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【第3話②】君がいる場所といない場所2
数日後、明朝。
国近肇はようやく帰宅をすることが許された。担当していた事件の被疑者の身柄が確保できたのである。先日の詐欺事件は国近が一人で現場の指揮を任されたが、今日は国近よりも階級が上の刑事が何人かいる。あとは任せても大丈夫だろう。事後処理はまだ残っているが、とりあえずは一件落着だった。
欠伸を噛み殺しながら、アパートのエレベーターに乗る。もう何日もろくに眠れていない。
疲れた。早くベッドに横になりたい。
ふと、胸ポケットに入れた仕事用のスマホの表示を確認する。
土曜日、八時半。
最後に家に帰ったのは、一週間前の木曜日だ。丸八日も家を開けてしまった。
ハルトは、どうしているだろうか。
先週のはじめから、ハルトは食品加工工場でアルバイトをしている。仕事があるのは平日だけだと言っていたから、今日は家にいるはずだ。
部屋の前につく。慣れた手つきで玄関の鍵を開けて、扉を開く。
部屋の中は静まり返っていた。まだ眠っているのかもしれない。
リビングに足を進める。一週間以上も家に帰っていないわりには、廊下は綺麗に掃除がされていて、ホコリ一つ立っていない。
きっと、自分がいない間、彼が家を守ってくれていたのだろう。
リビングの扉を開く。そこで、国近は足を止めた。
普段、ハルトはリビングのソファーを使って眠っている。国近は自分のベッドを使うように言ったが頑なに断られてしまった。
『Domの布団なんかで眠れるわけねえだろ』
というのが彼の主張だった。
ハルトがベッドを使ったのは、はじめて家に来た日の一度きりだ。
だからきっと、今日もソファーの上にいるのだろうと思った。
けれど。
いる、と思っていたその場所に、彼の姿はなかった。
本に夢中になるうちに書斎で眠ってしまったのだろうか。
国近は一度リビングを出て書斎の扉を開けた。ツンとした古本のにおいが鼻を掠める。
あたりを見回した。本棚の本は、ほんの少しだけ移動させられた形跡はあるが、別段普段と変わらない。窓側の机。ノートパソコンが置いてある。人影はなかった。
次に、キッチンの奥。洗面所とバスルームを覗き込んだ。そこはランドリースペースとなっていて、ベランダへとつながっている。洗濯をしている最中なのかと思ったのだ。
だけど、そこにも彼の姿はなかった。
国近は顔を青くする。もしかしたら自分のいない間に、家を出て行ってしまったのだろうか。それともまた、何かトラブルに巻き込まれているのではないか。
いや、話が飛躍しすぎている。案外コンビニに行っているだけかもしれない。
そこで、たった一部屋だけ、探していない場所があることに気が付いた。そこにいる可能性は限りなく低いけれど……。
国近は寝室のドアを開けた。
「ハ、ルト」
国近のベッドの中。シーツに丸まって、彼は寝息を立てていた。
ほっ、と国近は息を吐く。
何をしているのだろう。この子は。
Domの布団では眠れないのではなかったのか。
ベッドの端。彼の頭がある少し上に、国近は腰をかける。穏やかな寝顔だ。顔色も肉付きも、はじめて会った時とは比べ物にならないぐらい良くなった。
ハルトと暮らすようになってから、なるべく忙しくても家には帰るようにしていた。こんなに長期間、家を空けたのは初めてだ。彼なりに、寂しいと感じてくれていたのだろうか。
彼の髪を、そっと撫でる。浅黄色の猫っ毛は柔らかく、国近の指に絡まりついてくる。
ふあ、と二回目の欠伸が、口元から零れた。
彼の寝顔を横目で見ると、いたずら心が芽生えた。
このまま、隣で自分が眠ったら、目覚めたとき彼はどんな反応をするのだろうか。
見てみたい気がした。
そこで、胸ポケットのスマホが鳴る。慌てて横のハルトを見た。マナーモードにしていたから、ハルトは少し身じろぎをしただけだ。
立ち上がり、音を立てないようにして部屋を出る。
部屋の入口で、受信ボタンを押した。
「はい、国近」
電話口の相手は一課の同僚だった。階級は同じだが国近の三つ上の先輩にあたる。
最短で昇格し、捜査一課に配属された国近を、嫌な顔一つせず迎え入れてくれた。
「おい国近、お前何やらかしたんだ!」
