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第2話

 時は流れ、私は十六になった。宮中に居を移してからの私は宇治宮(うじのみや)と呼ばれ、これまでとはまったく異なる暮らしをしていた。宇治では下仕えの子どもたちと遊ぶことが主だったが、ここでは漢詩や和歌、書道、琵琶など、そういった貴なる人らしい教養を一から指南されたのである。あいにく私には才がなくどれも伸び悩んだものの、桐壺様や東宮様から直接ご指導いただくことが多く、教え上手のお二人のおかげで勉学はさほど苦ではなかった。  桐壺様も東宮様も、実子に対する愛と変わらぬ情を私にも注いでくださった。父の死を契機にひっそり朽ち果ててもおかしくない境遇だった私をここまで救い上げてくださったお二方には、一生をかけて恩を返すつもりである。それゆえ、ひとときでも早く元服(げんぷく)(男子の成人の儀)し、臣下に降りることを私は願っていた。宮の立場に留まり、万が一にも皇位継承争いに巻きこまれるのは本意ではない。それを避けるため、実権のない形だけの位に就くよりは、臣下に降り、まつりごとに携わることで東宮様の御世を支えてゆきたかったからだ。  しかし、その夢は今のところ実現しそうにない。  昨年、東宮様は即位し帝とおなりあそばされた。先帝および先帝のきさき様方は皆宮中から退出し、帝は梨壺(なしつぼ)から清涼殿(せいりようでん)へ居所を移した。通常であれば、これに伴って女御様方も住み処を清涼殿近くの殿舎に移すものだが、女御様たちの住居は据え置きとなり、桐壺様の住まいも淑景舎のままであった。淑景舎は梨壺からはとても近いが、清涼殿にはほど遠い殿舎である。 「なぜ桐壺様をおそばに呼ばれなかったのでしょうか?」  不思議で尋ねた私に、帝はこう仰った。 「新東宮はまだ幼い。母親が近くにいたほうが良いのではないかと思ってね」  現在梨壺に住まわれている新東宮は七歳。確かに幼くはあるが、私はどことなく釈然としない思いをした。この時代、子どもは乳母や女房など側仕えの女たちによって育てられるものだ。もちろん、父母の愛情は大切だが、幼児期を過ぎたのちに同じ居所で暮らすことはまずないため、わざわざ桐壺様が淑景舎に留まる理由にはならないように思える。それに、桐壺様以外の女御様方も、梨壺の近くに住まわれたままなのはどういった理由なのだろう。そのような中、なぜ私は清涼殿に近い藤壺(ふじつぼ)へと居を移すことになったのだろう。藤壺は本来、その御世でもっとも後ろ盾がある女御様、あるいは寵愛深い女御様が賜る殿舎だ。そろそろ成人を迎える男の宮に授ける居所ではない。また、最近はそれぞれの女御様方を夜に召されることもないと噂に聞く。  帝のご意向がわからぬまま、私は藤壺で日々を過ごしている。 「主上(しゆじよう)(帝の別称)、そろそろお戻りになったほうがよろしいのでは」 「そのようなことを言わずに、もう少し宮のそばにいさせておくれ」 「昨日もそのようなことを仰って、夜半まで寝入ってしまわれたではないですか」  文机に向かい書の練習をしている私の膝に、帝が頭を載せている。政務を終えた帝は、連日藤壺にやってきては寛いでゆかれるのだ。隔たりなしで帝と対峙できるなど滅多なことではない。まして、藤壺にいるときの帝は直衣よりもさらに砕けた、衵(あこめ)(中着)を重ねただけのお姿である。それほど打ち解けた様子を晒してくださることはたいへんありがたく、光栄なことである。養い子として誉れに感じているのは事実であるが、他のきさき様方を差し置いて帝を独占していることに、どうしても引っかかりを覚えてしまう。 「宇治宮はそんなに私と過ごしたくないのかな」  つ、と腕を伸ばし私の頬に触れる帝。いやおうなく視線を向けると、私を見上げるまなざしとぶつかった。声音は穏やかなのに、突き刺すような目線だった。それはまったく主芙婀らしい、ひりつくような緊張感でもって、私の身動きを封じた。  