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【第1話】支配されることが、幸福だなんてあるはずがない。

 ――支配されることが、幸福だなんてあるはずがない。  灰色の部屋に、青年はいた。  なぜこうなったのかと言えば、なりゆきに他ならない。けれど、こんなに最悪ななりゆきは、生まれてから今日まででベスト3ぐらいには入るかもしれない。 青年の目の前には、まだ若い警官が腰を掛けていた。警察官は、青年がこの世で一番、嫌いな人種だった。 「つまり、君は今日初めてあの男に会ったんだね」  それを聞くと、青年は胃の奥を何かでなぞられたような、げんなりとした気分になった。というのもそのはずで、もうかれこれ二時間以上、通算五回は同じ質問を受けている。  しかも、それを問いかける警官が、机の上に広がる供述調書から一瞬も目を離さないものだから、なおのこと苛立ちは募るばかりだった。 「だから、そう言ってんだろ。俺は何も知らない」  乱暴な口調で、青年は推定六回目の返答を繰り返す。  発端は、数時間前に遡る。  駅前である男と待ち合わせをした。もはや限界値を超えた欲求不満を、どうにか解消するためだった。面倒な性を抱えて生きている。誰かに命令されなければ生きていけない。青年は、本当は命令されることが嫌いだった。が、いくら心が嫌がっても、身体は命令を求め、悲鳴を上げる。青年が耐えられるのは数か月が限度だった。だから時折、インターネット上で命令してくれる相手を探すのだ。その日もそうだった。  その男は、名を田中と言った気がする。とあるSNSで知り合った。待ち合わせ場所に来たそいつは、ガラの悪い、いけ好かない男だった。その男は青年が待ち合わせの相手だとわかると、青年を品定めするように眺めた。そして、すぐにホテルへと誘ってきた。あからさまだが、そういう相手は後腐れがなくて助かる。欲求さえ満たされれば青年の内情には構わないでいてくれる。青年に断る理由はなかった。    まあ、そこまではよかった。  問題は、二人でホテルに入ろうとした時だ。  物陰からいきなりスーツ姿の二人組が出てきて青年と男を取り囲んだ。 「警察の者ですが」  まるで火曜サスペンスの光景だ。警察手帳を見せられた。 「少し、署でお話を聞かせていただいてもよろしいですか?」 「君も、いいかな」  そのままわけも分からずパトカーに乗せられて、二人別々の取調室にぶち込まれこのざまだ。詳しいことは青年には知る由もないけれど、警官の話から察するに、どうやらあの男は、連続詐欺事件に関与していたらしい。とんだとばっちりだ。  早く解放してほしい。こんなところで、油を売っている暇はないのだから。  警官が見ることのない足元で、青年の膝は、小さく震えていた。 *  数分後。  青年が取り調べを受けている部屋の前。スーツ姿の男がドアノブに手をかけた。年の頃は二十代後半。長身のすらりとした体型の男だ。彼――国近肇(クニチカ ハジメ)は警視庁刑事部捜査一課の刑事である。  本来ならば詐欺事件は二課の担当で、国近の管轄ではなかった。状況は変わったのは数週間前。Y市で起こった一件がきっかけだった。  その日、Y市某所。老人が一人暮らしをする家に、息子を名乗る人物から電話が入った。車で勤務先に向かう途中、事故を起こしてしまった。相手方の運転手が重症で、すぐにお金が必要である。知人がお金を受け取りに行くからお金を用意して渡してほしい。そんな内容だった。もちろん電話の内容は嘘八百。古典的な手口だが、老人はその話をすっかりと信じてしまったらしい。言われたとおりお金を用意したという。  数分後。一人の男が老人宅にやってくる。 「息子はどうなったんだ」  老人は慌てていた。男にしつこく息子の様子を尋ねた。しかし、その男の返答はどうにも煮え切らないものだった。あとからわかったことだが、その男は受子を頼まれていただけで、詳しい内容は聞いていなかったらしい。次第に返答はしどろもどろになり、矛盾していく。老人は不信感を抱いた。本当に息子は事故を起こしたのであろうか。