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第26話 準備
「はい、チャイム鳴ったよ。教室戻って」
学校の先生のようなセリフとともに入ってきた女は、相変わらず全身黒ずくめで愛想笑いひとつもない。
「えー、女子トークで盛り上がってたのにぃ」
ノリのいい天使が答える。
「あ! オマエ、これ高いんだぞ。もったいねぇなぁ」
絆創膏の残骸をみて医者らしきが叫んだ。服らしきを投げつけると、鋏を振り上げてすり抜けていく少年を追って出て行った。
「早速ですがぁ、広島か岡山の先生とやらの顔って見た?」
すっかり仕事モードになった萌絵がノートパソコンを椅子に置き、床に膝を立てた。
「顔、見てない。老人ってことしかわからん」
起き上がるのに唸り声が出た。筋肉が固まったように手足の動きが鈍い。
「それだとちょっと難しいねぇ。黒くない政治家なんてほぼいないもんねぇ」
「簑島兄は確か、東アで投資会社のリーマンだったよな。仕事はどうしたんだ?」
朝倉が割って入る。確かに。個人的恨みを晴らすために、仕事を休んで戻ってきたのか?
「調べてみるねぇ」
萌絵がすぐにキーボードをたたき始める。
医者が投げたYシャツに袖を通す。朝倉が無表情で見下ろしているので、股間のタオルを払って下着をつけることに躊躇った。モタモタすることになるが、ボタンをはめるにも指の力がうまく入らず、時間がかかった。
「黒幕の正体によっては、あたしらは手助けできない」
朝倉の言葉に手が止まる。そうだ。彼女らは俺のヒーローではなく、あくまでも鄭社長の部下だ。彼女らの組織の優先順位もあれば、取引先にも影響が出る相手には手が出せないのは当然だ。いつでもあいつのために動いているわけではないし、俺の尻ぬぐいをする必要性もない。
「取引条件はなんだ?」
朝倉がまっすぐに見つめてくる。敵の正体が判明する前なら動ける、と言う意味だろう。今ならまだ、手伝ってくれるということだ。
「……」
それでも、躊躇った。彼女らのことだから、筒美会であいつの身に起きたことも既に知っているかもしれないが、俺から言うことはできない。だから、証拠品を盗むことも、やはり依頼はできない。俺から全財産剥がしたつもりでいる鄭社長の部下に、育ての親の存在を知らせることもできない。そして――それらが手に入らなかった時、あいつがどうなるかも――知られたくない。
「あったよー。マレーシアで殺人容疑で逮捕ぉ、ひゃあ。……けど、大金払って釈放。でも、会社はクビになってるね。4月だって」
逡巡しているところに萌絵が声を上げた。朝倉は萌絵を振り返った。
「暇になったんで、積年の恨みを晴らしに戻ってきたわけか」
「暇っていうより後がないからかも。次々に訴えが上がっていて、国際手配も間近って記事もあるよ」
「自棄糞で、道連れを求めて帰ってきたのかもな」
朝倉の言葉にゾッとする。無傷でという注文も無視して、というより自制が効かずに殴っていた。取引条件のどちらも、兄に旨みのある取引ではないから、時間制限までに生かしておいてくれる保証はないが、やはり不安になってきた。
「……考えたんだが、兄弟喧嘩なら、母親に相談するってのはどうだ?」
朝倉の目がギロリと動いた。
「ありだな」と言い、萌絵に指令を出す。
「母親の連絡先調べろ」
「え? 今何してる人? フルネーム……」
萌絵が顔を上げたが、どちらも答えられない。ワークパンツを履くためにベッドから降りるが、思わず唸りそうになるほど、腹に響いた。
「ヤサで探ってみるか…」
朝倉の言葉に、代々木上原のマンションの部屋を思い出してみる。電話が置いてあった記憶がない。
「うーん。代々木は外向けだから、個人使いの方の家だね」
萌絵が当たり前のように言うと、朝倉も頷いて歩き出す。別に塒があるのか。……俺だけ知らない。俺は全然あいつのこと、知らない。
「カーナビセットしておくね」
萌絵がノートパソコンを抱えながら、先に出て行った。なんとか、ベッドから手を離して歩き出すが、右脚にうまく力が入らない。腰を切りつけられて下半身の神経か筋肉を損傷したのか、麻酔銃の威力がまだ響いているのかわからない。
「車椅子が必要か?」
朝倉が真面目な顔で言うが首を振った。
「一応、これ持ってけ」
廊下にたどり着くと医者が、松葉杖を差し出してきた。受け取って試してみるが、右足を出すよりは杖があった方がましだが、明らかに通常の行動はできない。…しんどいなぁ。
「すまん。足手まといになりそうな時は……」
「一瞬で眠らせてやるから、安心しろ」
朝倉が今日一の笑顔を返した。俺と医者は突然来た冬に、首を竦めた。
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