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第36話 タイムリミット
*
千切れ雲が赤く染まり、矢のように黄色い光が突き刺さる。瞬きもせずに見つめていた夕陽に気付いて、ゆっくり目を閉じた。乾いた角膜が痛みを訴える。雲一つない青空を見たのはいつだったろう。随分、昔のことに思えた。太陽が黒い森に沈もうとしていた。同じように、心を沈めることができればいいのにと、願った。
徳重が連れ出されてから、昇の指示で若者が怪我人をどこかへ運んで行った。
「…本当に済まない」
話しかけてきた上司も、昇が顎で指示すると、口を塞がれ身体を縛られ、どこかへ引き摺られていった。
二人きりになった。
「さて、時間つぶしに遊んでやろうか?」
歪んだ口が言葉を吐き出す。込み上げるほどの恐怖は、もうどこかへ消えた。
「どうせなら、生きたまま俺をバラバラにしてみろよ。生体反応が残る右手を母に送ればいい。すぐにでも会いにきてく…」
肩を蹴られた。倒れた俺を見降ろして、昇がせせら笑う。
「挑発には乗らない。今すぐにでも死にたいだろうが」
血走った目で覗いてきた。
「簡単には死なせてあげないよ」
昇が正面に座り込み、表情を変えるのを待っている。胸の中はざわついたが、虚ろな目でぼんやり眺めるだけにした。暫く待っていた昇が言葉を重ねる。
「死にたくなるほど恥ずかしい目に遭わせてやるつもりだったが、あれか? ヤクザに開発されてそっちが好きになったか」
ナイフの柄が首筋を叩き、胸元を突いた。朝、鏡で見た徳重の想いの痕がチラつき、目を閉じた。昇が嬉しそうに嗤う。
「そうか、そうか。オマエの腕より太いものを持つ兵 を呼んでるから、楽しめばいいさ。ビデオもちゃんと撮ってやるから、世間の好きものにもアピールできるぞ。死ぬまで喜ばせてもらえ」
感情を殺そうとしても、固くなった頬が引き攣る。笑い出した昇の声がどんどん大きくなって、いつまでも続いた。
水を一点に集中して流すと気が狂うという、水責めと称してシャワールームに閉じ込められた。教室の椅子の背に手を縛りつけられて、かび臭い水が髪を濡らした。取引の前にもう少し痛めつけたいところだろうが、なにか問題でも起きたのか、昇は歯噛みするようにその場を去った。
錆びた匂いが広がる。タイルはコケと黴で変色し、正体不明の黒い虫がヌルヌルと汚れた床の上を動いていた。膝を曲げて踵を椅子に乗せ、サビた水を額に受ける。
一点に集中するように、首を動かさずにいた。これで死ねるなら楽なものかもしれない。目や粘膜に触れれば破傷風になるかもしれないし、衛生的にもよろしくない。口を開けて飲み込んでしまえば腹を壊すだろうか。日没に来る悪魔たちの目的が果たせるような身体ではなくなる。それもいいかもしれない。だがあまりの臭いに、目も口も開ける気にならなかった。
マウスピースを舌先で外してみようと試みたが、やはり外せず舌先が傷ついただけなのだろう。血の匂いで不快感も麻痺し始めた。
気が付くと、蹲って膝に頭を乗せ丸まっていた。気を失っていたのか、ちょろちょろと流れる水は、相変わらず髪の先から全身を濡らしている。
夏とはいえ水道水をそのまま浴びるのはさすがに寒い。手足が小刻みに震え、歯の根は合わなくなっていた。うまく震えることもできず、膝がぶつかって唇を切った。肩が揺れただけで肩甲骨がパキっと音を立てた。
ふと、修行僧などがする滝行にもこんな風に、水を浴びながらお経をあげるものもあることを思い出し、おかしくなった。昇の知識はどこかしら抜けている。集めた人材も場慣れした適材がいないことはすぐわかった。組対でなくても、生活安全課の捜査員にもお世話になったこともないような、場違いな人間の集まりだ。おそらく今も、誰も監視してないのだろう。
震えることは、熱を作って体温を維持するように運動神経が送るサインだ。胡坐を組んで腕を背中で押し付けて、身体が動かないよう固定する。奥歯が震えないように、喉に力を込めて呼吸も細める。
