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第35話 幽灯

 米兵は猛スピードで突進してきた。  射程距離。4人同時に動きだすと、米兵は一瞬目を動かしたが、迷わず朝倉目掛けて進んできた。右手で振りかぶってテンプルを狙うと案の定、米兵は大きく頭を下げて躱した。それもお見通しとばかりに朝倉が容赦なく、顎を蹴り上げる。ゴキッと嫌な音を立てながら、米兵が宙に舞い上がると、その背中を目掛けて俺は体重を掛けて肘を落とした。  朝倉が俺ごと飛び越えて、既に走り出していた二人を追う。 「……ッ」  朝倉に向かってなにか言おうとした米兵の頭を横から蹴り、肩を掬い上げるようにして身体の向きを変えさせると、腹を勢いよく蹴り飛ばした。  目的を成し遂げるために、出会ってしまった敵は音もなく沈めるしかない。腹を抱えて横向きになった男の心臓を狙って、さらに蹴りを入れようとした。がしかし、軍隊で訓練しているせいか遊びなれているせいか、こちらの思い通りにはいかず踝を掴まれて投げ飛ばされた。ヤバい。背中が地面を擦っているのに、身体がどこまでも滑っていく。なんて馬鹿力だ。  立ち上がった米兵は、顎と耳のあたりに両手を当てて外れた顎を直すと、ニヤニヤしながら何かつぶやき始めた。振り返ると避難梯子の準備をしている朝倉の背中が見えた。桜庭たち二人はすでに屋上から姿を消していた。  股間を誇張するような動きをしながら、近寄ってくる。こっちを無視して、どうせなら女の方がいいとかなんとか言っているのだろう。クソが。俺を跨いだ瞬間に股間を蹴り上げてやった。背中に反動をつけて飛び起き、米兵が屈んだ瞬間に回し蹴り、倒れ込む瞬間に左肺に拳を叩き込んだ。キマった音がした。  男が倒れる。咳き込む前に横隔膜目掛けて何度か蹴り上げた。静かになった。頭を掴んで顔を確認すると、白目を向いて口から泡を吹き出した。念のため、引きずって歩き、先ほど使ったハーネスで腕を縛り手摺に括り付けた。  振り返ると朝倉の姿はもうなかった。息が上がっているが、走れないことはない。  足がもつれる。右足を叩いて歩き出すと、ポタポタと音がした。腹の傷が開いたらしい。階段までの距離が、魚眼レンズで覗いたようにやたら遠く見えた。視界が揺れるのは、呼吸が荒いせいだと気付いた。一歩踏み出すより先に、血がポタポタと落ちる速度の方が早い。背中を冷たい汗が流れる。夕陽はまだ完全に沈んではいないのに、どんどん視界が闇に包まれていく。  もう少し――。  手を伸ばして壁に当たると、手探りで入口を確認した。足元に目線を向けているはずなのに、暗くてなにも見えない。ふいに、スマホ画面が光るように、黒い画面から白い、はっきりした輪郭が表れた。助手席の顔、朝ごはんを食べる顔、朝の涙。なんだ? やめろ、なんで記憶を遡るんだ。  もう少し――。  階段を降りようとすると膝を支える力がないらしく、滑った。手探りで壁を探って立ち上がろうとするとまた、階段を落ちていった。 「五郎……」  声が聞こえて、ハッとする。白い腕が肩に巻き付く。長い睫毛をふせめがちに寄せてくる顔、瞳はいつものように濡れている。違う、違う。起き上がろうとして手をつくと、血で濡れたリノリウムの床が滑った。痛感だけがないのが不思議なくらい床が冷たい。頬を張り付けていると、また見えてきた。  白く細い脚――ガラス越しだとわかっているのに、吸い寄せられた。俺のTシャツだから大きいのはわかるけど、何故か見えない。いつも見えない。押し入れを開けたときの衝撃のままの白い脚。  なんで? 銃も持っていたなら、脅してでも形勢逆転はできたはずだ。逃げるチャンスもあったのに、なんで夜まで俺を待っていたのだろう。 「ああ、クソ…」  記憶に飲まれないように首を振って、もう一度手に力を入れて身体を起こす。額を押し付けて、膝に力を入れるが、腰が上がらない。力を入れるつもりでぎゅっと目を瞑ると、白い手が伸びてきて俺の首を掴んだ。いつだったか、あの月夜の日。やっぱり、殺すべきだったと思っているか…な……。こんな、肝心な時に役に立たない俺を……。  雷鳴が響いた。  ぼんやりと顔を上げると、窓の先にわずかな夕陽が見えた。暗い空が落ちてきて、長く響いていた雷鳴も消えた。一瞬の日差しはすぐに消え、廊下も窓枠もわからなくなった。  ああ、雷鳴ではなく機関銃の音だ。 「ゴロ……」  冷たい指が触れた気がして、目を開けたが暗闇は変わらない。もう少しで会えるから、そんな顔するな…。呼べば、行くって……約束、した。  もう少し、俺は、動ける……。  手をついてもう一度立ち上がろうとするが、投げ出された手はピクリとも動かなかった。

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