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第42話 決別

 植物状態となった場合、回復の希望より死の覚悟を抱く者の方が多い。医者は自発呼吸がない状態でも、何十年後かに回復した例などをあげ、敢えて望みを捨てないよう古ぼけた奇跡のエビデンスを挙げるが、ここにそれを最後まで聞くものはいなかった。  そもそも親族ではないのだから、生成与奪の権を握る者はいないのだが。かといって、親族に報せ、こうなった経緯を説明しようとする者もいない。  無菌室のガラスは、息を吹きかけると白く曇ってすぐに消える。ガラスの向こうで幾つもの管に繋がれ、赤や緑のグラフに維持されている身体を見て、萌絵はもう一度浅く息を吐くと、先に部屋を出た。それを機に朝倉も無表情のまま挨拶を交わして出て行った。きっと彼女らとは、これでお別れなのだろう。  秀水が何か語り掛けるように口元を動かしているが、ここまでは聞こえない。腕を組んで額をこすりつけるようにして、いつまでもガラスの前に立っていた。  不覚にも渉に叱咤された勢いで、筐体(からだ)に戻ってしまった。機械がいろいろ助けてくれているらしいが、神経がイカレているのか感覚が戻らないだけなのか、手足まで実感することができない。指先を動かそうとか、脚をあげてみようとか、それ以前に瞼を開けようとか、そんなこともできない。できないというか、身体の部分を感じることができないほど、鉛の筐に間違って入ってしまったような感覚だった。こんな重苦しい筐にいるより浮遊していた方がマシと、もう一度抜け出そうとしたが、それもできなくなっていた。  秀水の緊張感を感じ取って、気色を向けると渉が入ってきた。目は開けられないから気配を感じているだけなのか、五感の一部はまだ幽体離脱しているのかわからないのだが、なぜか認識できた。ギブスも外れ、歩行も軽やかな渉を確認できる。スーツを着ているということは、退院するのだろうか。 「驚いたな。ここへは一度も来ていないと聞いていたが」  秀水の言葉を無視するように、渉が暫く無言でこちらを見ていた。そう渉は、この病室へは一度も姿を見せなかった。 『ヤッホー。俺は元気だぞ。腹に穴空いているのに水泳なんかしちゃったから、ちょっと大事みたいになってるけどな』と、心の中で手を振ってみるが、通じてはいないだろう。 「最後なので、見納めに…」  ん? やっぱり退院するんだな。ていうか、見舞いには来ないってことかな。 「最後って…」 「俺という存在がなければ、彼はこんなことになってなかった。俺が好きにならなければ、巻き込むこともなかった」  秀水を遮って渉が言う。でもそれは違…。 「昇をこの手で殺しても、その法則は変わらない。恋人だと言った彼の言葉を信じて、祈ってみたところで、この有様だ。奇跡はない。もう彼が俺の手を握ってくれることがないなら、全てを捨ててどこかへ行こうと思う」 「……」  俺をも遮って渉が決意表明すると、秀水も返す言葉がなかった。項垂れかけて、額に手を当てて上を向く。 「私の筋書きは気に食わなかったか?」 「そうですね。省庁のどこかでまともな役職に就いていると思っていたので、まず貴女の組織自体、うまく飲み込めません」  まぁ、法の下に動く警察組織の人間だからな。俺や朝倉のように裏に近い者より、理解し難いものなんだろうな。 「そもそも、作戦自体納得できていません。爆破すると決まっていたなら、動けない身体の徳重を起用する必要もありません。武器装備で朝倉さんが突入する必要もありません。俺の奪還が目的なら、催涙ガスを投げ込んでガスマスクで部隊が突入すれば済むことです」  それは作戦通りに行かなかったことが原因で、お母さんは俺の気持ちを汲んでくれただけだぞ? 「確かに打算があった。この二人を私の組織に取り込めたらと考えた。なにより、沖永防衛大臣が癒着していた筒美会と関連があるという徳重くんの存在は利用価値があった。テロの内部告発者とすれば、道筋も立てられるし、司法取引ではないが功労者として裏社会から…」 「それを彼が望みましたか?」  渉が強い口調で言う。つーか初耳なんだけど…。今回の件、俺が内部告発したために自衛隊が突っ込むと知り、追い詰められたテロ組織が自爆したってことになってるわけ? その功績で裏社会の人間だったってことも、放免されるよう手を回してくれたってこと? 「きっと今の会話が聞こえていたら、貴女の発言にびっくりしてますよ。事態の裏なんて読まないんです、こいつは。ただ、約束通り、俺のもとに行きたかっただけ。それを貴女が理解してくれたと思っているはずです」  …そうだけど、それを俺は責めたりしないぞ。 「…すみません。責めるつもりはありません」  ヒートアップしていたことに気付いたのか、渉が深呼吸する。しばらく間をおいて、秀水は静かに言った。 「母親の子殺しを、私は覚悟していたし、オマエにそれを背負わせる気はなかった」  深く息を吐いて渉が首を振る。 「自分と母親を救ったという朝倉さんの言葉は、その時理解できませんでしたけど。貴女のためではなく、俺自身がそうしたかったのだと思います。躊躇いもなく、引鉄を引きました。ずっと対峙したかったのだと思います」 「それを果たした後、生きる気力を失くすのではないかと、彼は心配していた」 「……」  ふたりの視線がガラスの向こうに向けられる。  うん。生きて欲しかった。目的を果たしても、俺も覚悟したし、たとえその手を汚すことになっても、生きていればなんとかなるって教えたかった。俺がオマエに救われたように――。ふたりでいればなんとかなるって…。 「…救われた命なので、捨てたりはしません」  弱弱しく渉が言う。不安げな沈黙が続く。 「彼の入院費は俺が払います。薄給なので、退職金合わせても雀の涙ですが」  働きます。小さい声だがそれでも強く感じた。うんうん、働かないと生きていけないからな。復帰したらちゃんと金は返すから安心しろ。 「…連絡を、くれるか?」  秀水が弱弱しく言う。 「落ち着いたら…」と呟くようにして渉が出て行った。あっけない。名残惜しまない。  代わりに秀水が呆然としたような顔で、いつまでもそこに佇んでいた。

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