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【第2話①】無理だ。1

 国道沿いの繁華街を、黒のステーションワゴンが走る。時刻はすでに深夜を回っていた。人通りはまばらだった。時折、飲み会帰りのサラリーマンが楽しげに車の横をすれ違っていく。助手席に腰を掛けた青年――ハルトは、頬杖をつきながらその様子を眺めていた。ハルトの右側。運転席には、国近肇と名乗る刑事が、穏やかな手つきでハンドルを回していた。  そちらをなるべく見ないようにしながら、ハルトは今日(日付が変わっているので正確には今日ではないのだが)あったことを反芻する。  ハルトが目を覚ましたとき、一番はじめに目に飛び込んできたのは、ジャケットを脱いだワイシャツ姿でこちらを覗き込む国近の姿だった。  国近肇というその刑事は、先刻までハルトの取り調べを担当していた。  ハルトは眠る前、あった出来事を思い出す。長く続く取り調べの中、国近に何かを言われて気が動転したのを覚えている。そのあと、息が出来なくなって、気がついたら目の前の国近に縋りついていた。  自分は、この男に助けられたのか。よりにもよって警察官なんかに。それは、ハルトにとって耐えがたいほどの屈辱だった。  身体を起こす。横の国近に向かって何かを言おうとしたけれど、掠れて声が出ない。喉の奥がカラカラに乾いていた。 「水、いる?」  国近が問いかけた。迷いながらも大人しく頷くと、国近は一度部屋を出て、500mlの飲料水を買ってきた。半分ほどフタを開け、ハルトに渡してくれる。その水の三分の二ほどの量を、ハルトは一気に飲み干した。  頭の奥が、やけにすっきりとしていた。ベッドの左横。窓の外が見える。薄暗い闇の中に、月明かりがさしていた。あの男と待ち合わせをしたのは夕方十六時過ぎ。取り調べが何時間続いていたのか記憶にないが、外が暗いということは、ハルトが倒れてからそんなに長い時間は経ってないのだろう。昨日の夜、六時間寝ても重だるく感じられた身体が、ほんの短い時間休んだだけで回復していることが不思議だった。 「さて」  国近はハルトの顔色を一瞬チラリと伺う。それを見て、大丈夫そうだということが分かると、ハルトの座る右横に並べられたベッドへと腰を掛けた。長い脚を組み、腿のあたりで両手を合わせる。  そして、ハルトに向き直り、こう切り出した。 「君があの男と一緒にいたのは、さっき俺たちがしたようなことをするためだね」  真っ直ぐな目だった。 「君は極度の欲求不満状態だった。手頃な相手と、欲求を解消しようとしたんだろう。そこに運悪く俺たち警察が来て、それが出来なかった。そうだね?」 「……。……また取り調べか?」  国近の推理は概ね訂正するところがないぐらい正しかった。けれど認めることが癪で、ハルトはわざと国近を挑発するような返答をした。  君ね。と国近がため息交じりに頭を掻く。 「それがどれだけ危険な行動なのか、分かってやっているのか」  ハルトは俯く。分かっていた。分かっていたけれど、どうしようもないのだ。そうする以外に生きていく術がない。正しく生きることが許されているのは、正しく生まれて正しく育つことができた人間だけだ。 「そもそも、信頼関係が出来ていない相手とむやみやたらにPlayなんかするものじゃないんだ。君、自分じゃ自覚なかったみたいだけど、かなり酷いDrop状態だった。欲求が解消されないのは確かに苦しいけれど、それだけでDropなんか普通はしない」 「……」  国近がハルトを心配そうに見つめる。ハルトが何も返さないと、またため息を一つついて、 「今後、信頼出来ない相手とはしない。約束できるか?」  と聞いてくる。  お前に関係ない。ハルトはそう返してやろうと口を開く。しかし、国近はまた続けた。 「もし約束できるなら、俺は君の素性についてはこれ以上聞かない。調書は俺が上手く誤魔化しておいてあげてもいい。分かった?」  