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【第3話①】君がいる場所といない場所1

 父が亡くなったのは、高校三年の夏だった。その年の夏はうだるように暑く、隣県で観測史上最高気温を記録したというニュースが連日テレビでとりただされていた。  父は、国近の唯一の肉親だった。母親は物心ついた時からいなかった。男を作って出ていったと聞いたことがあるけれど、詳しいことは知らない。  その父が末期の胆のうガンだと診断されたのは約半年前。見つかったとき、ガン細胞はすでに胆のうを包み込んでいたらしい。手の施しようがない状態だった。  半年かけてガン細胞は成長し、今度は腹部の臓器を飲み込みはじめていた。  夏休み一週目。昼食を食べたあと、お腹を抱えてうずくまってしまった父を抱えて、かかりつけの病院へと向かった。その頃、父は随分と痩せてしまっていて、国近が運ぶにもさした労力が必要ないくらいだった。父は、そのまま入院することになった。 「鎮痛剤を出しますね」  病室が用意されて、そこに移動した後で医師が言った。しばらくして、看護師がシリンジに入った薬を持ってやってきた。  ――点滴にセットされたその薬が、穏やかに死んでいくための薬なのだというのを、国近はあとから知った。  痛い、痛いと父の呻く声が聞こえた。その声は長くは続かなくて、四半時を過ぎたあたりで寝息に変わった。時折、目を覚まして何かを言っていたけれど、二日目からはもう何も話さず、眠るだけになった。それから数日たたずに、父は息を引き取った。  人は脆く、簡単に死んでしまう。  それでも、希望がないわけではなかった。火葬場で父を燃やして、当時住んでいたアパートに帰った時。ふと、本棚に並べられた警察小説が目に入った。 父は民間の会社員をしていたが、昔は警察官に憧れていたらしい。身体が弱く喘息もちだったためにその夢を諦めざるを得なかったそうだが、警察小説は好んで集めていた。およそ千冊を超える蔵書は、悲しみのどん底にいる国近を、優しく迎え入れてくれた。  警察官になろうと、そう思った。 「本気かい?」  国近の進路希望を聞いたあとで、担任は問いかけた。当時、国近は大学進学を希望していた。すでに受験勉強をはじめており、志望校をある程度絞り込む段階まできていた。  それでも、警察官にならなければならない理由があった。父の遺志を継ぎたいという気持ちはもちろんあるが、それだけが理由なわけではなかった。  警察官になれば、警察学校に入学した時点で給料が出る。遺族年金がもらえるのは十八歳を迎えるまでだ。父の遺産も少しはあるけれど、それだけで残りの高校生活と大学の入学金、授業料が払える見込みが立たなかった。学費免除や特待生枠に通れば何とか通えるかもしれないが、それだって確実なわけじゃない。奨学金を借りてバイトをして、あと四年。生きていける保証がない。 それに、父の遺品――あの大量の小説だけは、どうしても処分せず、手元に置いて置きたかった。進学をして家賃が低いところに引っ越せば、それはきっと叶わなくなる。 「もう、決めたので」  国近はそう返答した気がする。  国近の意志の強さに、担任は少したじろいで、それからためらいがちに言った。 「警察を志すこと自体、悪いことだとは思わない。でもせめて、大学を卒業してから採用試験を受けたほうがいい。だって、君は――――Domだろう。  あの時、自分はなんて返したのだろう。  一般的に、第二性を持つ人間に公安職は難しいと言われている。理由は言わずもがな。欲求を管理することが求められるからだ。第二性を持つ人間は、欲求が解消されないと肉体や精神に様々な不調をきたす。ある程度は薬でコントロールが可能だが、それだって万能なわけではない。一定期間の通院をして自分に合った薬を探すことになる。だが、それが上手く出来ている人間は、それほど多くはない。ふとしたきっかけで薬が合わなくなることもあるし、副作用も起こりやすい。自治体や企業が運用しているペアリングサービスもあるけれど、仕事柄激務の警察官にそれを利用する余裕なんてない。非常時に欲求不満の不調や薬の副作用で任務の遂行が出来なかったという言い訳は通用しない。  その年、警視庁警察学校の初任科入学生は五百九人いたけれど、第二性を持っていたのは国近を含めて四人だけだった。その中の二人が卒業を待たずに辞めた。