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第18話 追憶

 右手をまっすぐ持ち上げると、徳重が身体を起こして顔を近づけてくる。伸ばしても薬指はまっすぐに伸びず、外を向いた関節のせいで、中指に寄り添っている。気づかれずに残った傷のひとつだ。 「石鹸を飲んで病院に運ばれたとき、足首が折れてたとか。ベッドから落ちて怪我したときに、レントゲンで胃袋のネジを見つけるとか……」  寝ているだけで、骨折するほど手足を振る赤ん坊もいないだろうし、ましてや石鹸やネジが飛び込んできたり、飲み込める位置に置かれたりするわけがない。柵のあるベッドから落ちようもない。 「病院に行くたび、全身調べるとどこかしら傷があったり、折れてたりしてね。ネグレクトを疑われた母は、俺につきっきりになった」 「何? 骨弱かったの? 身体弱かったの?」  徳重は沈黙を怖れるように、質問を挟んでくる。首を向けて視線を合わせると、困ったように眉を歪めていた。手を伸ばすとすぐに掴まれた。繋いだ手を徳重の太腿の側に落とすと、顔をまた前に戻した。 「母が側にいてくれるようになって、俺は無事に成長した。けど、保育園にいくようになって、またそれは始まったんだ」  怪我や誤飲だけじゃなく、お風呂で溺れたり、川に落ちたり。心配した兄がついてきてくれても、注意力が足りないらしい俺は、それでも怪我したり、食べちゃいけないものを口にしたり。そして、一緒に遊んでいた友達は、翌日には決まって近寄らなかった。 「お兄ちゃんと一緒にいたのに、どうして?」  母が嘆く。家で静かにしていよう。そう思っても、お気に入りの絵本を破ったり、おもちゃを壊したり、庭で捕まえた虫や庭の草花を部屋に放ったり。 「どうして? 母が泣きながら尋ねるのに、俺は答えられなかった。母の手を振り払って、友達も作らず、おもちゃも欲しがらず、部屋の中でじっとしているほうがよかった。  幼稚園もあまり行かなかった。遠足や運動会なんて行事は全力で拒否して、月に何度か登園するだけで、友達も作らなかった」 「……」  なにか言おうとして、徳重が息を吸うのが聞こえたが、なにも続かなかった。  そうその頃には理解していた。大切な絵本、好きなおもちゃは壊される。楽しそうに食事をすれば、食器が割れたり、食事に砂が混じっていたりする。友達を作るとその子がひどい目に遭う。  好きなもの、楽しいこと、嬉しいこと、感情を表せば、壊れる……否、『壊される』。 「幼稚園にもろくに通ってないから社会性はないし、小学校に上がっても、集団生活もできなくて、一人だった」  勉強だけは、なんとかできた。独りでいる時間を無駄なく潰せることができてよかったのに……。  4年生の時、すべてを遮断していた俺に声を掛けてくる子がいた。何度も無視すれば、たいていの子は引き下がるのに……。 「どんなに無視しても、素っ気なくしても、友達になろうといってくる子がいた」 「おお」徳重が小さく声を上げた。 「図書室を教えてくれた。本が好きな子で、一緒にいると楽しくなった」  右手の温もりを感じていた。徳重の大きくて固い手は、掌に載せられているけれど重みは感じない。肘を曲げて重心がかからないようにしている。 『図書室、行こうよ』  そう言って伸ばしてきた手は、柔らかかった。引っ張られながらも、強引さは感じなくて、同じ歩調で走っていた。顔をよく思い出せないが、笑顔だった。 「お互いのお気に入りを薦めあって、金曜日に図書室の本を借りて月曜日は感想を話し合う。それが楽しかった」  青い空を見上げているのに、あの日の空模様が視界を覆う。灰色の雲が覆い、雨が音もなく降っていた。校舎の電気は点いているのに、隣の子の顔も見えないほど暗かった。 「梅雨入りして、雨続きの月曜だった。