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【第2話②】無理だ。2
近く、と言われたその家は、結局車を二十分ほど走らせたところにあった。
五階建ての鉄筋アパートだ。建築からそれほど時間が経ってないのだろう。クリーム色の外壁は清潔感に溢れていた。
502号室、そこが国近の部屋だった。
どうぞ、と言われて玄関に足を踏み入れる。
「タオル持ってくるから、そこにいて」
言いながら、国近はハルトを置いて部屋の奥に入っていく。数秒ほど経ってから、タオルを取って戻ってきた。それを濡れたハルトの頭に被せ、ぐちゃぐちゃと頭を拭う。
「先に風呂だな」
そう言って、ハルトをソファーと小さなテーブルだけが置いてあるリビングの中へと案内すると、カーペットの上に座らせる。キッチンの奥へと向かった。おそらくそこが風呂場なのだろう。シャワーの音がして、手早くお風呂が用意された。
呼ばれて、風呂場の方へと向かう。浴室の扉が開いていて、そこから淡いモスグリーンの浴槽が見えた。浴槽に、お湯が張ってあった。それを見るのは、本当に久しぶりだった。
「タオルと着替えは置いておくから、シャンプーとか石鹸とかは、適当に使って」
国近がキッチンの方へと戻っていく。その背中をまた不思議そうに見送ってから、服を脱いで、ハルトは浴室に足を踏み入れた。
数十分後。ハルトがお風呂からあがると、小さなテーブルには食事が用意されていた。
スパイスの芳しい香りが部屋いっぱいに充満している。
二人分のお皿。白いご飯の上にゴロゴロと具材の入ったルーがかかっているそれは、ほかほかと湯気が立っていた。カレーライスだ。
首にタオルをひっかけたまま、ハルトは目をぱちくりとさせる。
「ハルト」
キッチンの方から、国近が呼んだ。
「髪、濡れてる。一回戻って乾かしておいで。待ってるから」
頭上に目をやる。髪から水滴がポツポツと垂れて、首にかけたタオルに落ちていた。
「……分かった」
なぜだか素直に頷いて、ハルトはもう一度脱衣所へと踵を返す。
洗面台にかけてあったドライヤーで手早く髪を乾かして戻ると、待ってる、という言葉のとおり、国近はソファーに腰をかけてハルトを待っていた。
ハルトは国近の目の前、カーペットに腰をかける。その様子を見ると、国近はソファーから降りて、ハルトと同じようにその下のカーペットに腰を掛けた。頭三つ分ぐらい違った二人の目線が、同じ高さに変わる。
ハルトは再び、目の前のカレーライスをぱちくりと見つめた。いかにも栄養価が高そうな食事だ。もう随分長い間空腹は感じなくなっていたけれど、思い出したかのようにお腹がすいていた。
いただきます。と声がして、目の前の国近がそれを掬いはじめる。どうしていいのか分からずにいると、国近が食べなよ、と促した。ハルトはスプーンを手に取る。なんとなく意味もないのに緊張してしまって、震える手でライスとルーを掬った。
恐る恐る、口に運ぶ。
「美味しい?」
「……ふつう」
言いながら、ハルトはもう一口、二口とカレーを掬って食事をしていった。
失礼な言い方だ。けれど、国近はその言葉にムッとすることもなく、優しく微笑むだけだった。
お皿に盛られたカレーが、半分ほどになった時。急にあることが不安になって、ハルトはスプーンを置いた。俯いて、目を伏せる。
「お前さ、よく、来る気になったな。あんなことを言ったのに」
あんなこと? と国近は首を傾げた。少し考えて、ああ、と頷く。それは、別れ際にハルトが言った言葉だ。嫌いだと言ったのに、国近は電話を出てすぐに駆けつけてくれた。
「気にしてないよ。それに、君だって、理由もなく人を嫌いになったりしないだろう。何か原因があるはずだ」
ハルトの脳裏にある光景が浮かんだ。あれは、いったいどれぐらい前のことだっただろう。パートナーの仕打ちに耐えられなくなって、パートナーの元から逃げ出した。逃げて、逃げて、そうした先で交番を見つけた。助かったと思った。駐在していた警官に事情を説明した気がする。匿ってもらおうとしたのだ。