電話口の声は、本当に息子のものだっただろうか。そう言えばイントネーションが少しおかしかった気がする。 もしや目の前にいるこの男は、自分をだましてお金を取ろうとしているのではないか。 「詐欺なのか」  老人はそう問いただした。もしそうならばお金を返してくれ。受子の男は焦った。そうこうしているうちに、二人はもみ合いになる。その日、運が悪かったのかよかったのか、受子の男は護身用のナイフを携帯していた。咄嗟の隙にそのナイフを手に取る。男は老人の腹部を刺してしまった。その後、彼はその場から逃走する。  幸いなことに、老人は近所の方に救助され一命を取りとめた。しかし、この一件をきっかけに、詐欺事件は強盗致傷の容疑も視野に入れての捜査がなされることになった。一課と二課の合同捜査がひかれることになり、一課から派遣されたのが国近だった。  老人を刺した男が逮捕されたのが一昨日。今日、捜査本部は一人の男の検挙に取り掛かっている。その男・田中は、詐欺の元締めを担当していた人物である。数日前から複数の捜査員がマークしていた。ようやく証拠固めが終わり、一人の青年と潜伏先のホテルに入ろうとしたところを任意で引っ張ってきた。  警視庁についてから数時間。取り調べで素直に口を割り、今はおとなしくなっている。  都内全域で頻発していた連続詐欺事件は、こうして収束を迎えていた。  が。 「状況は?」  取調室は大きな窓がついた壁によって、二つに仕切られている。窓から廊下側のスペースは、取り調べの様子を監視するためのスペースで、窓より外側が実際に取調べを行うスペースである。監視用のスペースにいた部下に、国近が問いかける。彼は首を横に振った。 「どうやら、本件とは無関係のようです」  その場所には、一人の青年がいた。田中に任意同行を求めた際、一緒にいた青年である。捜査線上には存在しなかった人物だ。彼の取り調べが終わらないと聞いて、国近はこの場所にやってきた。国近のいる場所から、青年の横顔が見える。浅黄色の髪をした線の細い青年だった。その青年は今、話を聞いているもう一人の部下に向かって、乱暴な言葉を吐いていた。 「せめて素性だけでも教えてくれれば帰せるんですけれど、ずっとあの調子で」  取り調べが始まってから約数時間。青年は自分の住所はおろか名前すらも明かさず、頑なな態度を取り続けているという。  国近は任意同行を求めた際の青年の様子を思い出す。自分が提示した警察手帳を見て、一瞬だけひどく怯えた顔をした。  それに青年の首元。服の隙間から、一部分しかのぞけなかったがあれはきっと……。 (……首輪だ)  性別の中にダイナミクスと呼ばれる力量関係が発現したのは、今から約半世紀ほど前のことだった。  この世には、『男』や『女』とは別に第二の性別がある。  DomとSub。  Domは「支配欲」のある性で、命令や躾をすることを求める。あるいは世話を焼きたい、庇護下におきたいという欲求を持つ。  Subは「被支配欲」のある性で、命令や躾をされたい、褒めてほしい、認めてほしいという欲求を持つ。    これらは本能で抗いようがない。  両者はPlayと呼ばれる特殊なコミュニケーションを行い、相互に欲求を満たすことによって生活している。  首輪があるということは、青年はsubなのだろう。パートナーがいるはずだ。そちらを当たった方が早いかもしれない。  国近が考え込んでいたその時だった。バンという大きな音がした。しびれを切らした青年が、立ち上がって机を叩いた音だった。  その様子を見て、国近は青年がいるスペースへ足を踏み入れた。 「代ろう」  部下にそう声をかけ、青年にもう一度椅子に腰を掛けるように言う。いきなりやってきたもう一人の警官に、青年は苛立ちまじりに舌打ちをしたが、抵抗する気はないようだ。大人しく従ってくれた。  机上に置かれた調書に目をやる。名前の欄は、やはり空白だった。年齢の欄にかろうじて二十歳とだけ記載がある。  童顔なのだろうか。あどけなさの残る顔立ちは、高校生と言われても違和感がなかった。指どおりの良さそうな髪の隙間から、色白の肌が見える。