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第19話 トンネル
母は早かった。そのまま家には戻らず、海外に家を借り、仕事を探し、新学期には俺を新しい学校へ通わせた。
欧米ではいじめ対策が80年代から進んでいて、いじめ裁判や法廷があり、子供の問題ではなく積極的に大人が介入することで、隠れて行われがちなその行為を表面化する。日本ではいじめの被害にあう子になんらかの問題があり、非があるとされがちだが、欧米では加害者の心身や環境に問題があると判断している。そのため、加害者は転校や親の罰金など課せられる場合もあるなど、日本とは環境が違う。
また内向的になる子に対しても積極性や向上心の育み方などのプログラムが組まれたり、クラスメイトが誰も孤立しないよう、授業の進め方や休日の過ごし方も賑やかだ。
「日本と違って、学校ではすぐに誰とでも打ち解けて、自己否定する俺に皆根気強く主張を重ねた。好きなことも苦手なことも、自信をもって言えるし取り組めるようになった」
言葉も文化も違う国で、二人で身を寄せ合う生活で、初めて、母は味方なのだと認識した。
「兄に言われたこと、兄にされたこと。母にも打ち明けられるようになって、ようやく前を見られるようになった」
「よかったなぁ」
しみじみ言う徳重が後ろを振り返った。はるか先にトラクターが見えた。倒していた背もたれを戻して徳重がエンジンをかける。ゆっくり車が動き出した。
「でもそれだったら、日本に帰ってこなくても……」
いや、それだと俺たち会えないわけだけど……と言い淀みながら、カーナビを確認して前をみる。
手を放されたことが少し寂しくて、左手で腕をさすった。
「両親は、多分大恋愛だったんだ」
なにか言いたそうに徳重がこちらを見るのがわかった。目線を向けないで続ける。
「離婚届に判を押さない父と、連絡をとりあっていた。俺がちゃんと前向きに生活できるようになって、母は父に会いにいった。兄に居場所がバレないように、日本でもなく俺たちの生活圏でもなく、東南アジアの国々で。年に一度が半年、月に一度になって……」
カーブを曲がるとトンネルに入った。暗い道をオレンジの光が流れていく。すれ違う車もないし、後続の車もない。轟音に包まれるから黙った。
大恋愛。言葉の選択を間違えたと思う。年に一度が半年になり、月に一度になり、トンボ帰りが長期休暇になる。それほどに、二人の時間を作りたいと思うことをなんと表現すればよかっただろうか。徳重が恋人だと言った。好きだと言った。その言葉に応えることができないくせに、恋愛なんて言葉を使うなと思うだろう。
光に包まれて、轟音が消えた。
「でもよー」
トンネルを抜けるとともに徳重が口を開いた。
「それ、兄貴にバレてるだろ。どこで会ってたとしても、探られてんじゃねぇの?」
俺を責めるでもなく、先を催促した。
「兄貴はよー。母親から愛されたかったからオマエが嫌われものになるように、或いは邪魔者を消すような行動をとってたわけだろ? そうすっとさ、急に消えたオマエと母親にどんな感情を抱くかな」
大きなカーブで身体が流されそうになったので、アシストグリップを握った。
俺を酷く憎んでいるだろう。
甘えたかった母を独占する形になってしまったのだから。見つかったら殺される……子供の頃はそう思っていた。標的がいなければ諦めるものよ、母はそう言った。
「……素行は悪くなる一方だったと聞いた。中学では同級生に、高校では教師に、ターゲットを変えていったと聞いている」
「ああ、社会のせいとかにするパターン? 今は檻の中?」
……そうできたらいいと思った。
どうして警察官になったのか、今思い出したところで、徳重はそれを求めてないだろうと思う。埋もれてしまう悪を暴いて、法の下に処罰されることを願った。
「否。大学を出て金融マンになったと聞いた。成績がよいのか、東南アジアの支店を転々としているって」
「やっぱ、探してんじゃねぇか?」
「……」
