教えて良いのか」 「貴方だけですよ」  男の名は晏晴行というらしい。晏(やす)らかに、晴れ行くと書いてハルユキだと言った。  伝えただけで満足したのか、時間に追われているのか男は今度こそ去っていく。  その背中を見送るついでに、空を見上げた。男が言っていた通り、今日は太陽が出ている。 「何だ。人間には手が届かぬと言っておきながら、結局我は貴様のものではないか」    青空に浮かぶ雲を見て思わず呟いた。それを分かっていて名付けた筈だ。だが、嫌悪や怒りなど不の感情は湧かない。寧ろ悪くないと思う。 「今宵も待っているぞ。晴行」  晴行は約束通り、その晩も次の晩もこの家に訪れては我を抱いた。  

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