貴族の中にも、主芙婀の血を持つ者は複数いる。しかし、当代もっとも優れた主芙婀はこの帝であろう。畏れ多いことながら、帝には常日頃父とも兄とも友人のようにも接していただいている。しかし、ふとしたときに滲み出るその威圧感に、凡庸な私は背筋を震わせてしまうのだった。 「わ、私にとって、主上と過ごす時間はとても大切なものでございます」  声を揺らす自分が情けなく、親しさを感じてくださっている帝にそのような態度を取るのが申しわけなく、私はせめてその思いが伝わるよう、まっすぐ帝を見つめてそう告げた。 「ならばこれ以上、つれないことを言うものではないよ」  私の後ろめたさを気にした様子のない帝は、繊細な指先で私の強張った頬をなぞってゆく。愛し愛しと呼びかけるようなしぐさはまるで女人に行うもののようで、私はむず痒さを覚えつつ、先日のことを思い出した。  先日――夜半にふと目が覚めた私は寝つけなくなってしまった。しかし、暗がりの中一人じっとしていると、考えずとも良いことまで深く考えこんでしまいそうになり、末恐ろしくなった。そこで私は、月でも眺めるべく御帳台(みちようだい)(座所や寝所として使用した調度品)を抜け出ることにした。燈台に灯る微かな明かりを頼りに妻戸(つまど)まで歩き、簀子(濡れ縁)へ滑り出ると、大きな青白い月がぼうっと闇に浮かんでいた。その美しさに私は嘆息した。弥生(三月)とはいえ夜の空気は冷たく、冷気が頭を冴え冴えとさせる。高欄(こうらん)(欄干)に手をかけ、しばらく月を見やっていたのだが、ふいに女の苦しげな声が聞こえてきて、私は肩をそびやかした。  何事かと背後を振り返る。渡殿(わたどの)(廊下)には女房たちの住まう局(つぼね)(部屋)が並んでおり、その内の一室から聞こえてきたように思う。  おそるおそる近づいていくと、夜半にもかかわらず格子を上げたままの局があり、中の様子を窺うことができた。几帳で仕切られた狭い局の奥では直衣姿の男が身を屈めており、その向こうに、袿を乱した女の白い肌が垣間見える。男の身体が上下に動くたび、女からは甲高い悲鳴があがった。 (これは……)  初めて目にした男女の営みに自身が熱くなる。はしたないとわかっていながら、どうしても立ち去ることができない。男の押し殺した息遣い、女の鼻にかかった声、白くたわわな乳房。ついもっと見たくなり一歩踏み出したそのとき、踏みしめた簀子が軋んだ。 「誰だ」  誰何の声があがり、私は大慌てで自室に駆け戻った。身体中が熱く火照り、御帳台に横たわってもその熱は治まらなかった。そのようなときいつもしているように、私は自身を上下に擦り、その熱を治めようとした。しかし、そのときはいつもと違うことが起こった。白く粘りのある液体が噴き出てきて、目が飛び出るほど驚いた。  病気かもしれない。そんな思いでまんじりともしないまま、夜を過ごした。  翌日女房に病気のことを尋ねたら、それは病ではなく大人になったしるしだと教わった。初めてのときは驚きそれどころではなかったが、ただ擦るだけでなく精を絞り出す行為は今までにないほど気持ちが良く、その日から私は幾度となく自慰を繰り返した。  そのせいか、以前に比べて私の肌は過敏になってしまった。小さく居住まいを正すと、帝がくつくつと笑い声をあげた。 「いつもより反応が艶っぽいね」  からかうような物言いはきっと、私の身体の変化に気づいているからであろう。帝の頭のすぐそばで、自身がゆるりと熱を持ち始めている。逃げ出したくなる気持ちを抑えつけ、私は恨めしげに帝を見やった。 「わ、私も大人になりましたので……」 「まだ君は元服していないだろう」  私の元服の願いを棄却しているのは帝ご自身だ。何度となく取り下げられているが、私はここぞとばかりに口を開いた。 「しかし、私の身体はすでに大人になりました。いつ元服を迎えても問題ないはずです。そ、それに先日、源中納言(みなもとのちゆうなごん)様には添臥(そいぶし)のお話をいただきました」  添臥というのは、天皇家に連なる皇子たちが元服の日の夜、女性を添い寝させることをいう。