ハルトは開きかけた唇を一度閉じる。それは、ハルトにとって悪い条件ではなかった。今一番優先すべきは、ここ警視庁から無事に出ることだ。そのためには、何がなんでも素性は明かしたくなかった。どうせ、この警官と今後会うこともないだろう。適当に同意して、ことが済むならそうしたほうがいい。 「……分かった」  ハルトが頷くと、国近は硬い表情を緩めてふわっと笑った。それから何かに気づいて、眉を伏せる。 「本当は、その首輪を外してあげるのが一番いいんだけれど、それを外すと君は混乱して、またDropすると思うから……。……ごめんね」  ハルトの首元。重厚な首輪がついている。金属製で錠までつけられた首輪は、いくら外そうとしても外れた試しがなかった。ハルトのパートナーがつけたものだ。  自分を縛る、忌々しい呪い。それを、なぜこの刑事が気にしているのだろう。  調子が狂う。気味が悪いと思った。 *  一人で帰れると言ったハルトを、国近は送り届けると言って聞かなかった。今、ハルトが乗せられている車は、国近の私有車らしい。警視庁の駐車場に停まっていたこの車に乗り込んで、早十五分が過ぎただろうか。  繁華街のネオンが光っている。外を眺めていると、一つの建物の看板が目に入った。 「ここでいい」  横の国近に言う。家の近くまで送るという返答に、素性を知られたくないからと返すと、国近は一瞬押し黙って、それから素直に従った。ウインカーを出した車が路肩に停車する。  車を降りるため、ドアフックに手をかけた時、 「あ、待って」  と呼び止められた。  国近はジャケットのポケットから手帳とペンを取り出した。その手帳を開き、なにやらメモをとると、そのページを破る。ダッシュボードを開けて、細長い箱を取り出した。メモと箱の向きを揃え、ハルトに差し出す。 「これ、市販だけれど抑制剤と俺の連絡先。困ったことがあったら、いつでも連絡して」  は。乾いた笑いが、ハルトの口から零れた。なんだろう、これは。 「俺、あんたみたいなDomも、警察官も大嫌いだから」  そう吐き捨て、差し出されたものを押し戻す。今度こそ車を降りようとすると、国近が腕を掴んだ。 「俺のことは、嫌いで構わない。でも君は、君の身体をもっと大切にしてほしい」  強い口調と、真っ直ぐな視線でそう言われる。  思わず国近の顔を見つめてしまったハルトの脳裏に、取調室で受けたコマンドがちらついた。  ――おいで、“Kneel”  きゅっとハルトは唇を噛んだ。一瞬の隙をついた国近が手のひらに薬の箱とメモを握らせた。  ハルトは国近に聞こえるように舌打ちをして車を降りた。乱暴に車のドアをしめる。  今度こそ、国近は引き留めてこなかった。車に背を向けて、ハルトは足早にその場所を後にした。 *  国近肇が電話を受けたのは、それから約ひと月半ほどが経過した日だった。  警察官の日常は忙しい。とりわけ二年前、国近が捜査一課に配属されてからは、過酷な現場も多く、残業や泊まり込みで仕事をすることも増えた。ハルトのことが気がかりだったが、日々の業務に追われていると、そういうことに構う余裕はなくなる。それでも、外回りに行く日や通勤の行き帰りの中で国近は自然と彼の姿を探していた。  その日は数週間ぶりに与えられた非番の日だった。家に帰れなかったために、冷蔵庫の食料がまた腐ってしまったことに気が付いて、スーパーへと買い出しに行った。買い出しを終えて車に戻った時、マナーモードにしていたスマートフォンが振動していることに気が付いた。 「はい」  電話口の相手は無音だった。薄く呼吸の音だけが聞こえてくる。何を言ったらいいのか迷っているような、そんな感じがした。スマートフォンの表示を確認する。公衆電話からだ。公衆電話から掛けてくる相手は、そんなに多く当てがあるわけじゃない。 「ハルト?」  なんとなく、彼のような気がした。 「どうした?」  努めて優しく国親は問いかけた。電話口の相手から返答はない。国近は質問を変えた。 