顔色が悪い気がするのは気のせいだろうか。 「君……」  国近は彼の頬に手を伸ばした。すると、 「俺に、気安く触んな」  彼がこちらを鋭い眼光で睨んだ。瞳だけは年相応以上に感じられた。  まるで、この世の汚いものすべてを、経験しきったような瞳だった。  なるほど。これは確かに時間がかかりそうだ。  国近は薄くため息を吐く。それから青年の目の前の椅子――先ほどまで自分の部下が座っていた席に腰を下ろした。 「はじめまして」  警察手帳を見せたので、厳密にははじめましてではないのだが。 「俺は」 「なあ」  国近の言葉を、青年が遮る。 「俺、まだ帰れねえの?」  不機嫌さを装っているが、不安そうな声色が音に乗った。 「……君が無関係だとしても、あの場にいた以上あの男との関与が疑われる。残念だけど、本当のことを話してくれない限りは帰せないよ」  国近はそう返答した。きゅっと、青年が唇を噛む。  はて。と国近は思う。どうしてこの青年は頑なに口を閉ざしているのだろうか。不名誉なことで疑われているのなら、さっさと真実を話してしまったほうがいいはずだ。  ましてや、あの男と青年は無関係な可能性が高く、この子が彼をかばう理由はどこにもない。 (よっぽど、言いたくないことがあるのか)  国近は、空白なままの名前の欄を見つめた。そして首を傾げる。 (……名前?) *  カタ。軋んだ音がした。青年がイスを少しだけ後ろに引いたようだった。その音に反応して、国近は調書から目を離し、青年に向き直った。その時、国近には少しだけ、違和感があった。青年の顔色が、なんだかますますよろしくない。長時間にわたる取り調べで、体調を崩す被疑者は確かにいるけれど、それとは少し違うような気がした。 「君」  声をかける。返答はなかった。これ以上は時間の無駄だ。青年の体調も良くないようだし、早めにカタをつけた方がいい。 はあ、国近はもう一度ため息をついた。 「じゃあ、その首輪のパートナーの連絡先、教えて」  ゆっくりと、青年が顔を上げた。国近の言葉の意味を認識して、大きく瞳を見開く。 「ひ!」  再び大きな音がした。青年がイスを思い切り引いて、床に転がり落ちたのだ。今度は手のひらで机を叩いたような生易しい音ではなかった。パイプ椅子と床がぶつかった金属音が、部屋いっぱいに反響する。国近は当惑した。  青年の身体が小さく震えていた。体中から汗が噴き出し、呼吸が不安定になっている。 「だ、めだ! や、やだ……あいつはっ…は、や、…」  国近が聞き取れたのは、そんな言葉にならない声だった。 瞳を震わせながら、青年は自分の首元に手をかけた。露になったのは金属製の首輪。数時間前、国近が見たものだ。青年のパートナーはそうとう支配欲が強いのだろうか。頑丈に南京錠までつけられていた。その首輪に、青年は手を伸ばす。そして、 「ちょっと!」  そこで、国近はようやく動き出すことが出来た。慌ててその手を掴み、制止する。青年は首輪を外そうとしたのだ。頑丈で、青年の力だけでは絶対に外れないであろう首輪を。そこにあることがひどく気に食わないという風に、自分の痛みすら顧みず、乱暴に。色白の肌に線状痕が出来ていた。今出来たものだけではない。 「国近さん!」  監視役の部下が入ってくる。 「人を呼んできます」  そう言って出ていこうとする部下を、青年の腕を掴んだまま目線だけで合図して、国近は止める。  国近には確信があった。これはダイナミクスの不調だ。人を呼んできても、よくなることはないだろう。国近の頭の中で、青年の存在が一本の線みたいにつながった。青年があの場所にいた理由、目的はきっと……。 「すまないが、しばらく席を外してくれ。出来ればこのフロアにも近づかないように」  怪訝そうな顔で様子を伺っていた部下に、国近は言った。部下は後ろ髪をひかれているような様子だったが、やがて納得したようで、言う通りにしてくれた。 足音が次第に遠くなっていく。  国近の腕の中。青年がボロボロになって泣いている。  国近は思考を巡らせた。青年を落ち着けるためには、その不調を解消するための処理をしなければならない。