添臥の任にあたった姫はそのまま正妻となることが多く、つまり、源中納言様は私と姻戚関係を結ぶことで後見になろうとしてくださっているのだった。取るに足らぬ身でありながら、もったいなくも幼き頃より帝からの愛情を充分すぎるほどいただいている私には、以前からそうしたお声がけをされる方が多々いらっしゃった。しかし、帝が即位され、私の元服も間近になった今、話は本格化するどころかまるで音沙汰がなくなってしまい、途方に暮れていたのだった。宮家とはいえ、後見人がなければ没落するのは世の常だ。私の父のように。そうなれば、臣籍に降ろうともたいした身分はいただけない。ともすると、帝の手足となるなど夢のまた夢なのだ。そのような中で、唯一お声がけをいただいた此度の話は私にとってたいへんありがたく、必ずお受けするべきだと思われた。しかし、帝は美しいかんばせを歪ませ、吐き捨てるように呟く。 「源中納言が? 私が睨みを利かせているのを知らぬわけでもあるまいに……」 「に、睨み? っ、どういうことでしょうか?」  私の元服を厭っていることは知っていたが、公卿(くぎよう)(高位の貴族の総称)たちにまで何か働きかけをなさっているとは思わなかった。それほど私の元服を避ける理由がわからず、私は思わず大きな声を出してしまう。すると帝は御身を起こし、私と向きあった。すらりとした長身が、私を覆うように抱きしめる。衣に焚き染められた涼やかな香りが大人の色香を醸しており、妙に胸がざわついた。 「大切な宇治宮を手放すのが惜しいのだよ」  耳元でそう囁くお声も、直衣の上から何度も腕をさするしぐさも、女人に対して行うものではないかと思わせる艶がある。否、私のような凡人に、ましてや畏れ多くも養い子である私に、そのようなお振る舞いなどされるわけがない。きっと気のせいに違いない……。私はいつものように首を振って、馬鹿な考えを打ち払った。しかし。 「宇治宮、君にも私と同じように、離れたくないと思っていてほしいのだけれど」  おとがいを掴まれ、そっと口づけを落とされる。何度となくされてきた行為だが、今はこのまま受け止めてはいけないような気がした。 「しゅ、上……、お戯れは、おやめ、くださ……!」  ぐいと帝の胸板を押して距離を取る。しかし、御年二十二の壮麗な帝は、いまだ童形の私などよりよほど力が強く、さらに強く抱き竦められてしまった。 「戯れだと、そう思うのかい? ……君はもう大人になったのだろう? 本当にわからないのかい?」 「わっ、わかりません……!」  身体の自由を奪われながらも、私は必死に顔を左右に振った。帝のお気持ちなどわからない。大人になってもわからない。知りたいと願っていたはずなのに、今となってはわかりたくない。  そう思う私を裏切るように、いつの間にか私は表着(うわぎ)を脱がされ、押し倒されていた。 「君が大人になるのを待っていたんだ」  元服をことごとく却下していた帝の口から、その言葉を聞こうとは思わなかった。私は驚き、帝のお顔を見上げる。帝はうっすらと口元に笑みを刷き、私の唇をふたたび奪った。  じゅっじゅと、水音が響く。帝がいらっしゃる際は人払いをしているため、この音を聞くのは私たち二人だけだ。そうわかっていても、羞恥で身が竦む。恥ずかしい。  小袖(こそで)(下着)の前を開かれ上半身が晒された。慌てて隠そうとしたが帝はそれを許さず、板の間に手首を押さえつけられてしまった。あらわになった私の身体に唾を呑み、そっと空いた片手で胸をなぞる。その指先の冷たさに、私は身体を震わせた。 「宇治宮……、この玉肌に触れられる日がようやく訪れて嬉しいよ」 「た、玉肌など……ろくに手入れもしていない、人並み以下のそれです」  ですから手を離してください。そう続けたが、帝は聞いてくださらなかった。胸の飾りを捏ね繰り回され、最初こそくすぐったさに身をよじっていたが、やがて快楽の兆しを感じ始めた私は慌てた。 