5 / 39
第5話
「しんちゃん!」
透の呼び掛けに振り向いた伸也は、胸に飛び込んできた透を抱きとめた。ここは駅の前の道路で、明るく人通りも多い。けれど透はお構いなしにぎゅうぎゅうと彼を抱きしめる。柔軟剤と伸也の匂いがして、身体の力がふっと抜ける感覚がした。
「しんちゃん、どーしてここに? 仕事にしては遅くない?」
透はスーツを着ている伸也に問う。彼は苦笑して、ちょっと立て込んだ仕事をしていてね、と透の頭を撫でた。
「透、急に走り出すなよ……」
追いかけて来た守が伸也を見ると、伸也は「お友達?」と尋ねてくる。
「ああうん。こいつが守」
透は守に見られていることをすっかり忘れて、抱き着いたまま話した。ぐりぐりと頭を伸也の胸に擦り寄せ、ここが外だということも忘れて甘えてしまう。
「ちょっと透、くすぐったい」
クスクス笑う伸也の声が心地よくて、透は更に腕に力を込めた。こら透、と笑われてようやく、透は伸也から少し離れる。
「どうも、透がいつもお世話になってます」
にこりと微笑む伸也はおっとりしているけれど、守はどこか不審そうに伸也を見ていた。その視線になんだか透はムカついて、無言の守に、何か言ったらどうなんだよ、とつい棘のある言い方をしてしまう。
「いえ……こちらこそ」
「じゃあ守、しんちゃんがいるから送りはいいや」
透はひらひらと笑顔で手を振ると、守は苦笑しただけだった。そこで伸也がきちんとお礼を言いなさい、と言うので、透はアリガトウゴザイマシタ、と頭を下げる。
「……いや。また大学でな、透」
「うん」
そう言って守と別れると、透は伸也の腕に絡みついて歩き出した。こんな所で会えるなんて嬉しいし、家まで一緒に行けるとか、本当に家族みたいだ、と更に嬉しくなる。
「──何があったの?」
しばらく歩いて駅のホームへ向かう途中、伸也からそう尋ねられ、透はうっと息を詰めた。小さい頃から透を近くで見ているせいか、伸也は時々鋭い指摘をすることがある。さすがに本当のことを言うと心配されるので、誤魔化すことにした。
「いや? 遅いから途中まで一緒に帰ろって」
「それなら、守くんも一緒に帰れば良かったのに」
「アイツは反対方向だから」
それより、随分遅くまで仕事だったんだね、お疲れ様と透は言うと、伸也は苦笑してまた頭を撫でてくれた。
「透、ご飯は食べた?」
「うん。飲食店はまかないがあるの、良いよね」
「……焼き鳥が美味しいんだっけ?」
「そう! 今度しんちゃんも来てみてよ、一品何か奢るし」
そんな会話をしながら電車に乗り、伸也の自宅に着く。
「透、もう遅いから、先にお風呂入っておいで」
リビングに入るなり、伸也はネクタイを緩めながらそう言う。透はうん、と返事をして、あることを思いついた。
「俺が入った後だと遅くなるし、一緒に入る?」
「え?」
透の言葉に伸也は動きを止める。透もそれを見て、さすがにこの歳でこの提案はおかしいか、と慌てて否定した。
「あ、ごめん。小さい頃の感覚が抜けなくって……」
すると伸也は納得したのか、ああ、と笑ってネクタイを解いた。
「……いいよ。一緒に入る?」
「本当に?」
まさかオーケーしてくれるとは思わず、透はつい笑みが零れた。そしてしんちゃん大好き、とまた胸に飛び込む。
「こら透。遅くなるから先に入ってて」
「うん!」
透はウキウキと荷物を部屋に置いて脱衣所に行き、服を脱ぐ。ぽいぽいと素早く脱いだ服を洗濯乾燥機に放り込むと、浴室に入って手早く頭と身体を洗う。
そして湯船に入ったところで脱衣所から伸也の声がし、入っていいよと声を掛けると、腰にタオルを巻いた伸也が入ってきた。
「あ、オレもタオル巻けば良かった」
今更ながらの気付きに声を上げると、タオル取ってくるよ、と伸也は戻ろうとする。
「あ、いいよ。今更だし」
男だから減るもんじゃないし、と透は浴槽の縁に肘をついた。それに相手は伸也だ、今更恥ずかしがる仲でもない。
「懐かしいね、こうやって二人で入るの」
楽しかった幼い日の入浴タイムを思い出し、透は笑う。
「透はお風呂好きだったね。ずっと遊ぶって言ってのぼせてたの、何回やってた?」
「覚えてないよそんなのー」
笑いながら他愛もない話をするのが、こんなに楽しいなんて、と透は思う。
「楽しかったなぁ……」
そんなことを考えていると、伸也もそう呟いた。相手も同じ気持ちだったんだ、と嬉しくなって伸也を見ると──少し違和感を覚えた。
伸也は笑ってはいるけれど、どちらかと言うと、苦笑に近い表情をしていたからだ。
どうしてそんな顔をしているの?
そう問いたいのに声が出なかった。
不意に沈黙が降り、伸也が身体を流す音が浴室に響く。
「……透」
伸也は顔を手で拭くと、困ったような笑顔を向ける。何か良くないことが起きそうで、反射的に透は首を振った。
嫌だ、嫌な予感がする。その先の言葉は聞きたくない。
「……二人ともいい歳だし、依存するのは止めない? お互いに」
けれど伸也は、透にとって最も聞きたくない言葉を放つ。浴室だからか、伸也の声は妙に響いた。
「ゆっくりでいい。このままじゃいけないって、透も分かってるでしょ?」
「なん、で……? どうして、急に……」
かろうじて出せた言葉が、ぽつりと零れる。ずっと、伸也は透のことを許してくれていると思っていたのに。
しかし、伸也はゆっくりと首を横に振る。
「急にじゃないよ。透をそうさせたのは僕だって責任を感じてる。あの時はお互いが不安定で、お互いに寂しさを埋めていた」
でも、そろそろ僕に頼らないで、将来のパートナーを支える精神的な強さを持たないと、と伸也は言った。
透に強く頭を殴られたような衝撃が走る。
(こんな……こんなにも早く、これを言われることになるなんて……)
「ここに来ることを承諾したのは、あの両親のそばにいたら、透はダメになると思ったから」
そしたら精神的に自律するどころじゃなくなるでしょ、と伸也は困ったように笑った。確かにそれは間違いない。けれど……。
「……僕は身体も洗ったから先に出るね。のぼせないうちに出ておいで」
そう言って、伸也は浴室を出ていく。何で? もっとお風呂で楽しい話をしたかったのに、どうして急ぐように出て行くの? と、閉まった扉を、透は呆然と眺めていた。
じゃあ、ここに来た時に抱きしめてくれたのはなぜ? 透のわがままを聞いてくれていたのはどうして?
聞けない疑問が幾重にもなって、透の頭の中を巡る。
オレは、要らなくなった?
ぶるりと寒くなって身体が震えた。嘘だ、こんなの。
ぽとりと顎から落ちた水滴は、汗だったのか涙だったのか、分からなかった。
ともだちにシェアしよう!