警察学校という閉鎖的な空間は、Normalの人間であってもストレスを感じる場所だ。ストレスは欲求を増大させる。国近自身、高校を上がる頃から飲んでいた抑制剤が利かなくなり、それをより強い薬に変えた。  それでも、国近は努力し続けた。猛烈な副作用と戦いながら、徹底的に欲求を管理し続けた。座学も実技も手を抜かず、常にトップに近い成績をキープした。  第二性というハンデを抱えながらも警察学校で優秀な成績を収め、その後地域部でも秀でた検挙数を挙げた国近は、自然と同期の中でも目立つ存在になった。  彼自身配属先にはこれといったこだわりも興味もなかったが、二年間の地域課勤務の後、すぐに刑事部への異動が決まり、今では花形部署と言われる捜査一課に配属されている。 *  雨の中で拾った青年――ハルトは、今、国近の部屋のリビングでウトウトと舟を漕いでいた。水に浸し忘れた食器を水の中に沈めてキッチンから戻った国近は、青年の横で片膝をつく。  青年の目の下には、かなり濃い色のクマが出来ている。不眠は、欲求不満で起こる症状の一つだ。国近と出会った日から今日まで欲求を解消できていないとすると、その期間は約ひと月半。国近は上手くコントロールしているから平気だが、一般的な第二性を持つ人間にはきつい長さだろう。ましてや通院も、決まった薬も飲んでないなら尚更だ。いったい何日間ろくに眠れていなかったのだろう。  あの日、国近は彼に信頼できない相手とのPlayを禁じた。Domに言われたのだ。彼は逆らえなかっただろう。そういう風に仕向けて言った。  彼が苦しむことを予想できなかったわけではない。けれど、信頼関係にない相手とのPlayは、Subにとって精神的にも肉体的にも苦痛が伴う。Dropする危険が高くなるし、下手をすれば命にだって関わる。抑制剤を渡して、定期的に薬を買ってくれるようになればいいと思った。市販薬でも飲み続けていれば、欲求を解消する回数を減らせるかもしれない。  だが、それなりに責任も感じていた。 『今日、ちゃんと俺のこと頼れて、偉かったね』 少しは落ち着くだろうかと思って言った言葉だったが、ここまで効いてしてしまうのは予想外だった。もしかすると、この子は一般的なSubよりも第二性が強いのかもしれない。 「……二回、だな」  国近は呟く。彼のことで判断を誤ったのはこれで二回目だ。  一回目は取り調べの時。あの時、彼のパートナーを呼び出そうとしてしまった。  二回目は取り調べの後、彼の事情を聞かずに帰してしまったこと。まさか帰る家もなく、ネットカフェで生活していたなんて思わなかった。本当に無責任だった。 (嫌になるな)  自分はいつから、こんなにも、傲慢になってしまったのだろう。  理不尽に何かを奪われる人間がいる。昨日までの日常が、当たり前ではなくなる恐怖。それでも息をして、生きていかなければならない絶望。安全圏から語られる理想は、当事者たちにとっては机上の空論にすぎず、どこか現実味がない。 国近自身も知っていたし、何度も見てきたはずなのに。  どうにかしてやりたい。そう、強く思った。 *  それから、約二カ月の月日が過ぎた。 「おい、資料どうなってる?」 「現場から連絡は」 「被疑者との関係性の調査を」  捜査本部が慌ただしく動いている。都内某所で頻発している強盗事件は、今日だけで十を超える被害が確認されている。数日前から事件の担当を命じられた国近は、喧騒のど真ん中で資料をまとめていた。  あの後、国近はハルトに同居を申し出て、渋々ではあったが彼は了承してくれた。  ハルトははじめこそ警戒していた様子だったが、最近は少し気を許してくれたらしい。  時折、自分の話をするようになった。  両親がいないこと。出身は遠い雪国の小さな田舎町であること。学校は義務教育までしか出ていないこと。パソコンの使い方は中学の時の情報の授業で覚えたらしい。  ふとした瞬間に彼が零した断片を、国近は結び合わせている。  意外だったことは、彼がかなりの読書家だったことだ。  家にいる間、食事と睡眠以外の時間は、ほとんど国近の書斎から小説を持ってきて読んでいた。警察官は嫌いだと言うくせに、警察小説は別らしい。よく分からない。  彼は賢く、語彙も豊富だった。  彼なりに生活の術をよく身につけている。  ある日、国近が家に帰ると、溜めていた洗濯物が全部綺麗に洗濯をされていたことがあった。国近がハルトに問いかけると、 『別に。