「もう、ご冗談は……これまでに」  まさか男の身で、このような戯れに反応してしまうとは自分が信じられなかった。太ももを擦りあわせ熱を逃がそうとしたものの、それだけではとうてい治まらない。このままでは帝の御前で精を放ってしまいかねない。身体を捻って拒絶する。しかし、腰を浮かせた拍子に指貫(さしぬき)(袴)を下ろされ、下半身を晒すことになってしまった。 「冗談ではないと言っているだろう。それにほら、君の身体は悦んでいるよ」  帝が私の足のつけ根をまさぐる。隠したかった劣情が帝の手に触れ、頬に血が上った。 「やっ!」  拒絶の言葉を発するつもりだったのに、自身を擦られた瞬間、甲高い悲鳴をあげてしまった。まるで女人だ。唖然とする私とは対照的に、帝は手の動きを速める。 「んんっ」 「ここに触れたのは私が初めてだろうね」  快感で濡れた瞳を向けると、帝が品定めするように私を見ていた。私は慌てて首を振る。 「そうっ、そうです……!」  それが事実だったし、もし違うと答えたらどんな目に遭うか……そうした怯えもあった。帝は私の言葉に満足したように微笑み、陰茎の先端を爪先で擦った。 「――あ!」  急速に上りつめた私は、帝の手の内に精を放ってしまった。熱が引くと、畏れ多さに言葉を失う。帝を汚してしまった。この世でもっとも貴き存在の、私の親であり兄であり主である存在の、帝を。  はっと我に返ったのは、帝が私の両脚を大きく開き、尻の窄みに触れたからだった。 「な、何をなさるのですかっ」  驚き半身を起こす。「私たちが繋がる準備だよ」にこりと応じた帝に戦々恐々した私は、床を蹴って距離を取った。尻に擦りつけられた精が気持ち悪い。 「わ、わ、私は男です! そのようなことはできませぬ!」  緩んだ指貫を足下にまとわりつかせただけの私は、雷を落とされたかのごとき衝撃に、思わず帝のまなざしを直視してしまった。これまで幾度となく目を背けてきたそのまなざしにこめられた熱は、養い子を見るそれではなかった。  脱ぎ捨てられた小袖に手を伸ばす。直後、帝の大きな手のひらが私の手を覆った。 「男同士でも繋がることはできるんだよ。私と君は一つになれるんだ」 「無理です!」  手を包みこむ体温に心臓が嫌な音を立てる。帝が心の底から不思議そうに私を見やるのがいたたまれない。 「なぜ無理なんだい? 私は君を愛しているし、宇治宮も私のことを特別に思っているだろう?」 「畏れ多くも主上は私の親とも同じ方! お慕いしておりますが、私には、私には、主上を受け入れることなどとうていできません!」 「宇治宮」 「嫌です!」  私が敬愛している帝は、人々の上に立つにふさわしい冷静で的確な判断力を持ち、それでいて、いかなるときも常に愛情深く接してくださる慈愛に満ちた方であった。しかし、その愛は畏れ多くも私たちが義理の親子であるからこそのもので、それ以上の情けは存在しないはずなのだ。癇癪を起こした幼子のように両手両足を振り回して、帝をはねつける。がたんと大きな音がして、文机が倒れた。書きかけの料紙(りようし)が舞い、硯が墨を散らせながら飛んでいったが、それでも私は暴れるのを止められなかった。少しでも力を抜けば帝に呑みこまれてしまうであろうと、そんな予感に慄いていたからだ。 「宇治宮、止めなさい」 「嫌です! 嫌です! 嫌です!」  私の両の目からはいつの間にか涙が噴きこぼれていた。情けない顔で、あられもない格好で、私はただ拒絶した。 「康仁(やすひと)」  しかし、帝に真名を呼ばれた瞬間、私は身動きが取れなくなった。言の葉には魂が宿る。このときの私はまさに魂を掴まれてしまったのだろう。そのくらい強く、人を従わせるお声だった。帝はいつだって私には優しかったので、怒気を孕んだ表情に思わず身が竦んでしまった。  静まった室内に、ひっくと私のしゃくりあげる声が落ちる。  床に投げ出した手を帝が丁寧に救い上げ、そっと口に含んだ。ぬめった舌先が小指の先をなぞれば、じんとした痛みが走る。