40 / 50

第40話 はなむけに

   *  あまり衛生的とも思えないような、古びて擦れた廊下に、つぎはぎだらけの壁紙。色の揃わない蛍光灯の灯りが、たわんだ天井から落ちてくる。  立ち止まった萌絵の肩に、朝倉が両手をおいて軽く揉むと、何度か頷いた。萌絵がドアをノックする。締まり切っていないドアの先から反応がなく、もう一度ノックしてから、恐る恐る萌絵がドアを開いた。相変わらず黒づくめの朝倉の肩越しに、首を伸ばして中の様子を伺った。  クリーム色なのか、経年劣化の白壁かわからないこじんまりした部屋だった。唯一清潔そうなシーツから、たった今まで泣いていましたという顔が表れる。 「みのりん、お見舞いに来たなりよー」  気付かないフリで、萌絵がいつものように声を上げると、もう一度目元を擦って、渉が身体を起こした。肩を骨折したらしく片手を釣った状態で固定された姿が痛々しい。萌絵が起き上がるのに手を貸しながら、嬉しそうに笑った。 「やっと会えて嬉しいよぅ」 「ありがとう。心配かけたね」  大人な微笑みを向けると、萌絵は少女のように頬を赤くした。照れ隠しで、お見舞いの品といって海外ミステリーの原本を何冊も鞄から出した。朝倉は窓際まで歩み寄り、クーラーが効いている部屋にわざわざ窓を全開にして、生ぬるい空気を呼び込んだ。空が眩しい。海が近いようだ。 「母親にはあったか?」  振り返った朝倉を、意味ありげにじっくりと見つめ返し、我に返ったように渉はコクリと頷いた。 「今日、これから来る予定なんだ」  朝倉が下唇を突き出して、変顔をする。 「ニアミスする前に帰るか」  チョイスした理由を述べながら本を積んでいた萌絵が「えーもう?」と言う。まだ、残暑厳しい中涼し気な顔で、コートのポケットに両手を突っ込んだ朝倉が、部屋を突っ切る。 「朝倉さん」  うむ、窓閉めてくれって言った方がいいぞ。渉が声にすることを躊躇うように、口を開く。 「……と…くしげ…は…」  え? いやいやいや、コイツに聞いても…。 「相変わらず死んでたよ」  ほぉうら、無駄だよ。あ、そんなつまんない回答に、わかりやすく項垂れてしまうと、萌絵じゃなくてもオロオロするぞ! 鬼だろ、オマエ! 落ち込んでしまった二人の様子をみて、驚いたように目を丸くすると、ため息をつきながら朝倉は、ベッドの傍らへ来て両手をついた。 「馬鹿は死ななきゃ治らないっていうから、一度くらい見過ごしてやれ」  いやー、慰めになってないですよ、姐さん。俯いた腕の包帯に涙が落ちる。ほら、ちょっと、どうしてくれるの。 「…伝えたいことが、たくさん、あったのに」  萌絵が両手で頬を抑えながら、もらい泣きとは思えない勢いで大粒の涙を隠した。二人の顔を交互に見比べ、面白がるように瞬きしながら、朝倉が渉の自由な方の手を握った。 「冥土の土産にキャリーオーバーはない。怨み辛みはあの世で好きなだけ言えばいい」  殺しても死なない女だと、散々理解はしたが、できれば一度殺したい。そう思って見ていると、渉がハッとしたように握られた手を見つめた。朝倉が、目線を追って固まる。 「朝倉さん、あの時――自衛隊の救護班に担架で運ばれる時、俺の手握ってくれた?」  朝倉が思い返すように、握った手に視線を向ける。    プールサイドで、爆風が止んだ時、朝倉は先に渉の身体を引き上げた。  作戦どおりなら、潜入した4人と渉で、校舎の屋上へ戻り北側から離脱。『悪いタレコミ』から爆弾処理のため現場へ駆けつけていた自衛隊に、あとは任せる予定だった。だが、間に合わないと判断した朝倉が機転を利かせて、俺と渉をプールへ誘導した。救護班がプールサイドにて怪我人を回収することとなった。助かりそうな者から救護するのが鉄則だから、特に問題もない。水中でようやく渉を抱きとめてからの意識が、俺にはない。 