「今、どこにいるの?」  そこでようやく、か細い声が返ってきた。隣町のネットカフェの前だという。 「じゃあすぐに行くから、そこで待ってて」 *  一畳半ほどで仕切られたブースが、薄暗い店の中に立ち並んでいる。静まり返った中、生活音や本のページを繰る音だけが聞こえていた。平日の今日は、あまり客足は多くない。  そこは、チェーン展開しているネットカフェだった。  その中の一室に、ハルトは居た。ブースの中をディスクトップパソコンの明かりが照らしている。パソコンが置かれた台の上には、昨日食べたカップ麺の残骸と、もう残り少ない抑制剤の箱が置いてあった。  ハルトがそのネットカフェの会員証を拾ったのは、渋谷のスクランブル交差点の前だった。以来、それを拝借してこのネットカフェで寝泊まりをするようになった。  毛布にくるまっていたハルトが目を開ける。パソコン画面の右下、時刻が午後三時を示していた。 そろそろ出なければ。時間制のネットカフェは滞在すればするだけお金がかかる。  ハルトは薬の箱を乱暴にパーカーのポケットに突っ込んだ。伝票を手にしてブースを出る。  あの日から、どれぐらいの時間が経っただろうか。あの後、ハルトは何度も国近からもらったメモと薬を捨てようとしたけれど、どうしても出来なかった。ゴミ箱にそれを捨てようとするたびに、国近の強い目が浮かぶのだ。あの目に自分は、逆らうことができなかった。  仕方なく薬の箱を開けて、使うようになったのは約ひと月前。ひと月も欲求を解消しなければ、身体の不調が出てくる時期だけれど、それが不眠だけで済んでいるのは薬の効果なのかもしれない。その薬も、どうせもうすぐ切れてしまうけれど。  フロントの女性に、伝票を渡す。 「2550円になります」  ハルトはお札を取り出そうと今度はジーパンの尻ポケットに手を入れた。掴んだそれをトレーに並べるため、引き出そうとして気が付く。 「お客様?」  怪訝そうな顔を浮かべた女性が、こちらを覗き込んだ。  ハルトはもう一度、ポケットのお札を数えた。折りたたまれた千円札が一枚と、小銭が数十円ほど。いくら数えても、会計が間に合わなかった。  瞬間、どうしようもない虚無感が、ハルトを襲う。自分はいったいいつまで続けるのだろう。こんな終わりの見えない不安定な生活を。 「お客様?」  フロントの女性が、再びハルトに声をかける。 「……下ろしてきます」  ようやくその言葉だけを絞り出して、ハルトは店を出た。  下ろしてくる。と告げたものの、通帳なんて持ち合わせていなかった。ポケットの中のお金は、ハルトの全財産だ。普段は日雇いのバイトか、行きずりのDomの相手をした際にお金をもらって小銭を稼いでいた。日雇いのバイトをするにしても、今から働けるところは少ないだろう。第一、それもネットカフェのパソコンから応募していたので、インターネットにアクセスできなくなった今、出来ることはなかった。後者もそうだ。Domと知り合うのは主にネット上で、道端で探して見つかるわけではない。  それに、 『今後、信頼できない相手とはしない。約束できるか?』  頭の中で、国近の言葉が鳴る。そんなことをしたら、あの男はきっとひどく怒るだろう。  そこで、思考を止めた。自分はなぜ、あんな約束を律儀に守っているのだろう。そこから逃げるための、方便だったはずなのに……。  途方に暮れて、ハルトはどさりと道端のベンチに腰をかけた。どんよりよした雲がビルの谷間を覆っている。雨が降りそうだった。  しばらくしてもう一度、ポケットの中を漁る。それは、ネットカフェのレシートと、残り少ない小銭に交じって、くしゃくしゃになっていた。  ネットカフェから五分ほど歩いた先。電話ボックスの中で、ハルトは佇む。  ――困ったことがあったら、いつでも連絡して。  丸まってしまったメモを手のひらの付け根の部分を使って広げた。端正な字で電話番号と名前が書いてある。  試しにかけてみるだけだ。出なかったら切ればいい。  