溜まっていたから片しただけだ』  という返事が返ってきた。  口調はぶっきらぼうだが義理堅いところがある。  返さなくてもいいと言ったネットカフェの料金をきっちり十円単位で返してきた。その後も収入が入れば、その内のほとんどを国近に渡そうとする。  警察官の収入は一般企業の同年代に比べれば高い方だ。貯金も人並みにある。激務のおかげで経済を回す余裕がない。  彼一人の食費が増えるぐらい国近にとっては誤差の範囲内だったけれど、彼は律儀にお金を渡してきた。国近はそれをハルトに内緒で使わずにいる。その代わりに彼が喜ぶよう、こっそりと本棚の蔵書を増やしていた。  もう少ししたら、彼にスマホを買ってやろう。今は国近のスマホを貸しているが、彼個人の連絡手段はあった方がいい。連絡先があれば福祉にも繋げることも可能だ。日雇いの仕事で日銭を稼いでいるようだが、決まった仕事も探しやすくなるだろう。今すぐに与えてもいいが、きっと受け取ってくれない。  ――俺の、パートナーになる?  ハルトを拾った日、ポロりと口から出てしまった言葉を思い出す。あの時は、自分は彼に同情しているのだと思った。  けれど今は、違うと分かる。  これは国近の欲で、本能だ。  国近のデスクの上。大量の資料と書類が塔のように積み重なっていた。まだ前の事件の後処理も終えていないけれど、犯罪はのんきに待ってはくれない。 「(……他人のこと、とやかく言えないな)」  ハードな任務と過酷な現場。気が付くと自分の欲求に鈍感になっている。薬で出来るのはあくまでコントロールであって、解消じゃない。  きっと、一番欲求が解消出来ていないのは国近自身だ。  ハルトといると気が休まる。 「国近、出るぞ!」  部屋の入り口から上司の声がした。被疑者が動き始めたらしい。国近は資料まとめを中断させて、ジャケットを羽織る。その背中を追った。  空が青白んでいる。しばらく帰れないと告げてきたけれど、彼はちゃんと食事をしただろうか。 *  国近と暮らし始めて、二カ月の月日が過ぎた。  毎日、寝床を探したり、そのためにお金の心配をしたりしなくていい生活は、思った以上に楽だった。  今、ハルトは食品加工工場でアルバイトをしていた。ジャムや野菜スープを作っている会社だ。およそひと月半後、都内の大型百貨店で物産展が開かれるらしく、そこに商品を卸すため、人を増員しているらしい。契約期間は物産展が終わるまでと短いが、時間は週五日、九時から十七時まで。フルタイム勤務の仕事だ。日給は約九千円。しばらくは楽に生活ができそうだ。家も、食事も、国近の世話になっている。せめて生活費ぐらいはきちんと収めたい。  ベルトコンベアに乗って、瓶詰されたジャムが流れてくる。ハルトの仕事はというと、流れてきたその商品をひたすら丁寧に、小さな箱に詰めるということだった。 『有機栽培いちごで作った優しく爽やかなジャム』  パステルカラーでデザインされた箱には、そう印字してあった。物産展に出すぐらいだから、それなりに名の知れた商品なのかもしれない。  箱を組み立て、そこにジャムの瓶を入れていく。  作業場の時計が十七時を指した。大仰なチャイムの音が鳴る。終業の合図だった。  残りの仕事を、ハルトと交代で来た遅番の社員に引き継いで、ハルトは作業場を後にした。    更衣室で、作業着を脱ぐ。そこには同じく十七時上がりのバイトが何人かいて、なにやら楽しそうに話していた。  流行、アイドル、人身事故。  それらはどれも、ハルトにとって馴染みのないものばかりだった。  そして、そのことに対して別段何も感じない。寂しいとも、つらいとも思わない。  人と関わる方法は、とうの昔に忘れてしまった。  借り物のロッカーの戸を閉める。  今なお盛り上がっている彼らの合間をぬって、更衣室を出た。  工場の廊下を歩く。リノリウムの床は、もうずっと昔の学生時代を思い出させた。 「君!」  後ろから声がかかる。数回呼ばれて、それが自分を呼んでいる声だと気が付いて、足を止めた。振り返る。  作業着姿の中年の男が、小走りで寄ってきた。バイトの指導係を担当している人だ。  右手にビニール袋を持っている。それをハルトに差し出しながら言った。 「これ、賞味期限が近くて今朝返品になった商品なんだけれど、よかったら」  ハルトは袋の中身を覗き込んだ。ハルトが先ほどまで箱詰めしていたジャムが二つと、スライスチーズが二袋、それからカレールウやパスタソースのパウチなんかが入っていた。