「いや? まだあのでくの坊の傍らにいたと思うが」 「……やっぱり、そうか」  渉はそう呟きながらも、握ったままの朝倉の手を眺めていた。朝倉も不思議そうに首を傾げたまま、握られた手を振り払わずに見ていた。    *  テレビや新聞では、事件のことが連日取り上げられていた。大体、カステラを一口齧ったような、あの校舎の有様と、現場で遺体となって見つかった防衛大臣の沖永の顔が大きく取り上げられていた。この平和ボケした日本でテロを企てようとする組織が、千葉県の廃校で爆弾を作っているというタレコミがあった。このため自衛隊が現場に駆け付けたが、追い詰められた組織の者が証拠隠滅のため、全てを爆破したのではないか。  テロ組織のリーダーとして簑島昇の名前も上がり、彼の悪歴を列挙するだけでもワイドショーの時間枠には収まらないほどだった。なにより、人集めのために繰り広げられた沖永防衛大臣の悪趣味ショーで、犠牲になった被害者が未成年や芸能人であったことも暴かれ、テロ未遂事件の全容が薄れてしまうほど、スキャンダルへと世間の興味は移っていった。  資金源として大麻や薬物の取引に一部の米兵が絡んでいることも、センシティブな問題であるだけに、当初さらっと触れただけで実態がどうだったとは、2週間経っても報じるところはなかった。事件に関わって死亡したとされる若者は、SNSで集められた素人であったことから、『高額バイト』『闇バイト』の危険さや貧困について触れることはあっても、昇が海外で犯した罪について追及されることもなかった。  昼間、ごま塩頭の男が、制服の少女を連れ立って、渉の病室を訪れていた。退職して田舎へ引っ越すそうだ。定年まであと少しなのだから留まるように勧めていたが、少女は父親の袖を握っているのをみて、渉も諦めた。少女は声を出すこともなく、ただ一礼すると二人は静かに出て行った。  公安はもとより警視庁や内調、自衛隊も唯一の生存者である渉に調書を取ろうとしていた。正直に誠実に応対しているつもりでも、本人の憔悴っぷりはドクターストップが掛かる前に、捜査官が引き下がるほどだった。歪んだ兄弟間のコンプレックスにより拉致されたもの、それ以上になにもないと、今回ばかりは完全な被害者として誰もが納得したようだ。  昇の高校時代のクラスメイトだという男が言う。 『頭はいいけど、キレるとなにするかわからない奴だった』 『弟にコンプレックスがあるとかって。兄弟がいる奴で…兄貴の悪口とか言ってた奴が交通事故にあって。駅のホームで突き飛ばされたって奴とかもいて』 『なぜかみんな、そういえば兄弟がいて兄貴の悪口をあいつの前で言ったら危ない目にあったとか噂になって』 『そういえば、あいつとよくつるんでた奴も自殺したりとか。』  今回、テロを企てた関係者全員、二十名以上が爆風で亡くなった。生存者1名については伏せられていたが、自衛隊病院にその日担ぎ込まれた者がいるということが広まり、すぐに暴かれてしまった。 『因縁の弟を道連れに』  入院しているのが、簑島渉だと特定されると、コンプレックスを抱くだろう渉の経歴とエリートっぷりも週刊誌は掻き立てたが、テレビや新聞には掲載されなかったため、裏どりのできないゴシップ記事として片付けられた。大金持ちの球団や、警視庁OBがいる芸能事務所、財閥、それらの人間の記事の一線がどこで引かれて、いつやり取りされているのかわからない。金の力なのか、敵に回してはいけない何かなのか。渉の母親が見舞いに来る暇ができたのは二十日も経ってからのことだった。  それまでに電話のやり取りくらいはしているだろうが。それにしても秀水は、地下のあの薄暗い部屋で会った時より、明らかにやつれ疲れ果てた様子だった。親子の対面ものぞき見するほどデリカシーがないわけじゃないので、ついていかなかったけど。

ともだちにシェアしよう!