そこでようやく、私は己の手先が傷ついていたことに気がついた。  べろりと舌が蠢くたび、私はしくしくと涙をこぼした。この情意が、悲しさか、恥ずかしさか、悔しさか、それともそのどれにも当て嵌まらぬのか、もはや自分でもわかりはしなかった。ゆえに、帝から「なぜ泣いているの?」と聞かれても答えようがない。唇を噛みしめ嗚咽を堪(こら)えていると、ふいに妻戸のあたりに人の気配がした。  衣擦れの音に気づいたのは私だけではなかったらしい、帝が応じる。 「どうかしたかい?」 「先ほど大きな音がしたので、様子を窺いに」  気配の主は女房の嵯峨(さが)だった。知っている声に助けを求めようとしたのだが、私が言葉を紡ぐより先に帝が彼女を追いやってしまった。帝の声音はまったくいつものとおりで、嵯峨には不審に思うところなどなかっただろう。  嵯峨の気配が遠ざかり、ふたたび沈黙が満ちる。 「……離してください」  もはや誰も来ないのだ。私は勇気を振り絞り、そっと帝の手中から己の手を引き抜いた。すると、帝はその手を掴み、片腕で私を手繰り寄せた。 「康仁、君が私を受け入れてくれないと困る」  体勢を崩し、胸元に顔をうずめた状態の私には、帝のご尊顔を窺うことはできなかった。大人であられるはずの帝の頑是ない物言いは、いったいどのような表情で仰られたものだろうか。 「主上には数多の女御様方がおられるではありませんか……」  いずれの女御様も今ではほとんどお召しにならず、もっぱら藤壺にこもられているとはいえ、私では女御様方の代わりにはならない。なぜなら私はただの男であり、帝の御子を宿すことはできないからだ。否、私だけではない、桐壺様以外の人間は皆、帝の真の伴侶たりえない。  私は、初めて帝と桐壺様の仲睦まじい様子を見たときの衝撃を、今でも覚えている。主芙婀が発情中の男女伽の首筋を噛むと、男女伽はその主芙婀の所有物となり、他の人間と交わることを生理的に受けつけなくなるそうだ。そうした人体の不思議ともいうべき特別な関係の中でも、魂のつがいというのはさらに特別な結びつきを持っている。肉体だけではない、精神的な繋がりだ。魂のつがいとは、互いにとって唯一無二の、愛さざるを得ないお相手なのだ。  それを踏まえたうえで、桐壺様は間違いなく帝の魂のつがいであった。平多の私でも、お二人が互いをかけがえのない存在に思っているのだと一目見てわかるほどだった。それほど特別なお二人の仲は、他のどんな女人であっても引き裂くことはできないはずであり、万が一にもしてはならない。ましてや私が、お二人を離間させるなど考えられない。 「桐壺様を、どうぞ桐壺様を大切に……!」  念じるように何度も繰り返す。腰に回った腕が私を突き放してくれれば良い。そして、私が憧れ続けた運命のお二人が、この先も末永く幸せにお過ごしくだされば良い。親を失う痛みよりも、そちらのほうがずっと大切なことだった。 「宇治宮は魂のつがいに憧れていたのだったね」  ため息をついた帝が私の頭に鼻をうずめ、大きく息を吸った。 「私にとって今もっとも甘美な香りは君のこの匂いなのだけれど」  薫物(たきもの)(練り香)は人によって調合が異なるが、私のそれは特別なものなど何もない、沈香を主とした香りだ。いっぽう帝はさすが世を統べるお方である、複雑に組み合わされた黒方(くろぼう)は華やかで格調高く、落ち着きも感じさせる。しかし、それだけだ。主芙婀の身から香るとされる特別な匂いは、平多の私には感じ取ることができない。 「桐壺様と主上のお二人だけが運命……。桐壺様に勝るお方はおりませぬ」  私の願いが通じ、帝は最後に一度強く私を抱きしめると、ふいに立ち上がった。私をじいと見下ろしながら、確かめるように仰る。 「桐壺のために私たちは結ばれぬほうがいいと言うのだね」  こくりと頷く私に「わかった」と微笑んで、帝は藤壺をあとにした。

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