その同僚に、開口一番そんなことを聞かれた。
はて、と国近は首を傾げる。寝不足で頭はあまり働かなかったが思考を巡らせた。
今週は都内某所で頻発していた強盗事件を追っていた。
こんな仕事だから、いつもどおりと言うのも可笑しな話だが、取り立てて変わったことはなかったはずだ。ましてや、何かとんでもないことを『やらかした』覚えはない。
「上が荒れてる。すぐにお前を呼び出せって聞かないんだ。帰宅して早々悪いけれど、出てこれるか?」
警察官である以上、急な招集は免れない。うすくため息をついて、
「すぐに」とだけ告げた。
何が問題だったのかは分からないが、きっと何か誤解があったのだろう。きちんと釈明すれば分かってもらえるはずだ。
国近は一瞬だけ、部屋の方へと目線を向けた。名残惜しさを振り切り、仕事モードへと頭を切り替える。
帰ったら、彼に何か美味しいものを作ってやろう。
*
チャイムが鳴っている。
部屋中に響く甲高い音に、ハルトは一瞬眉をひそめて、薄く瞼を開けた。
緩慢な動作で身体を起こし、辺りを見回す。そして、首を傾げた。
ついさっきまで隣に誰かがいたような気がした。国近が帰ってきたのだろうかと思ったが、部屋の中に、人の気配はない。
頭に触れる。確かに、撫でられた感触があった。
またおかしな夢を見ていたのだろうか。
ピンポーン
再び、チャイムが鳴った。その音に反応して、ハルトはベッドから降りる。
ベッドの端に置かれたスマホを見る。国近に借りたものだ。スマホの使い方は相変わらず分からないが、画面を見ると日付や日時が確認できることは学んだ。
土曜日。午前九時過ぎ。
誰だろう。こんな時間に。宅配便だろうか。
仕事柄忙しい国近は、生活必需品のほとんどをネット通販で買っている。時折、受け取りを頼まれることがあった。
でも妙だな。宅配便なら先週来たばかりだ。洗剤も石鹸もまだ随分余っているはずだ。それに、国近は普段置き配サービスを利用しているから、宅配員の人とハルトが遭遇することはめったにない。直接受け取りが必要なものは、宅配便が来る前日に教えてくれた。
近頃、国近は忙しそうだった。単に伝えるのを忘れていたのだろうか。
ピンポーン
もう一度、チャイムが鳴る。ハルトは慌てて玄関へと向かった。
内鍵を開錠し、扉を開ける。
「こんにちは」
「っ!」
見知った顔に、ハルトの瞳が大きく見開かれる。
思わず反対側に閉じようと扉を引いたのを、彼は見逃さなかった。
扉と部屋の隙間に手のひらが差し込まれ、続いて革靴が入り込んでくる。
すみやかに部屋の中へと肉体を入れ込ませ、そっと扉を閉めた。
「あ……」
首元に、手をやる。【それ】は、確かにまだそこにあった。金属製の首輪だ。ハルトのパートナーがつけたもの。近頃の日常は随分と穏やかだから、ハルトはその存在を忘れていた。
急に、首輪が重くなったような気がした。呼吸が上手く出来なくなって、肩が上下する。
「お久しぶりです。ハルトさん」
玄関に佇むその男は、兄・正臣の有能な右腕だった。
*
国近肇は今、警視庁の刑事部長室にいた。
あの後国近が警視庁に戻ると、電話をかけてきた同僚が駆け寄ってきて、すぐにここに行くようにと言われた。
国近の目の前。三角札が置かれたデスクがある。そのデスクに、一人の男が腰を掛けていた。かなり大柄の、熊のような風貌をした男だ。こんな風に向かいあったのは数えるほどしかない。彼の直属の上司のそのさらに上司、刑事部長である。
デスクの横で、日本国旗が揺れていた。
「これはどういうことかな、国近警部補」
刑事部長は一枚の写真をデスクの上に置くと、そう切り出した。
写真の中央。見知った顔が二人、映っていた。一人は国近自身、もう一人は、国近の家に身を寄せている青年・ハルトの姿だった。背景にはクリーム色の外壁が見える。おそらく家の前だろう。
何度かハルトと一緒に買い出しに出かけたことがある。その時に撮られた写真だろうか。
「どう、とは?」
プライベートな話だ。それを聞くためだけに、わざわざ呼び出したわけではないはずだ。
質問の意図するところが分からず、国近は問いかける。
「この青年は、須藤グループホールディングス会長の次男坊だ。数か月前から行方が分からなくなっていて、捜索願が出されていた。その青年が、どうして君の家にいるんだ?」
