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第7話 わざと…

 シャワーを浴びて念入りに身体を洗い、湯舟に浸かる。  虫が入ってくるから窓は開けないが、青空の元、こうしている時間が好きだった。摺りガラスの向こうの緑や青空を、こうして眺めていた。  潜入というよりこの家に寄生していたときは、徳重が出掛けたのを確認すると入浴タイムだった。家人にバレないようにするには、家人の居住時間に就寝することだ。起きていればトイレに行きたくもなるし、生活音を一切立てないことは難しい。だが、眠れない日々を送ってた俺には、難しいことだった。  湯舟で膝をたて、顎をのせてぼんやりする。  あの頃、膝にはまだ、男が掴んだ跡が残っていた。首には吉川線、手首には結束バンドの後もあった。目を瞑ると、聞こえない嘲笑が聞こえ、息が上がった。暗闇が怖かった。夜は眠れない。痣が薄れるように、闇も薄くなればよいのに。  丸まって祈った。  手が太腿の銃撃痕に触れた。陥没している。これは前回の事件で作った傷だ。運が悪ければ歩けなくなることも、死ぬこともあった。軽々しく撃たせるようなことをしたと、徳重は怒っていた。 「俺の好きな、綺麗な脚に何してくれてんだ」  本意は別にある。静かな怒りを瞳に称えていた。これくらいなんでもない、軽く考えていた俺はあの時初めて理解した。 「傷は傷。闇は闇からしか生まれない」    *  薗田が盗んだとされる数丁の銃は行方不明のまま。ただ、それらしい代金を払ったのが、筒美会のフロント企業で金庫番として働いていた徳重だった。銃の行方を知っている可能性がある。筒美会壊滅を受けて捜査本部は解散となったため、本来、追う必要もないのだが、鄭社長の進言を、課長に伝えた。  関係者として追跡ができるのは、徳重と、その会社社長だけだった。組とズブズブだった社長については、別班がすでにあたりを付けていた。引っ張る理由もいくつもあったし、真っ先に逃げたので優先にされていた。  「受け取らない」という代わりに再び辞表が机の上で滑らせながら、課長が愚策を口にした。 「そいつ、張ってみたら? 田舎? 山の中の一軒家? なんか、ほら、潜入とか、どう?」  どう? って。不応侵入に光熱費の窃盗……罪名を列挙すればキリがないほどの潜入捜査を、警察が認めるわけがない。 「大丈夫。こいつは白って見分けておきたいだけだからさ」  何日か張って、近所の温泉とか行楽地とかでハネ伸ばし……いや、聞き込みとかぁ。言いながら、辞表を掴むと俺のスーツを引っ張って、ポケットに戻した。 「大丈夫。好きなだけ行ってきて。なんとかするから」  うんざりだ。  でも、仕事に戻る気もないし、ぼんやりしていても仕方ないので、違法ながらも潜入することを決めた。  鄭社長のところの戦闘員は、大きな胸の下で腕を組みながら、暗い瞳で見つめてきた。 「傷は傷。闇は闇からしか生まれない」  この家へ送ってくれる車中で、彼女は一言も話さなかったが、家の前で荷物を受け取ると、そういった。あの事を、知っているのかと思うと、目も合わせられなかった。  ここで生活するようになって、徐々に傷は薄くなり、小さくなりやがて消えていった。  残されようと消えようと、傷が生まれた理由も、痛みも忘れ、傷はやがて消える。絶えず血を流し続ける闇を、俺は傷だと思っていた。  闇には光を当て、散らしていくしか癒しようがないのだ。傷として残った心の闇を、傷と捉えるから苦しむのだ。  ただ、あのころは意味もわからず、本能的に、徳重という眩しい存在に、頼っていたのかもしれない。    *  庭の隅にいたはずのニワトリが屋根の上にいた。飛べないと言われている鳥が、どうやって屋根に上ったのか、庭に佇んで考える。  雨の日に、徳重が部屋に入り込んだニワトリを追い出そうと必死になっているのを、壁越しに何度が聞いた。