彼を病院へ運ぶことは簡単だ。病院に行けば、おそらく抑制剤を処方してもらえるだろう。薬を飲めば、今よりは幾分か楽になるに違いない。が、それは一時的な気休めにすぎない。第一、青年の様子から察するに、随分長いこと欲求不満状態が続いていると見て取れる。薬がどこまで効くかは未知数だ。欲求が解消されない限りは長く苦しむことになるだろう。  首輪を外したいと思うほどの拒否反応。パートナーとの関係が芳しくないのは明白だ。ダイナミクス性を持つ人間は、発生当初からすれば増えているが、それでもいまだ人口の十パーセントを下回る。ここを出たからといって、運よくすぐに相手が見つかるとは思えなかった。 ――そして、この場にはただ一人だけ、彼の欲求を満たすことができる人間がいる。  青年の涙のつぶが、みるみるうちに大きくなっていく。先ほどまで国近に向かって、あんなに強気な態度をとっていたのに、涙一つ、どう止めていいのか分からないようだった。 「大丈夫だよ。君を傷つけたりしないから」  思わず、そんなことを言っていた。優しく手を離し、首輪を気にしている様子の顔を、無理やりこちらに向けさせ、涙を拭いてやる。国近は自分に言い聞かせる。これは治療だ。 「俺の声、聞こえる?」  焦点の合わない瞳が揺れる。こくりと首を縦に振ったことを見ると、まだ意識はあるようだ。 「俺はDomだ。だから君を、楽にしてあげられる」  青年の瞳が、もう一度揺らいだ。国近は続ける。 「俺は君に落ち着いてもらいたい。でも無理強いをする気はないし、君が嫌ならすぐに医者を呼ぶ。どっちがいい?」 「……、て」 一度目は、上手く聞き取れなかった。 「たすけて」  それだけで、十分だった。 「分かった」  短くうなずいて、国近は青年から手を離す。  先ほど青年の自傷を止めた際に倒れてしまったイスを、少しだけ机から離れたところに戻して、国近はそこに腰をかける。そして、 「おいで、“kneel”」と言った。  よろよろと青年は立ち上がる。そして。  従順に国近の足元に跪いた。 「上手だね」  優しく褒めてやると、強張って震えていた肉体が弛緩した。力つき、国近の膝に倒れ込む。 「場所を変える。少しつらいだろうけど我慢して。そのまま“stay”」   青年を横抱きで抱き上げ、国近はその部屋を後にした。 *  そのフロアにある医務室は、普段はほとんど人が立ち入ることがない。  国近肇は青年を抱えて廊下を歩いていた。一度コマンドを受けたことで、青年は少し落ち着いたらしい。乱れた呼吸はだいぶ規則的に戻ってきている。医務室にあるベッドの上。国近は優しく青年を下ろした。 「あんまり綺麗な場所じゃなくてごめんな」  言いながら、青年を転がしたベッドの端に国近は腰をかけた。  自然と青年がこちらを見上げる形になった。  緊張しているのだろう。指先が小さく震えていた。国近は青年の緊張を和らげるように、 「ちゃんと、“stay”できたな」と褒めた。青年の頭を優しく撫でてやる。  青年がほっと息を吐いたのを見て、国近は続けた。この先を行うのなら、それはあったほうがいいだろうと思った。 「セーフワードは “       ”」  なるべく言いやすい言葉を選んだつもりだった。  しかし、 「セーフ、ワード?」  青年は眉間にしわを寄せる。その言葉どころか、“セーフワード”が意味することがまるで分からないようだ。 「まさか教えられてないのか?」  国近は眉をひそめた。不快感。その三文字の感情が、国近の頭に埋め尽くされていく。  セーフワードはDomが暴走して、Subを傷つけることがないように使う言葉だ。  Domに命令された時、Subは本能で、その命令に従ってしまう。たとえ本心では嫌だと思っていても、コマンドを向けられてしまえば逆らえない。意に沿わない命令をされた時、Subは混乱して、SubDropという現象に陥る。  だから多くのパートナーたちは、お互いの間で行為をやめる言葉を作る。まともな関係を築くなら、それは言うまでもなく常識だ。どれだけぞんざいな扱いをされていたのだろう。