けれど、
『君ね、嘘言ったっていけないよ』
警官から返ってきたのは、そんな言葉だった。
話を聞いていた警官は、交番の窓口に座ったハルトを置いて裏に戻っていく。裏にはもう一人、別の警官がいて、なにやら話している声が聞こえてきた。
『勘弁してくれよ。あの家に手を出したら、俺、ここにいられなくなっちゃうよ』
そうして賑やかに、二人は笑っていた。
「食べなよ。足りなかったら、おかわりもあるよ」
手を止めたハルトを見かねて、国近が声をかける。この刑事を信用していいのか、ハルトは分からなかった。それでも言われるがまま、再びスプーンを手に取って、カレーを掬いはじめる。
*
空になった食器を、国近が重ねてキッチンへと運んでいく。
しばらくして、キッチンの方から声が飛んでくる。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
少し悩んで、コーヒーと返す。国近が食器をカチャカチャと鳴らす音が聞こえてきた。
「はい、どうぞ」
マグを二つ持った国近が、ハルトの目の前に腰を下ろした。
そっと、テーブルの上にカップが置かれる。ミルクと砂糖は?と聞かれるから、どっちもと答えたら入れて、丁寧にかき混ぜてくれた。
ハルトの向かい側。国近のマグカップにはブラックコーヒーが入っていた。国近がマグカッの持ち手を掴み、口元へと運ぶ。その一連の動作を、ハルトはぼんやりと眺めた。
細長く、骨ばった指だ。あの日、この手が自分に触れた。
「ハルト」
呼ばれて、国近の顔を見上げる。
「君、クマがひどいけれど、もしかして眠れていないのか?」
ここ数日、ハルトはほとんど眠れていない。眠気はひどいのに、目を閉じても眠りに入れないのだ。欲求が解消出来ない時に出てくる症状だ。まず不眠、それから倦怠感が出て、放置すれば頭痛と吐き気が襲ってくる。
何も答えないハルトに、国近が小さく息を吐いた。数秒、何かを考えて、直接的なPlayじゃなくても、少しは落ち着くかもしれない。と説明した。そして言う。
「今日、ちゃんと俺のこと頼れて、偉かったね」
その言葉は、やけにはっきりとハルトに聞こえてきた。
ハルトはなぜだかとても温かな心地になった。
緩慢な動作でマグカップに手を伸ばし、手のひらで包む。
香ばしいコーヒーの香りに包まれ、ほっと息を吐いたとき、
「俺のパートナーになる?」
国近が言った。
再びゆっくりと顔をあげる。
人の良さそうな顔。それは、今まで出会った、どの人とも違った。
彼の手を取ったら、きっと……。
――お前は、僕のものだよ。
頭の奥で、あいつの言葉がする。
そこで、マグカップを置いた。
「……無理だ」
ふっとため息をついて、国近は仕方なさそうに笑った。
「『無理だ』なんだ。『嫌だ』じゃないんだね」
まあいいや。と独り言のように呟く。それから目線を外して立ち上がり、また何かを取りにキッチンの方へと向かった。
瞼が重くなっていく。
帰らなければ。ハルトの瞳の奥に、ネットカフェの個室がちらついた。薄暗く、狭く、淋しい部屋。昨日まであそこで、一人きりでカップ麺を食べていた。それが、今日は温かい部屋で誰かと一緒にカレーを食べている。
食事もお風呂も、めいっぱい堪能したから、自分はもう出ていかなければならないだろう。
手持ちの金がないのはどうしたらいいだろう。またお金を用意しなければ。生きるために。それまでは野宿をするしかないだろうか。
思考が鈍くなっていく。
ああ、帰らなければ。帰る場所も、帰りたいと思える場所も、どこにも存在しないけれど。
パチり、と目を開けた。いつの間に横になったのだろう。自分の身体は、スプリングのきいたベッドの上に横たえられていた。妙に明るい部屋の照明が眩しくて、目を細める。
「ああ、おはよ。ハルトくん」
声に反応して、横を見る。
ワイシャツを肌にひっかけたままの国近が立っていた。
「……今、何時?」
問いかける。国近は右手の腕時計をチラリと見た。
「六時五十三分」
ろくじごじゅうさんぷん?