俺が昼間ウロウロしていても、部屋の中に入ってきたことはないのに。ニワトリにも好みがあるのだろうか。  寄生していた北の個室に向かう。  壊されていた扉と取っ手がはめられているので、軽く回すとスムーズに開いた。子ども用の勉強机には、スタンドライトと、置いていった小説が積んである。東側の窓は土砂で埋まっており、南の窓も日中の半分は雪崩れた土砂のせいで、暗い。  机に触れながら、ここで初めて交わったことを思い出す。  油断……ではない。  話してどうにかなる相手ではないとわかっていたし。考えなしの行動だったと言った方が、誰もが納得するだろう。見つかってからも、いくらでも逃げる機会はあったのに。人だろうと妖怪だろうと、「犯りたい」という彼の欲求は鮮明であり、応える気がなければ逃げるしかない状況だったのに、そうしなかっただけ。  歯ブラシやTシャツ、食品を盗めば獣どころか、何者か居るということはばれてしまう。  なのにわざと、夜中にうろついたりもした。  朝、迎えにくるエロ話ばかりする兄さんと焼肉をしていた時も、わざと音を立てて追っ払おうと思ったり。朝ごはん用にと残した徳重の肉を夜中に食ってやった。  一瞬、寝ているはずの徳重と、目があったような気がして近寄ってみたが、瞼は頑ななほど閉じていた。軽く首を締めてみたが、気づかないふりをされてしまった。  俺は気づかないうちに死んで、幽霊になっていたのかな?  Tシャツを着る。立てかけてあった布団を敷いて、洗い立てのシーツを張る。頬をつけると太陽の匂いがした。  あいつはもっと泥や草の匂いもまとっている。  あの時と同じように腕を伸ばす。腕があった位置に手を開いて、そっと思い出に触れる。  寝転んでいると、冷たい風が足元に絡む。隣の部屋からでも、十分に冷える。窓際まで行って、外を眺めると、影の伸び方は先ほどと大して変わらない。徳重が帰るのは、まだ先だろう。    *  二週間ほど、真面目に様子をみていたが、野良仕事から帰ってくると、徳重は風呂に入って食事をし、すぐに就寝する。テレビもスマホもないからすることもないのだろうが、毎日規則正しく生活していた。  すぐに寝入ってしまう徳重が羨ましかった。わざわざ様子を見に行った。開けっ放しの窓から月明りが煌々と差し込んでいる。  おでこ一センチを残して日焼けしている。帽子でもかぶっていたのか。マヌケだ。眉は濃く形もいい。うっすら口を開けて寝息を立てているが、悪い貌ではないようだ。  徳重の足元に座って、暫く眺めていた。  次の日も寝息が聞こえて見に行った。  もっと近寄っても大丈夫そうだ。枕元で寝顔を眺める。帽子を右にずらしていたのか、日焼けでアートが施されているみたいだ。濃さの違う3つのエリアができている。  鼻先を指で突いてみたが、ピクリとも動かない。羨ましいほどの熟睡は見ていて心地よかった。  そのうち押し入れで寝息が聞こえるのを待つようになった。  近寄って、温かい腕に触れて、隣に寝転んでみたりもした。もともとがっちり体型だったが、腕も固く筋肉がついてきたようだ。  手のひらを広げると日増しにマメが増えている。  毎日、太陽を纏って、健康的な眠りにつく。深く眠っていて、ちょっと悪戯したくらいじゃ起きない。隣で寝息を数えていると眠くなる。睡眠導入剤を飲まなくても、触れていると眠れる……。固く、温かい掌に指を置いて、徳重の寝息を数えて目を閉じると、漠然とした不安感が消えた。  不意に目覚めて攻撃されたら、多分応戦する間もなく潰される。そんな恐怖も抱きながら、そっと触れて、少しの間だけ、呼吸を合わせて転寝する。  わざと……。寝ている徳重の腕に触れたり、隣に寝転んだり。毎晩のように、触れていた。何も話さなくても落ち着くのは、そんな期間があったせいなのか。  ……アホのふりして、本当はそのことにも気づいていたりするのかな。

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