教室を見回しても彼の姿はなかった。一時間目が始まっても先生がこなくて、あちこちの教室がざわめき始めたころ、放送で全体集会があると……」  不意に徳重が手を強く握ったので、そちらを向いた。自分がどんな顔をしているのかわからなかったが、徳重は眉を寄せる。 「ぞろぞろと体育館に向かう群れから離れて帰宅した。いつもなら仕事に行っているはずの母が家にいて、玄関でずぶぬれの俺をみて、そんな顔をしていた。母は俺の手を掴んで事故現場に走った」 「……事故?」  勘のいい徳重の疑問が先回りする。 「……はじめての友達の、遺体が見つかったのは、増水した貯水池だった。深いところは水深3メートルにもなるので立入禁止の場所だったけど、切り立ったガードレールから釣り糸を垂らす子どもが多かった場所」  彼の母親らしき女性が警察官に食って掛かっていた。うちの子がこんなところで遊ぶわけがない。昨日の夕方、誰かから呼び出されたまま帰宅しない子供を、ずっと探し回っていた母親は、水面に浮いていたという靴を抱きしめて泣いていた。 「布を被せられた担架が、目の前を横切った。靴を抱いたままの母親に目をやって、貯水池のそれに気づいた。……水草に引っかかるように浮いていた本」  その場所にいることが怖くなって逃げ出した。  追ってきた母に肩を掴まれて止まった。母は俺の前に膝をついて、俺の肩を揺すった。 『昨日、お兄ちゃんに、なんて言われたの?』  それで、母が見ていたことを知った。  頻繁に怪我をする。好きなおもちゃを壊す。友達と遊んでいても事故に遭う、或いは敬遠される行動に出る。母は最初、病気なのかと思っていたらしいが、本人の意思でもなく、両親が犯人ではないなら疑うべきはもう一人いる。  前日、兄は、ずぶぬれで帰ってきた。  血走った目が今でも忘れられない……。  自分の部屋へ走って逃げた。借りてきた本が、床に落ちていたので手に取ると、図書カードがはみ出ていた。  兄に、友達の、名前を知られてしまったと気付いた。  ぐっと手を握られて我に返った。震えていただろうか? 目を閉じてゆっくり息を吸い、吐き出す。握っていたはずの徳重の左手が背中を撫でてくれるので、深呼吸を繰り返した。 「オマエの兄貴だな? 足折ったり、食事に砂混ぜたりおもちゃ壊したり。友達と遊んでても突き飛ばしたり、一緒にいる子を脅したりしてたってことだろ?」 「……」  背中を撫でていた手で軽く頬に触れた。いつもより熱い。 「真っ白だぞ? 続けられるか?」  自分の体温が低いのか、弱く笑って手を取る。 「サンルームに雨が吹き込んでいた。窓を閉めようと近寄ったら、ずぶぬれの兄がそこにいた。慌てて逃げようとすると腕を掴まれた。すごく、興奮していて、荒い息を吐きながらずっと笑っていた。怖くて動けなかった。母の声が聞こえて、腕を振り払う瞬間、兄は言ったんだ。 『オマエノセイデ、死ンダンダ』  母に何度も聞かれたけれど、言えなかった」 「なんで?」  徳重がすかさず尋ねる。……なぜ、だろう。 「俺のせいだと思った。好きなものを壊される。友達を作れば脅される。わかっていたのに……。4年生になれば兄は中学生で、小学校の中のことはわからないと、油断した」  当時は、本当に自分が殺したのだと思った。  オマエサエ、イナケレバ。  俺さえいなければ、親切な友達を失うこともなかった。俺さえいなければ、兄は寂しい思いをしなかったかもしれない。 「今でも、そう思ってんの?」  首を振る。 「母は何も言わない俺を連れて海外に渡った。 『お前だけ居ればいい』  そういって、離婚届に判をついて、行き先も告げずに……」  徳重がハンドルに肘をついて笑う。かっこいいやん。

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