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第16話 お別れに

   *  醤油の焦げる香ばしい匂いに、目が覚めた。身体を起こしてみると股関節に鈍痛を感じた。限界まで開かされた身体のあちこちが痛い。 「起きた?」  フライパンからなにかを皿に盛り付けている徳重は、台所の自然光の中、表情はよく見えない。部屋を見回してみると、相変わらず部屋は真っ暗だった。隣の部屋で青い光が見える。ずっと働きっぱなしのエアコンだろう。  起き上がってトイレを済ませて、洗面で顔を洗った。見たことのない派手な柄のTシャツは、新品らしい折り目がシンメトリーでついていた。  首筋に、幾つもの愛された跡が残っていた。シャツをめくれば、もっとたくさんあることだろう。執拗に痕跡を残していることに、気が付いてはいた。明日以降、見れば痛むかもしれないが、今は眩暈がするほど嬉しい。  台所へ戻り、ごはんをよそっている徳重の後ろを通り、自分の席にすわった。 「洗濯しないと。明日着るものないんじゃない?」 「オマエの匂いのするTシャツでも、俺は問題ない」  とぼけた顔で徳重が山盛りの茶碗を突き出してくるので、手で切るポーズで突き返すと普通の量に減らしてくれた。  食卓には豚の生姜焼きと浅漬け、トマト、味噌汁がそろっていた。 「豚肉、あったの?」  徳重はすぐには答えず、山盛りにした茶碗を慎重に運びテーブルに置いた。  向かいにきて、初めて目があった。  何もなかったように……。気軽に話しかけてしまったことに、今更気づいた。傷つけているかもしれないのに、鈍感な自分を恥じる。  離れていて、彼を思いながら自身を慰めることはできるが、その先の、自分が欲しいのは先ほどのような徳重の熱と彼が与えてくれる快感だけだと、改めて思った。その上で、徳重の好きという言葉を拒否し、恋人にはなれないとするなら、俺自身は何を求めているというんだろう。どう思っているだろう。 「……箸がない」  下に目線を向けて呟くと、甲斐甲斐しく水切り桶から持ってきてくれた。改めて向かいに座ると、「いただきます」と両手を合わせ、湯気の出る生姜焼きを小皿に盛った。 「お肉ね、さっき明治んちいった時、貰った」  箸で大量に掴むとご飯にのせ、零れないように大口を開けて食べる。箸を持って同じように小皿に取り分けた。 「わざわざ?」 「んぐ?」  肉と同量くらいの玉ねぎはトロットロに煮込まれたもとの、シャキシャキ感が残る二種が入っていて美味しかった。昨日、生姜を使い切らなくてよかったと思った。噛むのに苦労しそうなほど口を膨らませていた徳重が飲み込んで、また小皿に小山を作った。 「明治の爺さんの車、借りに行ったらお肉くれた」  車……。帰りの足のことを考えてくれたのだろうか。 「明治ってさっきのヤツね」 「……ああ、エロ兄さんね」 「そうそう、性欲の塊くん」  あいつ、股割れ大根でもヌケるらしいぜ。徳重は屈託なく話を続けて笑い、ごはんをかきこんだ。作ってくれたごはんが美味しい。だから、あまり箸を置くような話題にはしたくないと思いながらも、流すこともできずに呟く。 「車……」 「そう、車っていえばあのデカパイねーちゃん、車いくつ持ってんのかねー」  左右の頬を膨らませながら徳重がこちらを見る。 「デカパイ……?」  聞き返すと眉間に皺を寄せた。 「他人が言うと悪い言葉に聞こえるー」  口元を押さえてふざけた調子で徳重がいう。 「この時代、不適切発言だぞ」 「む。賛美のつもりだったがなぁ」 「他人が言ってそう聞こえないなら違うだろ」  冷えたトマトは塩を振ってあるのか、甘味を感じる。昨日よりは食欲が戻っていることを感じながら、ゆっくり噛み締めた。 「でも、名前聞いてないんだよな、俺」  浅漬けをポリポリ噛みながら徳重がいう。 「もえたんが『ねねたん』って呼んでたから……そう呼んだら多分、蹴り飛ばされるよなぁ」 「彼女、そんな乱暴じゃないだろ?」  別の人を想像してるのかと思ったが、「嘘だろ?」という顔を作って固まった。 「朝倉さんは口数は少ないけど、いつも丁寧で品がいい人だよ」  誰? という顔で徳重が眉間に深いしわを作った。 「……ここに、初めて送ってくれたときはアメリカで軍用されてたデカい車に乗ってたよ」  開けたままだった口が「ハマーか」と呟いて、頷いた。「そうか…」と独り言のように呟きながら頷くので、なにか自分の中でも違和感を感じて箸を置いた。 「もしかして、名前で呼ばれるの、嫌だったりする?」  徳重は考え込むように咀嚼し、飲み込むと同じように箸を置いて、考えながら答える。 「名前は嫌い……だったけど、オマエに呼ばれるのは嫌じゃない」  足元にさざ波がたった気がして踵を上げ爪先立ちになる。徳重はそんな空気を察したのか、慌てて箸をとると、みそ汁をすすった。 「そかそか! 朝倉さんっていうのか彼女」  さん付けで呼べば、むやみに殴ったり蹴ったりしなくなるかもなぁといいながら、徳重が肉をのせたごはんを頬張った。喉を押さえ付けられたように痛くなったが、同じように箸を持ってよそってもらった茶碗を空けるように頑張った。    * 「まだ10時前だぜ」 「まだじゃなくて、もう、だ」  徳重は押し入れから出したスマホをみて、作業ズボンの横ポケットにしまった。  雨戸は嫌な音を立てるだけで、少しも動く気配がない。「コツがいるんだよ」と言いながら、徳重に結局開けてもらった。エアコンを消すと「ピー」と切ない音を立てた。感傷的になっているようで、大股で台所へ戻って上着を手に取る。  振り返ると目の前に徳重が居て、固まった。ペコリと首を下げて通り過ぎ、徳重は流しで手を洗う。潔癖症ではないが、マメな奴だと思う。洗濯は毎朝するし、行為の後もほっといてくれて構わないのに、わざわざ風呂まで連れていくし、ベッドメイクも欠かさない。 「……クセ、なんだよな」  水音に交じって聞こえた。 「施設の子は、学校や近所の人から汚ねぇって目で見られてた。風呂も洗濯も回数少なかったら仕方ねぇけどな」  実際、不衛生だからしょっちゅう病気にもなるし、発疹もできてるのかと思って、洗濯や布団干しは頻繁にしてたなぁ……。 「ああ、なんか、あんな話したから、やたら思い出すわ」  水を切るように手を振る徳重の背中に、触れたいと思った。気の利いた言葉を言いたかったが思いつかない。 「…俺にとっては、ありがたいクセだよ」  徳重は振り返ると、口の端をわずかにあげた。俺が、下の子に重なって、世話してやりたくなったとしても……。 「ん?」  徳重が首をかしげるので、首を振って廊下を急いだ。

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