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第21話 最悪

   *  ぼんやりと、耳が音を拾っているのがわかる。怒声……金属音……肉を打つ音。目を開いてみるが、ぼやけた視界は形を成すものを捕らえていない。眼鏡がなくなった。時間が経ったのだろうことは、時計を見なくてもわかる気がした。気怠い。口内の違和感に気づいた。知らない間にマウスピースをはめられていた。ボクシングのようなファイトがあるわけでもないだろうから、自殺防止だろうか?  徳重は無事だろうか?   急に降りてきた疑問に身体を跳ね上げたつもりだったが、手足の感覚がなかった。意識して手を上げようとしても、指が小刻みに震える。仰向けに倒れているようだが、手も足も力が入らない。  ここはどこだろう? 埃っぽくて、鉄臭く、蒸し暑い。手入れされていない防具が並ぶ道場のような匂いもしている。暗くてよく見えないが、鉄骨で組まれた高い天井が見える。丸いライトは点いていない。右側に舞台の緞帳のようなものが見えた。学校の体育館のようだ。音が響くのはそのせいだろうか。  上から差し込むはずの光は黒いカーテンで遮られている。  ズンっと、重いものが倒れるような震動が床を伝う。人の息遣いが遠くで聞こえた。左の視界の隅にあったサーチライトのような光が消えた。  トン、舞台から降りたような足音が聞こえた。金属を引きずるような音とともに、気配が近寄ってくる。  ぼんやりと黒いシルエットが見えた。コツンと顎を押し上げられる。 「久しぶりだな。渉」  声を聞いただけで、鳥肌がたった。歯ぎしりするような声だった。小さいが、怒りに満ちているのがわかる。 「警察官が行先も伝えず、携帯の電源も切ったままとか、ありえないんじゃないですか?」  腹部に衝撃を受けて、目から火が出たような気がした。続けて太腿に痛みを感じる。足で踏みつけられたのだ。無理やり身体を動かして、身体を丸めた。金属の棒のようなものを振り下ろしている。受け身ではどのみち怪我をするので、丸まった体勢から腕で振り払った。ガンっと、もろに骨に響いた。離れたところで、金属が落ちる音がする。 「……ふざけやかって」  声とともに、足で蹴られた。腕や足、腹を狙って幾度も振り下ろされる。革靴の先が腹に突きささり、内臓に火が付いたような痛みを感じた。 「おい、やめろ!」  誰かの声がして、目を開けると、黒いシルエットを後ろから抱える男がいた。……徳重ではない。 「無傷でってご所望に答えたのに、なにしてんだ」 「私に触るな」  黒いシルエットが男を振り払って、近づいてきた。今度はしゃがみこんで、顔を覗き込んでくる。  ……兄、(のぼる)だ。 「に…いさん……」  口を動かすと唇が震えた。  暴行のせいではなく、恐怖が心臓を掴んでいた。憎しみや嫌悪よりも、あの頃刻み込まれた恐怖が、身体を支配している。目を反らしたいのに、それさえもできない。震えないよう、強く歯をかみ合わせるが、金属棒を振り払った腕がビリビリとしびれ、全身を震わせた。  右頬を吊り上げたあの笑い方で、覗いた八重歯が光った。眠たそうに細めた目は、常に周囲を嫌悪するように冷たく感じる。輪郭は変わったが、あの雨の日と少しも印象は変わらない。  腕を伸ばしていたので、身体が硬直する。ネクタイを掴んで引き寄せられた。 「随分、手間をかけてくれたな。母親と暮らしていると見せかけて、それぞれ塒は別ですか。事件続きで帰らないって? 見た目と違って野卑な生活をされているようで」  ネクタイを引っ張られて、無理やり起き上がった状態だが、身体がふらついた。先ほど静止に入った男が後ろから支えるように肩を掴んだ。目で制されたのか、昇はネクタイから手を放す。 「貴様の絶望する顔が見たくて、戻ってきてやったんだよ。あの時のように、お友達をいたぶってやろうと思ってね」  両手の長い指の先端だけをつけて、呪いでも呟くように昇が続ける。 「なのに、お仕事に明け暮れてお友達が一人もいないんだってなぁ。キャリアのエリートで来年には警視の噂もあるとか……順調すぎませんか?」  身体を起こしたせいか、頭から血の気が引くのがわかる。蹴られた腹がよじれるように痛い。手で探ろうとすると、後ろの男が両腕を掴んで、後ろに固定された。薬が切れかけているのだろうか。足もかすかに痺れを感じる。 「筒美会壊滅ではかなりご活躍されたとか」 「……!」  卑しげな笑いを含んでいる。冷たい目が舐めるように上下した。