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第8話 じゃない
「え? なんで?」
ぼんやりしていたら、外で声が聞こえた気がした。
膝に広げた本は、結局少しも読み進めることができなかった。外を見ると、先ほどより陽射しが弱まった気がする。知らない間に夕方になっていたようだ。
黙ってみていると窓の端から、紙芝居のように徳重が現れた。物干しざおへ忍び足で進んでいる。狸でもいるのだろうか。ぼんやりと眺める。
ああ、洗濯ものを取り込んだから、驚いているのか、な。
急にこちらを振り返った徳重と目があった。そこで急に、こちらも覚醒した。
そうだ、徳重の家に勝手に上がり込んでいたんだった。徳重が固まったまま動かないので、立ち上がって近寄ってみる。すると、吸い寄せられるように、茫然とした顔で徳重が寄ってきた。
相変わらず、マヌケな顔しているな…。
ハリネズミみたいに尖らせた髪の毛のせいで額も綺麗に日焼けしている。
汚れたTシャツから伸びる腕は、筋肉が隆起し焼きたてのロールパンのように美味しそうだ。
黙ってみていると、どんどん寄ってきた。
あ、と思った瞬間には、縁側で膝を打ち、閉め切った窓に額をぶつけて、顔が滑り落ちる。……なにやってんだ?
「あち、アチチ」といいながら額をこすり、顔を上げる。
目の前にあるのは多分俺の生足だろうが、
「ザッシー!」
声を上げて走って消えた。
玄関だな。迎えるように廊下に出ると、玄関を開いて何か呻き、扉を閉める。いつも開きっぱなしなのに、開けたから閉じたといった形だろうか。靴を脱いでつんのめるように、今度はちゃんと目を合わせながら言った。
「ザッシー」
足が地についているか不安になりながら、近寄る。なんだか現実味がない。徳重に会ったら、無意味に罵倒したり、あるいはドキドキしたり、赤くなったりするんじゃないかと思っていたが、なぜか実態がない。
あと2、3歩というところで徳重が急に足を止めた。
「なんか、あったのか?」
眉を寄せて聞く声は優しい。予想通りなのに、口調を聞くと急に酷く悪いことをしたような気持ちになった。
立ち止まって首を振る。徳重が一歩進んで腕を広げた。飛び込むとでも思っているのだろうか? 何となくその手を眺める。どろんこだな。汗と泥の染み付いた白いシャツ。抱きしめられたら、せっかく風呂入ったのに……。と考えていると、
「俺が洗ってやるから」
という。俺のくだらない思惑にも気づくのかと思うと、嬉しいというより急激に悲しくなった。息を止めていたわけではないのに、息苦しくなった。
戸惑う、というのはこういうことかもしれない。
視線を落とした瞬間に、腰と肩に大きな温もりが触れた。一歩分の距離がなくなり、鼻が胸元に擦り付けられた。
徳重の匂いが充満する。徳重の汗が腕を伝い、密着した部分に一気に熱が籠る。耳元でスリスリと徳重の頬が動く。充分に密着しているのに、徳重はさらに引き寄せるように肩と腰に力を込めた。
「ザッシー。すっげー嬉しい。会いたかった」
囁くような声が、ふわりと耳に落ちてくる。
肩にあった手が髪をかき回すように触れる。俺は、感情が追い付かない。
冷房で涼んでいた身体は、徳重に包まれて一気に熱くなった。サウナに投げ込まれたみたいに触れた箇所から汗が流れて、湿度の高い熱い空気が纏わりつく。
目を閉じて息を吸い込むと徳重の匂いに満たされる。ゆっくりと息を吐き出すと、何故か視界がにじんだ。痛いほどの感覚、徳重の匂い、耳元に触れる息、骨を伝う低い声。忘れてないのに、初めて知る感触のように、いちいち胸が跳ねあがる。
ずっと抱きしめられていると、じんわりと実感できる。知ってる匂い、知ってる息遣い、心臓の音、肩の抱き方、髪の触れ方……、全部、知っている俺の徳重だ。これに触れたかったのだと思った。
髪をかき分けて額に柔らかい感触が落ちた。
「あれ? 感激の涙?」
頬を伝う汗を徳重が舐める。目頭からさらに零れる。
「……目にゴミが入った」
徳重が目を細めるのが癪に障るが、どうしようもない。「かわいい」と囁きながら、徳重が髪をかき混ぜる。腕の中で、ただつっ立っていた。
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