須藤グループホールディングス。
それは、主に不動産経営で大きくなった会社だ。古くは財閥の一つだったらしい。現在は事業展開をより多岐に広げ、建築事業やホテル運営、リゾート経営など大きな収益を挙げている。日本を代表する企業の一つ。
国近のような一公務員でも、名前ぐらいは知っている会社だった。
思いがけない単語に、国近の表情が曇る。ハルトの生活と彼の実家の話が、頭のなかで上手く嚙み合わなかった。それに、国近はハルトから両親はいないと聞いていた。
一抹の違和感を覚えながらも、国近は唇を開く。
「……三カ月ほど前、とある事件で彼と遭遇しました。行くところがない様子でしたので、自宅で保護しておりました」
「素性も聞かずにか? 少し調べれば彼が行方不明の青年だということぐらい簡単に分かったはずだ」
「……申し訳ありません」
ここで下手に誤魔化すのは逆効果だろう。国近がハルトの素性を調べなかったのは事実だ。国近は素直に謝罪した。
「今、捜査官を一人、君のアパートに向かわせている。その捜査官と一緒に彼は自宅に返す。それでいいね」
刑事部長の提案に異論はなかった。
少し名残惜しい気もするが、頼る先があるならそちらを頼ったほうが彼も安心だろう。
国近に対してお咎めはあるかもしれないが、自分が叱られて話が済むのならば御の字だ。
家に帰れば、あの首輪のパートナーとも簡単に別れることができるはずだ。
「かしこまり……」
言いかけて、国近は止まる。
パートナー?
急速に、頭の奥が冴えていくのを感じた。
何かがおかしい。
そもそも、ハルトはなぜ家出なんかしたのだろう。いや、仮に家出をするのに相応な理由があるとしても、彼の生活は随分と不安定だった。
ハルトは賢い青年だ。彼なりに生活の術を身に着けている。拾ったネットカフェの会員証を使って寝床を確保するぐらいだ。学校は中学までしか出ていないようだが、中学卒業程度の基礎的な教養は完璧に覚えていた。それぐらい賢い青年なら、行政に頼ることぐらい簡単に思い浮かんだはずだ。
けれど、彼はそれをしなかった。
その代わりに、契約期間の決まった日雇いの仕事ばかりを探してやっていた。
行政や福祉を頼れなかったのは、扶養照会を恐れたため。日雇いのバイトを好んでやっていたのは、見つかる確率が低くなるため。そう考えれば全て説明がつく。
行先を転々としている人物を探すのは難しいが、長期間同じ職場に勤めている人物を探し出すことなら簡単だ。
――それが身内となればなおさら。
胸騒ぎがした。そして、もしこの予想が正しければ、ハルトのパートナーは――。
「お待ちください! 彼をこのまま帰すのは危険です。もしかしたら彼は――」
「君はDomだったね」
国近の言葉は、刑事部長の厳かな発言によって遮られた。
「そして、この青年はSubだ。彼になにかを言われたのだろう。可哀そうに。彼は心の病を患っていて、虚言癖があるらしい。もう随分と長いようだ。さて、国近警部補。君は彼の嘘をあたかも真実であると認識し、あろうことか第二性が違う相手を保護という名目で家に置いたのかね?」
何が言いたいのか、分からなかった。刑事部長は続ける。
「第二性を持っている人間は、人口の十パーセントを下回る。中々パートナーを見つけるのに苦労すると聞く。君は彼に出会った時、こう思ったんじゃないか?『自分のものにしたい』と。だから家に連れ帰った」
国近の違和感が渦のように増大していく。刑事部長はデスクの引き出しを開けた。二枚の書類を写真の横に載せる。
「ダイナミクス性を持っている君に、捜査一課は荷が重すぎたのかもしれないね。少し休んだほうがいい。君は一か月の休暇ののち、地域部に異動してもらう」
二の句が継げなかった。
刑事部長の言うことは筋が通っている。だからこそ不自然だった。本当に問題にするのなら行政処分が妥当だ。あの詐欺事件の現場で、国近はハルトの調書に少しばかり恣意的な手を加えている。それだけで処分するには十分すぎる理由だろう。
けれど目の前に差し出された書類は、辞令と有給休暇の許可書。つまり表向きは処分ではなく、体調を崩した捜査官の人事異動と長期の休養。それでことを済ませようとしている。
国近は確信した。
「刑事部長」
呼びかける。切れ長の目がこちらを見据えた。