組対にいたことを調べることはできるだろうが、どの事件に関わっていたかを知る由はないはずなのに……、続く言葉にさらに唖然とした。 「なんでも公安が長年かけて捜査していた筒美会の一斉捜査の日。組本部に公安が乗り込んだ同時刻に、たまたま知った組長宅に乗り込み、たまたま起こった火災で幹部8人が焼死したのに、運よく生き残った……とか」  ネクタイに指を掛けられ、ゆっくりと外された。 「組本部が江東区にあって、正体もよく知られていない組長の自宅を、随分離れた世田谷で見つけ、すべての幹部がそろったところに乗り込める……それって運ですか?」  ネクタイを外すと、当然のように襟元のボタンを外した。昇の行動よりも、言及がわからなかった。組事務所のガサ入れと『世田谷区の民家全焼』を結び付けていた報道もなかったはずだ。調べようもない事実のはずだ。  昇は胸ポケットから折りたたみナイフを出すと、後ろに目配せしながら、胸元に突き付けてきた。 「……ッ」  ひやりとした感触に声が漏れそうになる。突き立てたナイフが、シャツを引き裂いていく。  そこで電子音が鳴った。昇がナイフをしまって音のした方角へ向かう。パイプ椅子に置かれたものに向かって話しかけた。 「ああ、先生。お忙しいところ申し訳ございません。ようやくご所望のサカナを捕らえましたので……」  紙をもみくちゃにするような、ガサガサとした音が聞こえた。昇が短く答えて、椅子を引き寄せる。  椅子に載っているのはノートパソコンだ。動画会議の画面が見える。人型のアイコンだけだが、マイクが音を拾っている波長が青く光っていた。 『クックックッ。オマエの弟と聞いたが、全然似ておらんのぅ』  ガサガサとした声がそう言った。 「遺伝子が違いますので」  こちらを睨みながら昇が答える。 『もう少し、見せてくれんかのぅ』  そう言われると昇がさらに近寄ってきて、裂いたシャツを徐に開いた。抵抗しようとするが、後ろから押さえられた両腕は動かなかった。 『フフッ。ううん、ん? おい、首筋と乳首の周りのそれ、キスマークじゃないか?』  笑いを含んだ声が急に大きくなる。徳重の仕業だ。昇とのやり取りで忘れかけていたが、急に思い出したことで、不安が大きくなった。 『おまけになんじゃ、その痣は。無傷で捕らえろと伝えたはずじゃ』  視線を落とすと腎臓の辺りが赤黒くなっていた。座っているだけで、シクシクと痛むのはそのせいかと思う。 「統制がとれておらず申し訳ございません」  他人のせいにして平静としている。 「ですが、この男で間違いございませんでしょう?」  不気味な笑顔をこちらに向けて昇が続ける。 「こいつは昨日まで、筒美会の若頭が子飼いにしていた男と過ごしてました。筒美会の一件も、性取引していたというのも強ち間違いではないようですね」 「……!」  叫びたい。だが、言葉にならなかった。前に乗り出しただけで後ろから力を入れられた。何かが音を立てて崩れる。  若頭の子飼い?  徳重の家にいたことがバレている?  ……駅でみた老人、ごま塩頭。 「課長……? なぜ……」  腕を掴んでいた手が、一瞬震えた。 「すまん……。む、娘はまだ14歳なんだ」  わけのわからない言い訳が聞こえた。けれど、この声は聴き慣れた課長の声だ。駅のホームで、あの頭で気づくべきだった。そして、納得した。警察しか知りえない情報を昇が知っている理由を。  やり取りを聞いて、歪んだ顔が舌なめずりをして、さらに口角を吊り上げた。あの日見たように、瞳孔の開いた目が血走っている。  アテレコのように、ノートパソコンから、背筋が凍るような笑い声が漏れた。 『フッフハハ。簑島渉、おぬしが片桐に抱かれるところは、これまで見た中でもっともエロかったぞ』 「……!」 『恥じらいながら男たちの前で、膝を開くところとか。アソコを舐められて上げた声とかな。ククッ。あの動画(ブイ)は送ってくれるって約束だったのに、消滅してしまったんかのぅ』  画面の人型アイコンを睨む。正体はわからないが人であるわけがない。震えを押さえるために、視線をそらした。 『片桐のデカいアレを挿入されて、おぬし……』 「嘘だ!」  突然の大声に身体が揺れた。息が止まった。正面にしゃがみこんでいた昇が、身体をひねると10mくらい先に徳重が立っていた。 「嘘……だよな」  聞かれたくない。知られたくない。見られたくない。 「ザッシー……」  唇を噛んで目を伏せた。

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