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第37話 唯一の抵抗

 長い死の廊下の先の扉を開けると、拍手と嬌声で迎えられた。  広いと感じたのは小学校以来だからか、いや、もとは音楽室だったのか、黒板に五線譜の黄色い線が見える。教壇の代わりにどこから入れたのか、キングサイズのベッドが置かれている。スタジオで使用するような強烈な光のライトスタンドとカメラがベッドの左右に置かれていた。窓は黒いカーテンで仕切られていて、観客席のように椅子が並べられていた。米軍らしき長身の男が、下品な手真似をしながらこちらに寄ってきたが、慌てて若者たちが取り押さえる。 「ま、まだだ。先生が来るまで待てって」  奥の壁に見慣れた作曲家の額縁がうっすらと埃をかぶっていた。手前にカウンターがあり、場違いな洋酒の瓶がいくつも並んでいる。ボトルの先を指で弄んでいる昇と目が合った。何か言いたそうに顎を引き、上目遣いに睨んでいる。  ここにいることが不思議に思えた。米軍相手に股開いているところをみて、楽しいのだろうか。他人に快楽のために使われるより、自らの手で切り刻みたいと思わないのだろうか。自分の欲望を抑えなくてはならない弱みを、握られているのだろうか。  さっきは失敗したが、感情が表に出ないように、無駄なことを考え続ける。  金髪が震えながら、手を縛っていた紐を切ったので、自らベッドへ進んだ。昇を見つめながら……。睨みたいところだが、そこまでの力ももうない。それでも、昇も視線をそらさない。  ベッドに腰かけるとしっかりとしたスプリングを感じる。ジャケットを脱いで枕元に置く。ボタンを飛ばされたシャツはスルリと開いて、肌をさらした。 「おいおい、俺たちの前に誰と遊んだんだ!」  刺青だらけの太い腕を振りながら、一人の米兵が近寄ってきた。若者が3人がかりで抑え込むように前を塞ぐ。すると一人を抱きかかえて、頬を舐め上げた。若者が悲鳴を上げると、ほかの米兵がわざとらしく笑い声をあげた。抱きかかえられた若者の尻を擦り上げると、押さえつける役の若者は後ずさって、他の米兵からも手の届かない距離を保つ。 「雑種とヤるならオマエの順番はラストだぞ」  ランニングシャツの男が洋酒のグラスを舐めながら言う。人垣の間からこちらに視線を送ってきた。目が合うと、シャツがはちきれそうなほど筋肉をアビールし、両足を開いて股間を強調してきた。刺青の男はパッと手を離して、不満そうにウィスキーのボトルを咥えて、水のように飲みほした。涎まみれになった若者は、転がるように教室の隅へ逃げて身体を丸めた。  怖がる様子を見せないようにマウスピースに舌を押し付け、昇の方に視線を戻す。ゆっくりと両足を投げ出すと米兵の冷やかしの声はますます激しくなり、昇が顔を引きつらせた。  ――その手で痛めつけることができないのは、どんな気分だ。  挑発するように見つめていると、忌々しげに顔を歪め、カウンターから出てこようとした。しかし、一人の長身の米兵が昇のいるカウンターに寄ってきたので、元の位置に戻る。 「本当に兄弟か? 兄貴と違って綺麗だな」  などと米兵に声を掛けられるが、昇は黙ったままグラスに洋酒を注いでいる。米兵が煙草を咥えると、昇が顔をしかめて指で上を差した。 「先生は煙草嫌いだから屋上で吸え」  米兵は肩を竦めてこちらへと歩いてきた。ニヤニヤしながら見下ろしてくる。 「俺のイーグルはオマエの腕より太いぞ。奴らでゆっくり慣らしておけよ」 「二度と飛べないように、首を噛みちぎってやるよ」  そう返すと顎を救われた。毛むくじゃらの指が肌を擦る。 「兄貴と違って英語も綺麗だ」  そう言われてまた昇に視線を戻すと、怒りを抑えるように手を震わせていた。  男が出ていってからすぐに昇のスマホが鳴った。短い通話の後、昇の表情は生き返り、勝ち誇ったように声を上げた。 「先生が到着された。まもなくここへいらっしゃる」  横から歓声が聞こえた。 「残念だったな。ヒーローは来ないよ」  そう言われて表情を変えたのは、人垣となっている若者たちだった。  考えないように。  誰の顔も見ないように、廊下の方を向いて横になった。  終わりだ。 「いいですか。今回はむやみに突っ込んで、即座に終わらせないようにしてくださいよ。動画にするので、そこは意識してくださいよ」  昇が英語で言うと口笛を吹くもののほか、「めんどくせぇな」と不平を上げるものもいた。 「じっくり痛めつけて、ゆっくりと勿体ぶって、『入れてください』と鳴きながら懇願されるくらいに。こいつの本性を暴いた方に、ボーナスも支給します」  昇が付け足すと、米兵のボルテージは上がり、人垣となっていた若者たちが、左右の壁に引いて行った。ライトの位置が調整されているのか、光が動く。カメラもいじっているのだろう音が聞こえた。  やがて扉が開いて、SPらしきスーツの男が二人、内部を確認するように眺めまわし、車椅子の老人を押し入れた。シミだらけのしわくちゃな顔がいびつに歪んでいる。 「おーおー。これは警視庁組織犯罪対策第五課もとい、薬物銃器対策課のエリート刑事さんじゃないですかぁ」  車を自ら回して、こちらに寄ってくる。目線が合わないように、シーツを眺めた。 「堅物の片桐をその気にさせるテクニックを、今日はじっくり味わわせてもらおうかいのぅ」  臭い息が鼻にかかる。右手をシーツの間に潜らせて、左腕をぐっと掴んだ。震えない。震えちゃだめだ。 「先生。何を飲まれますか?」  昇の声が真上から聞こえた。車椅子のグリップを握って、向きを変えた。 「スコッチの種類は増えたか」  しわがれた声が遠のくと同時に、足元のあたりがズシンと沈んだ。そちらに意識を向けていたら、ふいに腕を掴まれた。壁に叩きつけられたのかと思うほど、背中にピタリと男の肌が張り付いた。 「おや、随分挑発したわりに、キンチョーでガチガチだな」  酒臭い息が耳に当たった。背中から回された腕が肩を抑える。足元から、刺青男が涎を垂らしながら迫ってきた。カーニバルのアイマスクのようなものをしているのは、ビデオ対策だろうか。もう一人の男が、いきなり太腿に右手を突っ込んできたので、膝に力を入れると、刺青男の涎が、ポタポタと腹に落ちた。肌が泡立ち、思わず眉間に力が入る。 「おお、かわいいねぇ」  左側のカメラとライトが寄ってくると、太腿をいじっていた男が怒鳴る。 「オイ、眩しいよ!」 「うるせー、耳元で怒鳴るな」  ベルトを外そうとした刺青男が押しやるように肘を突き出すと、場所を取り合うように上で二人がもみ合いになった。後ろから伸びた手が、シャツを脱がすように脇の下を滑った。もみ合っていた手があたり、スタンドライトがガシャンと音を立てて揺れた。眩しさに目を閉じた。  その時突然、雷鳴が響いた。

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