この家に来たのが確か十七時前。夕食を終えたのは十八時半だったはずだ。計算が合わない。
「……夜の?」
追加で問いかける。国近は一瞬目を丸くした。くくっと喉を鳴らして、快活そうに笑う。
「朝の、だよ」
そこで、飛び起きた。右側に窓があった。窓の外、開いたカーテンの隙間から朝日がさしている。照明だと思っていたのは外の光だったらしい。昨日の雨が嘘のように、穏やかないい天気だ。いつの間に眠ってしまったのだろう。
「俺はもう出るけれど、君はもう少し休んでいるといい」
ハルトが戸惑っていると、横の国近が言った。キーホルダーのついた鍵と、スマートフォンをベッドの端に置く。
「この部屋、自由に使っていいよ。それは合鍵。スマホは俺の私用のやつ。仕事用の番号が登録してあるから、何か困ったら連絡して」
ハルトはベッドから出ようとする。そんなに世話になるわけにはいかない。国近が家を出るなら、一緒に部屋を出ていこう。そう思って毛布に手をかけたとき、
ああ、それから、と国近が付け加えた。
「今日、鍋にしようと思うんだけれど、どうかな?」
その言葉に反応して、手を止める。
「遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて」
頭の上に、国近の手のひらが置かれた。温かくて大きな手だ。触るな。と払いのければいいのに、声は出てこない。
国近が手を離す。視界の先に、ハンガーラックがあった。スーツが数着かかっている。その中から、一枚のジャケットを掴む。それを慣れた手つきで羽織ると、その部屋を後にしようとハルトに背を向ける。
ハルトは彼の背中に手を伸ばした。けれどそれは間に合わずに、ハルトの手をすり抜けていってしまう。ドアが閉まった。
行き場を失った右手を、そのまま頭にのせる。今しがた国近が触れたところだ。まだ熱が残っていた。
「なんだ……それ」
主を失った部屋の中、呟いた声だけが反響していた。
*
それから数日間。毎朝同じようなやり取りが続いた。
ハルトが部屋を出ていこうとすると、国近が留守番を言いつけるのである。
初めのうちは見返りを要求されるものだと思って警戒していたが、いくら経っても国近は何も求めてはこなかった。
国近の帰宅は不定期だった。十八時過ぎに帰ってくることもあれば、零時を回ってようやく帰ってくることもある。どんなに遅くなっても、国近は律儀に食事を作った。
午後八時。リビングのテーブルに二人分の食事が並んだ。
黄色いフォルムに真っ赤なソース。今日のメニューはオムライスだ。
「いい加減にしろよ」
テーブルの前に腰を下ろしたハルトは、手元のスプーンを乱暴に掴んだ。それを国近の目の前に向けて詰め寄る。
「毎日毎日、留守番言いつけて食事作って、何が目的なんだ」
もうそろそろ我慢の限界だ。いったいいつまでこんな親鳥の帰りを待つ雛みたいな真似をしなければならないのだろう。
目の前に突き出されたスプーンを見て、国近は一瞬止まって、それから声をあげて笑った。
「自由に使っていいと言ったのに、伝わってなかったのか」
返ってきたのはそんな、返事にもなってないような返答だ。
「何が」
イラつきながら乱暴な口調でハルトは返す。国近の笑顔は崩れなかった。そして、
「一緒に暮らさないか?」と言った。
その言葉を理解すると同時に、ハルトは眉をひそめた。スプーンを置く。
「……パートナーの件なら断ったはずだ」
「パートナーじゃなくて、友人として。君、行くところないんだろう? 闇雲に出ていくよりここにいた方が安全だ」
数秒、ハルトは考える。この男の目的が本当に見えなかった。親切そうな顔をして、自分のテリトリーに入れれば乱暴に扱う奴はいる。今は親切なこいつが、豹変したり裏切ったりしないという保証はどこにもない。
ただ、正直かなり魅力的な話だ。出ていったところで所持金がない自分に、行けるところは限られている。テーブルの上、オムライスからほかほかと湯気が立っていた。温かな食事。ここに来てから毎日、国近は食事と風呂の用意をしてくれた。雨風がしのげるだけでも一幸なのに。
はあ、とハルトはため息をついた。どうせ出ていくと言っても国近は納得しないだろうと思った。
「……パソコン、貸せよ。仕事を探したい。ここで暮らすにしてもお前に頼りきるわけにはいかないだろう」
国近が貸してくれたスマートフォンでもインターネットにはアクセス出来たけれど、ハルトはスマートフォンの使い方をほとんど知らなかった。オムライスを食べながらそれを説明すると、夕食後、国近は寝室の隣の部屋へとハルトを案内した。
そこは、書斎になっていた。