「あなたは私に、彼を見捨てろと、そうおっしゃるのですか?」
真っ直ぐな目線でそれを言うと、ほんの一瞬、刑事部長はたじろいだ。
「……。……君は優秀な捜査官だと聞いている。」
そう言って、目線を少し下に向ける。
こういうことは以前にもあった。国近の脳裏に高校時代の担任の顔が浮かんだ。警察採用試験を受けると告げたとき、彼も今の刑事部長と同じように目線を下に向けた。
これは、何かを言いづらいことを言い出すときの仕草だ。
「こんなところで、キャリアを潰したくはないだろう」
「なっ!」
そこで、電話が鳴った。
「失礼」
断って、刑事部長が電話を取る。
「ああ、はい」
電話口の声は、こちらには聞き取れなかった。何かを話している刑事部長の顔を見つめながら、国近は拳を強く握りしめる。
先ほどの口ぶりからして刑事部長はグルだ。いや、もしかしたら上層部全体が須藤家とつながっているのかもしれない。
はじめて会った日、ハルトは国近の提示した警察手帳を見て、ひどく怯えた顔をした。その理由が、今ようやく分かった気がした。きっと、何度も警察を頼り、その度に裏切られてきたのだろう。
ハルトのパートナーがハルトを連れ戻しに来る可能性を、一度も考えなかったわけじゃない。だけど、警察官である自分がそばに居れば、彼を守れると思っていた。
身の回りに敵がいる可能性に、今日までまるで思い至らなかった。
「(くそっ……!)」
まただ。また判断を誤った。
これは自分の怠慢だ。
刑事部長の声が止まる。通話が終わったのだろう。
受話器を置いた。
「今しがた、青年を無事に保護したそうだ。もうこの件に、首を突っ込んではいけないよ?」
*
その男は、名を桐野と言う。元々は須藤家で使用人をしていた人物だ。あまりに優秀だったので、兄が会社へと引き入れた。以来、彼は須藤家の使用人と兄の部下、二つの仕事を兼任して勤めている。彼が休んでいるところを、ハルトは見たことがなかった。
年齢はハルトよりも十は年上のはずだが、その聡明な顔立ちは、衰えることを知らない。ハルトがはじめて会った時、彼はすでに二十代を迎えていたはずだけれど、外見はその頃から一切変化していなかった。
「俺が何をしにきたのか、ハルトさんなら分かりますか?」
分かるよ。嫌味なほどに。こういうことは何度もあったから。
ハルトが逃げ出す度に、この男は兄に代わって自分を連れ戻しに来た。
ハルトは肩を上下させる。呼吸が、上手く出来ない。身体がこの男を、この男の背後にいる人物を拒絶している。
ぐっと、ハルトは自分のシャツの胸倉を掴んだ。
「っ……俺はもう、あの家には行かない」
ハルトの抵抗をまるで聞いていないかのように、桐野は国近宅の玄関――辺りの靴箱やカーペットを一通り見まわした。
それから、再びハルトに向き直り、意味ありげに目を細める。
「……国近警部補、今日付けで地域部に飛ばされるそうですよ」
「へ……?」
国近? どうしてここで国近の名前が出てくるのだろう。
それに、飛ばされたとはどういうことだ。
「可哀そうに。捜査一課なんて花形部署、誰でも勤められるわけではないのに。それもあの若さで……。きっと血のにじむような努力をされたのでしょうね」
警視庁捜査一課。そこがどういう場所なのか。どういう立ち位置なのか、ハルトは知っている。国近の書斎にある小説の中で、繰り返し題材にされていた。
国近は優秀な刑事だ。出会った日も、彼は現場の指揮を担当していた。
そんな国近が飛ばされたというのなら、それはきっと兄の圧力だ。そして、その圧力をかけさせたのは……。
「……俺の、せい?」
違うと言ってほしい。関係ないと言ってほしい。
「ええ、そうです。ハルトさんのせいです」
けれど、淡い希望は、簡単に打ち砕かれてしまった。
「貴方が壊したんです。彼の努力を一瞬で」
言葉が出ないハルトに、桐野は追い打ちをかける。
さて、ハルトさん。と桐野が続けた。
「それでも、ここに居たいですか?」
「……っ! 手を出さないでくれ!」
薄く、桐野が笑う。その表情から、彼の本心は伺えなかった。
「行きましょう。ハルトさん。お屋敷で正臣様がお待ちです」
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