小銭を入れて番号をプッシュする。緑色の受話器を耳元に当てるとコール音が響いた。  1コール。  2コール。  3コール。  ……。  7コールほど鳴っただろうか。電話の相手が応答する気配はなかった。 「……あほらし」  そう呟いて、ハルトは受話器を戻そうとする。その時だった。 『はい』  はっきりとした声が、耳元に響く。言葉が出てこなかった。どうして自分は、安心しているのだろう。 『ハルト?』  電話口の相手が、優しく名を呼ぶ。 『どうした?』  言いたいことや伝えたいことは確かにあるはずなのに、なんて答えたらいいのか、分からなかった。 『今、どこにいるの?』  国近が聞いた。かろうじてそれに返答をする。 『じゃあすぐ行くから、そこで待ってて』  それだけ言って、通話が切れた。  受話器を置く。外に出ると、雨が降り始めていた。 *  すぐに行く、という言葉通り、国近はそれから十分ほどでハルトの指定した場所に来た。  その時、国近は出会った日のようなスーツ姿ではなく、黒のジャケットにストレッチパンツというラフな私服姿だった。  道路沿いにハルトを見つけると、そこで車を停車させる。  雨足がひどくなっていた。道沿いのベンチに座り、ハルトは雨粒を受けていた。  傘を差しながら車を降りた国近が、慌てて駆け寄る。 「びしょびしょじゃないか」  そう言いながら、着ていたジャケットを脱ぎ、ハルトの頭に被せた。  ハルトの顔をのぞき込んで、どうしたと問いかける。ハルトはか細い声で、 「お金、貸してくれないか」と言った。雨の音で、ほとんどその声は掻き消えてしまっていたけれど、国近には聞き取れたようだ。しばらくして、 「いいけど、どうして?」という声が返ってきた。 「支払いが、足りなくて」 「何の?」 「ネットカフェの料金が、払えなくて」  そこで、ハルトははっとする。しまった。もっともらしい嘘ならいくらでもあったのに、どうして自分は馬鹿正直に真実を伝えているのだろう。  恐る恐る国近の顔を覗き込む。国近は少し驚いて、それから苦虫を噛み潰したような、とても苦しそうな顔をした。国近の持っている傘から、雨粒がしたたり落ちていく。国近は目を細めた。 「わかった。じゃあ、俺は支払いを済ませてくるから、ここは濡れてしまうし、車で待ってて」  そう言って、車のキーをハルトの手に握らせる。  逆らう気力もなかった。ハルトは言われた通り、路肩に停まった黒のステーションワゴンに乗り込んだ。  助手席に腰をかけ、国近のジャケットに頭を沈める。窓の向こうで、ネットカフェのフロントが見えた、国近が店員となにやら話している。  それからしばらくして、国近は車に戻ってきた。運転席に彼が腰をかけたのを横目で見て、ハルトは薄い唇を開く。 「……悪い。今度返す」  しおらしいハルトの様子を見ると、国近は薄く笑った。 「いいよ、これぐらい。君にあげる。それに、謝るのは俺の方だ」  その言葉に、ハルトは不思議そうに国近の方へと顔を向けた。 「あの日、君を置いていくんじゃなかった。君がここまで追い込まれているなんて思わなかった。配慮が足りなかったな」  ごめんな。と国近が眉を下げる。  まただ。なぜ、この警官はすぐに謝るのだろう。首輪が外れないのも、ハルトがこんな生活をしているのも、この警官のせいではないのに。 「君、少し痩せたんじゃないのか?」  国近が言う。日雇いの仕事は、金払いはいいが長く続けられるわけじゃない。とくに今の時期は学生が長期の休みを取る時期で、どこも人手は足りているらしかった。二週間ほど前から収入がなくなり、一日一食だった食事を二日に一食に変えた。 「俺の家、近くなんだ。今日はカレーにしようと思うんだけれど、食べていかない?」  雨が強く、車の窓に打ち付けていた。どうせ、行くあてなどないのだ。ハルトは頷いた。

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