吐き気がする。そんな仕打ちしかしてこなかった青年のパートナーにも、そんな人物をこの場に呼び出そうとしてしまった自分の至らなさにも。 「やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして」  青年が不思議そうにこちらを見つめる。Subを支配するDomが、どうして行為をやめる合図を作るのか、そんな表情だった。  きっと、使ってくれないだろうな。国近はそう思った。 「それ以外に、して欲しくないことはある?」  先にお互いのアウトラインを知っていれば、もしセーフワードを使ってくれなくても危険は防げる。自分の希望など口にしたことはないのだろう。青年が俯いてしまう。 「言ってごらん」  国近が促す。青年はチラチラとこちらを伺い、長い沈黙の後で、 「……本番は嫌だ」 とだけ言った。 「うん。分かった。じゃあしない」  初対面の相手だ。求められてもするつもりはなかったが、国近は青年が安心できるよう同意をした。続けて、「それだけ?」と問いかける。 「あ、と……」  青年は再びうつむいてしまう。  まだありそうだが、いきなり全てを打ち明けるのは難しいか。青年の様子を見ると、被虐されることよりも、褒められたり甘えたりすることの方が好きなタイプだろうか。もちろん探ってく必要はあるだろうが、国近は痛めつけることがあまり得意ではないから助かった。 「キスは? してもいい?」 「へ……?」  彼の腰に腕を回し、こちらに引き寄せる。  そっと、彼の額にキスを落としてみた。 「いや? 嫌だったらやめるけど」 「や、じゃない」  ああ。存外可愛いかもしれない。先ほどから、青年の反応に国近の本能がくすぐられている。気を抜くと治療だということを忘れてしまいそうだ。 「服、脱がしてもいい?」  国近の腕の中で。青年がゆっくりと頷いた。 *  こいつに命令されてから、身体がおかしい。  いや、正確には命令されて、出来たことを褒められてからだ。  十数年の付き合いになる青年のパートナーは、青年を褒めてくれることなどなかった。青年を散々痛めつけて泣かせて、自分の欲求が満たされればあとは放置だった  数か月前、そのパートナーの元からもう何度目かの家出をした。いきずりのDomの家を転々としたり、今日のようにネット上で出会った相手としたりすることもあったけれど、彼らだって似たようなものだ。  それでも、誰からも命令されないよりは気分も体調もマシだった。そういうものだと思っていた。人の体温や自分の頭を撫でる手が、こんなにも温かいものだなんて、青年は知らなかった。 骨ばった大きな手が、青年の肌をなぞる。服は随分と前に剥かれて、今は下着しか着けていない。 「そうだ。君、名前は?」  彼が問いかける。頭が上手く働かなかった。役に立たない脳みそが、彼の質問だけを処理する。 「……ハルト」  思わず、口に出していた。それを聞くと、警官はふわりと笑った。胸の奥がなんだか締め付けられるような心地がした。 「教えてくれてありがとう。ハルトはいい子だね」  気安く呼ぶなよ。名乗りはしたが呼んでいいなんて一言もいってない。そう言ってやりたいのに、言葉は口から出てこない。その代わりに、身体中にじんわりとした温かさが広がる。いい子だって。褒められたのはこれで三回目か。もっと名前を呼んでほしい。もっと褒めてほしい。もっと自分を認めて、自分に命令してほしい。  それで、そのまま自分を――。  そこまで考えて、はっとする。自分は今、何を考えた? 「それ……ひっ」  彼の手が太ももをなぞる。腿の付け根から下着の中に侵入した手が、青年の陰茎を掴んだ。そのまま上下に手を動かされると、もう息が出来なかった。 「ハルト」  彼が名を呼ぶ。違うと思った。何が違うのか、自分でもよく分からなかった。 「“good”」  遠くなる意識の端で、青年――ハルトは思う。  ――支配されることが、幸福だなんてあるはずがない。

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