東南アジアは、もともと外務省で働く父の出張先として多かったところだ。仕事のついでで現地休暇を楽しんでも、関心はもたれないだろうと両親は言っていた。けれど、兄の就職先を聞いたときはやはり、探していると思った。時代とともに標的を変えたとしても、俺への憎悪は消えていないのだろう。
「ヤツがいないから、日本に帰ってきたってわけ?」
俺のために尽くしてくれた母が、帰れるように日本での就職を考えた。
昔の家には戻らず、母との住居を代々木上原に構えたが、お互い滅多に会うこともない。別居婚のまま、両親が行きかうことができているようだ。こちらに戻ってきて、何年かは意識して過ごしていた。
兄が就職したという外資系金融会社は、グローバル投資を行っていて日本にも支店がある。
「何年か前に経済誌に記事が載っていた。マレーシアで泣く子も黙るハゲタカがいて、日本語を聞くだけで泣きだす住民もいるくらいトラウマになっているとか……」
「企業買収のハゲタカ?」
「発展途上の国で、人気のでてきた若者向けの会社や、ようやく軌道に乗った企業をターゲットにしているって。買収してトップが日本人に変わったとたんに業績は急降下。立て直すこともできない会社と失業者が溢れるころには、その男は別の国の支店に移動になるって」
徳重が唸る。
「嗜虐性が活かされる仕事を見つけたらしいな」
標的が変わったから安心できるものでもない。あの時、対峙しなかったために、泣く人が増えたともいえる。
小さな山を越えるように上り道のカーブがいくつも続いていた。またトンネルが見える。
「……見えてきたな」
トンネルに入る直前に、徳重が呟いた。
胸騒ぎがする。
長いトンネルを抜けると、強い日差しに視界が白くなった。道はいつの間にか下り坂になり、緑の間にちらりと単線の線路が見えた。
「駅、あの辺だなぁ」
徳重が呑気な声でいうが、『見えてきた』のは決してそのことではないだろう。俺が伝えてはいけないことを言ってしまったのだ。巻き込みたくないと思いながら、ヒントを与えてしまった。
「つまり、最近、つけられた?」
「……」
「そんで、以前、俺がマンションに現れた時、オマエの部下をスタンガンで襲った奴が急にきになった」
溜息が漏れる。
「自分の鈍さと、オマエの勘の良さに涙が出るよ……」
徳重があくびをするように、大きく口をあけながら首を伸ばして上から見てくる。マウントのつもりか?
「勘の良さってより、匂わせだろ?」
「誘導尋問だ」
ふふんと、満足げに徳重が笑う。
「ひとつくらい特技があってもいいだろ」
……ひとつどころじゃないだろう。
山を下りて交差点で徳重が車を停止する。左右みても自動車は見当たらない。
両手をハンドルの上で組み、こちらを見ている。
「……悪い予感だけで、杞憂だけで、済めばいいけど」
言い訳を考えてみたが、手を上げて止められた。
「蛇の道は蛇っていうだろ? 俺に相談しても損はないと思うがな」
語尾が強くなったので、黙る。
「そこまでの金額は転がしてないけど、俺も似たようなクズ仕事してた身だしな。そういう輩の行動パターンはわかると思うぜ」
その時代の徳重を知っているわけではないが、生かさず殺さずの金貸しより、残忍な気がした。筒美会を捜査中も徳重の名前は上がらなかったのは、殺人はもちろん刃傷沙汰も訴えられるほどの犯罪もなかったからだと思っている。一方の兄は企業買収とは名ばかりで、人から仕事を奪い、夢や希望も奪い、何人も死に追いやっている。学生時代にも、不審な死を遂げた人物が、彼の周りには多くいる。金もコネもあり、法律も犯罪も無視できる。屍の上で脚を組んで嗤える人間なのではないかと思う。
簡単に人を殺せる人間と、徳重を一緒だとは思いたくなかった。
「それによ。経済界でのブラックな人間情報なら、鄭社長んとこにも情報が入っていると思うしよ。借りは作りたくないだろうが、強敵だと思うなら万全の対策を考えた方がいいべ」
目を閉じて、仰ぐように首を伸ばした。
「…そう、だな」
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