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第25話 手当て
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頭と背中、お腹を何針が塗った。熊用の麻酔銃も受けた後だし、全身麻酔だと目覚められないかもしれない。「局部麻酔だと処置中に切れて、激痛に耐えることになるぞ」と、脅すわりに医者の手際は早かった。
「気付きました? 痛いとこあります?」
血を分けてくれた天使が声をかけてきた。血を抜かれたせいかやたら白い。髪も茶髪というより白銀に近く、全身光に透けそうなほど白くて、ホントに天使かと思った。
「もう、医者なら全部の傷見てほしいよね。適当なんだから」
文句をいいながら、ペタリと顔になにかを貼った。鋏で切っては、傷に当てているようだ。
「これ? ハイドロコロイドの絆創膏。治癒能力と疼痛の沈下作用があるんだよ」
顔は大事だもんね、と肩まで貼り始める。「中身はどうでもいい」とは思わないが、小さな傷など構ってられない。一刻も早く戻らなければならないのに。
彼女らはどこへ行ったんだろう。手をついて起き上がろうとすると肩を抑えられた。
「ダメだよ。せっかく血あげたのに、流れちゃう」
冷たい手だった。
「それに起き上がっても、マッパだからどこにも行けないよ」
首を動かすと確かに、包帯と、申し訳程度に股間にフェイスタオルが置いてあるだけだった。彼女らが戻ってくるまで待つしかなさそうだ。
蝉の声と風鈴の音、眠くなりそうだがそうはしていられない。
「ああ、お礼を言ってなかった。ありがとう少年」
「少年って。そんなに年齢変わんないってさ」
肩を竦めて笑うと、メダカが飼えそうなほど鎖骨が浮く。綺麗だと思った。あいつに付けたキスマークを思い出す。思い出してほしい。視線を落とせば嫌でも思い出せるように、たくさんつけた。それが仇になったかもしれないが。
「血がダメ、みたいなこと言われてたけど、大丈夫?」
確か医者は見るなと言っていたのに、胸に大き目の絆創膏を貼っている。
「ああ、大丈夫みたい」と他人事のように言う。
「場合によるけど、メンタルやられちゃうことってあるじゃない?」
軽い感じで言うセリフに、最後に見たあいつの顔が浮かぶ。
過去の話をしてくれた。吹っ切れたような感じだったが、いざ対面してみると、恐怖が勝ったのだろうことは表情でわかった。どうしたらいいのだろう。考えることは山ほどあるのに、プライオリティが決まらない。
目を閉じていると叩かれた。
「ごめんね。大きなお姉さんに、眠りそうになったら起こせって言われててさ。でも俺は、こんな状況だし寝た方がいいと思うんだけどね」
萌絵もそう言っていた。ずっと寝転んだままだから、実際歩けるかどうかも不安になる。
「こんなボロボロなのにまだ働けっていうのかな、鬼だよね。そこまでして動く理由ってあるの?」
「……大切な人が捕まっている。助けに戻らないといけない」
「それはお兄さんじゃなきゃできないことなの? お姉さんたちに任せられないの? 特撮ヒーローだって弱ったときは仲間に救ってもらうじゃん。過信しない方がお互いというか、みんなのためになることもあるよ」
意外によくしゃべる。
「なあ、聞いていい?」
「その質問って善意を当てにしてるか、許容量を当てにしてるかじゃん。ずるいと思うよ。内容によっては聞かれても困ることって山程あるのが普通じゃん」
ああ、軽く面倒くさい。聞き流して続ける。
「名前で呼ばれるのって好き?」
良くしゃべる天使が、手にしていた鋏を落とし、目を見開いてこちらを見た。
「おじさん、恋してるの?」
……オマエ、さっきそんなに年齢変わらないって言わなかったか? 空気を読まずに少年は嬉々として頬杖をついて覗き込む。
「そうなんだぁ。俺に聞くなら本人に聞けばいいのに。自分の名前呼ばれて戸惑ったの?」
ああ、面倒くさい。なんでこんなことを聞いてしまったんだろう。頭がぐちゃぐちゃになっている証拠だ。
胸元に置かれた鋏がひんやりとしている。それともこれは胸の痛みか?
「……戸惑った。自分の名前は好きじゃないから」
そういうと、再び鋏を手に取って作業を続ける。腕の傷に二つ目の絆創膏を貼って頷く。
「俺も自分の名前、好きじゃなかったよ。大して意味はないと思ったこともあったし、ただの符号だって思うこともあったし。ほら、昔の人は単純に生まれた順に、太郎、次郎って名前を付けるみたいにさ。苗字だってそんなものでしょ、山や畑の持ち主名だの、落ち武者の曰くだの、海外だって職業分類だし」
広がり過ぎるが、確かに思っていたことだ。単なるナンバリングだ。だから嫌いだった。意味はない、はずだった。
「初めての人は俺に名前をくれた。バンドやってたこともあったから、そんな感じの名前をくれて、少し嬉しかった。でも、本当にちゃんと愛してくれる人に出会って、嫌いだった自分の名前呼ばれて、なんていうかな…、息吹を感じたんだ」
『五郎……』
切なげな、声が聞こえた。
腕を絡めて、俺の耳元にわざと息を吹きかける。潤んだ瞳で苦しそうに、それでも見てほしいと言わんばかりに縋り付いてくる。
「符号でしかなかった名前に息吹を与えられて、初めて、この生命を認めてもらえた気がした。生きていてよかったと思った」
ああ、そういうことだったのか。また、後悔の種が一つ増えて目を瞑った。あの時、呼んでいたら「もういい」を覆せたかもしれないのに。
こんなことになるなら、もっと早く電話してやればよかった。会いたいと思ったときに、会いに行けばよかった。自分が辛抱強いことを忘れていた。もっと話してあげればよかった。もっと、側にいてあげればよかった。『恋人だよな』という問いに首を振ったけれど、愛されてることは十分に伝わってきた。あいつは俺が好き。わかっているのに守りきれなかった。
肩を叩かれて瞼を開く。重くて、重くて、力を込めても瞼が上がらない。苦しくて苦しくて、息を忘れるほど叫びたいのに、声が出ない。
額に冷たい手が触れた。
「大丈夫。まだ間に合うよ」
根拠のない気休めだ。
「気休めじゃないよ。貴方だけが信じていればいい話。支え合えなければ、頼り合えばいい。想いが通じているならお互い、見捨てたりしない」
「……本気でそう思う?」
ゆっくりと絆創膏を張り付けながら、首を振る。
「わかんない。こんな傷だらけで、無理してほしくないって思うのが普通じゃない? こんな傷つける人たちがいるところにまた、戻ろうとしてるんでしょ? なんか、そこまで命かけられて、間違って死んじゃったら、それこそ後悔してもしきれないし……」
だから「もういい」なのか? 傷つかずに済むなら俺なんか、どうなってもいいのに。
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