このまま、死ねたらいいのに。
黴の胞子が水しぶきを受けてヌルヌルと動きだす。ムカデのように幾つもの足を、ザワザワと動かしながらゆっくりと身体を上ってくる。何匹も集まってきて、胸を食い破って心臓を食べようとする。ゾッとして思わず足で蹴り飛ばすように身もだえた。
先ほどのイメージが瞼にこびりついていて、払いのけようとしたが、腕の自由がなく思い切り上半身を振って起き上がった。何かにぶつかって目を開けた。
びっくりしたように、金髪の男が身体を離した。
「ご、ゴメン。心臓マッサージとかした方がいいのかと…」
若者は動揺したように言い訳をしかけ、隣の男に小突かれる。
「拉致犯が謝ってどーする」
「はぁ? 心臓マッサージしろっつったのテメェだろーが」
「死なれちゃ困るだろうが」
わけのわからない喧嘩が始まる。
いつの間にか屋上だった。腕を上げてみようとするが、やはり後ろで縛られているようだ。頭を振ってみるが、水が滴ることもなく、身体も服もだいぶ乾いているようだ。ゆっくり、大きく息を吸い込んだ。まだ、生きている。
もうすぐ陽が沈む。
「もうすぐタイムリミットだなー。あの無茶苦茶強いお兄さん、戻ってこないのかねー」
「戻ってきたら、俺ら、命ねぇわ」
二人はどこか憂鬱そうに、手摺に肘をついて夕焼けを眺めていた。
忘れようとしているのに、どうしてそんな話をするのだろう。耳をふさぐことができないのが苦痛だ。
「そういえばあのお兄さん捨てにいった連中、なんで帰ってこないのかなー」
「さー、返り討ちにあってたり」
「そうなのかなぁ。俺、逃げたんじゃないかと思うなぁ」
「金もらってないのに?」
金髪が手振りを加えながらしゃべり続ける。
「さっき、キャリーケースあってさ。匂いで大麻だってわかったから、こっそり開いてみたんだよ。したら、こーんな、あってさ。金にしたらどんくらいなんのかなって」
「バカ。そんなものパクったら、マジ殺されるぞ」
「そう、手ぇ伸ばそうとしたら蹴り倒された。米軍への売り物らしいぜー。」
そんなものをどこから誰が持ってきたのか。それだけの量なら使用目的ではなく、おそらく売買目的だ。治外法権の米軍に一旦渡して、ばら撒くルートがあるのだろうか。
これから自分の身に起こることを考えないようにするには、いい情報だった。
「あ、ジープ。やべぇ。米軍きたぜ」
手摺にぶら下がるように見下ろしていた男が言う。
「ああ、地獄変が始まるなぁ」
金髪が寄ってきて抱えようとするので、「歩ける」と肩を引く。
腕を引いて起こしてくれたが、こちらを思ってではなく、抵抗したり、走って飛び降りないようにだろう。立ち上がると身体がふらつき、後ろから強く引っ張られた。忘れかけていた腹の痛みがぶり返し、咳が出た。血でも吐けたらいい、咳込みながら階段を下りた。
階段を下りた先の窓側に水飲み場があり、金髪が蛇口をひねった。後ろにいる男が文句を言った。咳き込みながら、ゆっくり水を飲む。
「大丈夫?」
金髪が背中を撫でた。
「少しだけ、休ませて」
廊下の奥の教室で電気が点いた。外人らしき笑い声が聞こえてくる。金髪が窓を開けて背中を押してくれた。胃の高さにある窓枠に身体を預けるようにして、顔を出して風を待った。二人の男たちは腕を掴んだままだ。飛び降りることはできない。
キラキラと光るものが見えて、下を覗き込むとプールがあった。最近張ったばかりのキレイな水なのだろうか、青い水面だった。横には飛び込み台があり、2階か3階くらいの高さに見えた。デッキチェアがある。リゾート気分になれる娯楽施設を作ろうとしているのだろうか。
ふいに眼下をピンク色のものが横切った。…パジャマか。その後ろをグレーの背中が続いた。校舎の壁際沿いを屈んで進んでいるらしい。目を細めてみると、ごま塩頭が眼に入った。そうか。逃げられたのなら、良かった。
「もういい。ありがとう」
そう言って、先に廊下を歩き始めた。
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