壁一面本棚が置かれている。どの本棚にも本がぎっしりと詰まっていた。ざっと千冊くらいはあるだろうか。ドアから向かい側に窓がある。黒いカーテンがしまっているのは、日焼け対策だろう。窓側に机があって、その上にシンプルなノートパソコンが乗っていた。
古本のにおいが鼻をかすめて、ハルトはなんだかひどく懐かしい心地になった。そういえばハルトの生家にも、たくさんの本があったのだ。
国近は机に近寄り、ノートパソコンを開いた。電源をつけて、なにやら操作を始める。
「今、パスワード教えるから、ちょっと待ってて」
手持無沙汰になったハルトは、壁の本棚へと目を向けた。国近にこんなに多くの蔵書があったなんて意外だった。背表紙を順に追っていく。小説が多いようだ。とくに、
「……警察ものが多いんだな」
ハルトが言う。何の話か分からず、国近は手を止めて振り返った。本棚を眺めているハルトを見て、ああ、本の話かと呟いた。
「その辺は父が好きでね。遺品なんだ」
“遺品”
ハルトは本棚から目線を外し、国近の方へと向き直った。
国近はパソコンの操作に戻っていて、見えたのは背中だけだった。
「……そうか」
呟いてハルトは再び、本棚の方へと目線を戻した。
「俺も、両親がいないんだよ」
それが、ハルトがはじめて国近に話した、自分の話だった。
*
足りない。
その屋敷は、高級住宅街の一角にあった。和風建築の大きな屋敷である。
縁側から、月明かりが差し込んでいた。光に照らされた先に障子の戸があって、その戸が少しだけ開いていた。和室は、床が畳なのに天井はコンクリートという不思議な造りをしている。部屋の中央。重厚な布団が敷いてある。
そこで、須藤正臣は一人の女を組み敷いていた。
女の右頬には、大きな青あざが出来ていた。先ほど正臣がつけた傷だ。女がしゃくりあげている。もう随分と前から彼女は泣いているが、そんなことは正臣には知る由もないことだった。
むしろ、彼女の身体に傷が増えるたび、正臣の熱が高ぶっていく。
そっと、正臣は女の首に両の手のひらを置いた。首元を包み込み、軽く力を加える。
女の首が跳ねたのが分かった。宙に浮いた彼女の手が、正臣の手首を掴む。
短いうめき声。微かな吐息の合間。
なぜ、どうして。そう言いたげな彼女の視線が、無抵抗に正臣を見つめる。
そこで、正臣は手を止めた。そして思った。
違う。
この女は、自分がすぐに手を放してくれると信じている。自分を本気で殺すことはないと高をくくっている。つまらない表情だな。正臣は急に、白けた気分になった。
彼はそうではなかった。
呼吸を制限してやるたび、本気で怯えた顔をした。殺されるのではないか、もう目が覚めないのではないか。そう信じているようだった。その顔を堪能するのが好きだった。
痙攣する肉体と、恐怖に歪んだ眼差し。溢れ出て止まらない涙をそのままに、正臣を見る。
失神する一歩手前。首を解放してやれば、大きく胸を上下させながら自分にかしずく。
力の入っていないだろう指先で正臣のスーツの裾を引っ張り、深く頭を下げる。
『ごめ……なさ、……』
――何に謝っているのか、自分でもよくわかってないくせに。
必死に自分の機嫌を取ろうとする様子が可愛くて、何度同じことを繰り返しただろうか。
自分は今、彼の生命すら支配している。それがたまらなかった。
足りない。
正臣は思う。こんな女じゃ、自分の欲求は満たせない。
「正臣様」
襖の向こうで、部下の声がした。桐野というその部下は、正臣の優秀な右腕だった。
縁側障子の隙間から月明かりを眺めていた正臣は、視線を外し、襖の方を見る。
「ハルトさんが、見つかりました」
それを聞いて、口角をあげた。
「へー……。 今回は随分時間がかかったみたいだね。どこにいたの?」
「都内のアパートに身を寄せているようです」
「連れ戻して。明日にでも」
桐野は一瞬言い淀んだ。
「……それが、少々問題がありまして」
なに、と正臣は簡潔に聞く。
「警視庁の刑事に保護されているようなのです」
「……へえ? あの子が?」
正直驚いた。警察に助けを求めたのだろうか。そこは随分前、すでにふさいだはずなのに、いったいどんな手を使ったのだろう。
「……分かった。刑事の方はこちらでなんとかしよう。君は自分の仕事をしてくれればいい」
「かしこまりました」
短い声のあとで、桐野が去っていく。
布団の上で女がぐったりとしていた。正臣はそちらを一瞥する。冷たい目だった。
それから視線を外し、障子の方へと向き直る。
月明かりに向かって正臣は右手を伸ばした。薬指に指輪が光っていた。それは、正臣が彼に贈った首輪と同じデザインだった。
外を見る。三日月が高く昇っていた。
ようやくだ。ようやく自分は――。
――満たされる。
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