そういえばこの会社は、スパイス製品も多く製造していると聞いた。 「良いんですか?」  指導係の男を見上げ、ハルトは問いかけた。思いのほか、年相応の声が出た。  ハルト自身料理はからっきしだが、国近に渡せば上手く調理してくれるかもしれない。以前、パスタソースでホットサンドを作ってくれたことがあるけれど、あれは絶品だった。  もっとも、『美味しい』なんて中々素直に言えないけれど。 「量が大量でみんなに配っているんだけど、ちょうど君が更衣室から出てくるところが見えたから」  そう言って、指導係は頬を掻きながら笑った。  工場を出て、帰路につく。国近の家は、ここから歩いて15分ぐらいだ。  太陽が赤く染まっていた。夕焼けが、鮮やかに住宅街の家々を染め上げる。  心が穏やかだった。 *  家に到着した頃には、すっかり日は沈んで、辺りは真っ暗だった。  合鍵を使い、502号室のドアを開ける。国近はもう帰っているだろうか。 「あ……」  静まり返った玄関は、外と変わらずに暗いままだ。そこで、気が付く。  数日前、国近は慌ただしく家を出ていった。 『しばらく帰れなくなるかもしれない』  都内某所で起きている強盗事件を担当をしているらしい。ニュースにもなっている一件だ。通勤に向かう途中、家電量販店のテレビで目にしたことがある。  あれから、多分四日。国近は家に帰ってきていない。  シュン、とハルトは眉を下げた。『しばらく』というのはいったいどのくらいなのだろう。  そこで、はっと気が付いて、首を横に振った。  自分は何を考えているのだろう。まるで彼がいないことを、寂しがっているみたいではないか。 「はあ」  ため息をついて、電気のスイッチを点ける。  家事でもしよう。洗濯物が溜まっていたはずだ。いつの間にか、国近が食事を作り、ハルトが洗濯と掃除を担当するというルーティンが出来ていた。暗黙の了解というわけではないが、国近は仕事柄忙しく、掃除や洗濯を後回しにしがちなので、何気なくハルトがするようになった。  その前に食事だろうか。キッチンに向かう。冷蔵庫の扉を開けて、工場でもらってきた食材をまず片づける。ハルトは冷蔵庫の中身を一通り眺めた。卵や数種類の調味料、野菜の切れ端などが目に入る。すぐ下の引き戸、冷凍室の中には、冷凍食品がいくつか入っているはずだ。  自分がいない時は、冷凍室のものを温めて食べろと、国近が言っていた。  ハルトは冷凍室の戸に手をかけた。扉を開けようとして、止まる。  結局、何も取らずに戸を閉めた。  肉体労働ではないが、フルタイムで働いてきたのだ。ハルトはたいてい昼食を取らない。今朝はトーストを一枚食べただけで、お腹はすいているはずだった。実際、帰路を歩いているときには確かに空腹感があった。  けれど、何も食べる気にはなれなかった。  リビングに戻る。  ソファーに横になって、目を閉じた。  国近がそばにいるからなのか、毎日きちんと抑制剤を飲むようになった(国近がうるさいので)からなのか、この二カ月の間、ハルトが欲求不満の不調で倒れることはなかった。気分も体調も、以前よりは格段にマシだ。  けれど、ここのところ、どうも調子が悪い。  今みたいに、急にやる気が出なくなることがある。  それに……。  ――おいで、“Kneel”  頭の奥で、国近の声がする。コマンドを使った命令口調ではあるが、声色はひどく優しい。  きちんと出来たら、彼はきっと、自分を褒めてくれるだろう。  そこで、目を覚ました。  ここ最近、繰り返し同じ夢を見る。  国近にはじめて出会った日の夢だ。もっと具体的に言えば、国近とPlayをした時の夢。  身体を起こす。膝が震えていた。  はあ。帰宅してから数度目のため息をつく。  それから、少しふらつきながら立ち上がって、ハルトは寝室へと向かった。    半ば倒れるようにしてベッドに横になる。シーツから、彼のにおいがした。  ほっと、息を吐く。  こうしていると、少しだけ楽だった。  ――俺の、パートナーになる?  この家にはじめて来た日、国近に言われた言葉が繰り返し頭の中でリフレインした。  パートナーになったら、彼はまた、あの日みたいに触って、撫でてくれるのだろうか。

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