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【第4話①】最悪ななりゆきの一番最悪な話 1
都心の一等地にあるその屋敷は、『光』をコンセプトにして設計されたらしい。元々は遠い雪国にある建築作品の一つだった。それを、須藤グループの元会長――つまりは正臣の祖父がいたく気に入り、都内に同じものを作らせて引退後の住まいとした。彼の死後、その屋敷は孫の正臣に相続され、正臣個人の邸宅となっている。
外見は伝統的な日本家屋だが、室内にはところどころコンクリートで作られた壁や天井がある。和洋折衷の兼ね合いが独特のわびさびを生み出し、そこに差し込む太陽光が綺麗に映える。元来豪雪地を想定した作りとだけあって、三メートル程度の高床式だ。地面からその家屋の二階部分に向かって、幅広の階段が伸びていた。その階段の先に、屋敷の玄関がある。
外階段のすぐ近く。そこに、黒塗りのセンチュリーが一台止まった。
運転席からスーツ姿の男が一人、音を立てずに降りる。その男はご丁寧に後部座席へ回ると、恭しくそのドアを開けた。
後部座席には線の細い青年が乗っていた。男に促され、重い腰を座席から離して車から降りる。
彼――須藤美斗 は、苦々しい面持ちで屋敷を見上げた。
「美斗さん」
横の男・桐野が、今度は階段を上るようにと促す。
おおよそ十数段からなるその階段は、美斗にとっては死刑台への階段に等しいものだった。
美斗の膝は小さく震えていた。その震える膝を、やっとの思いで一段目の階段へと乗せる。忙しなく目線を左右に向け、どうにか逃げる隙を探した。けれど、桐野は抜かりなくハルトの二段後ろをついてきた。振り返って逃げ出そうとすれば、すぐに桐野に捕まって、今よりもきつい仕置きが待っているだろう。
決心も覚悟もままならないまま、美斗は階段の最上階に到着していた。物々し気な玄関の引き戸が視線の先に現れる。その扉に手をかけようとして、美斗は止まった。見かねた桐野が美斗の背後から扉に向かって手を伸ばす。
扉が開かれる。
玄関先に、眉目秀麗な若い男が一人、立っていた。皺一つない真っ黒なスーツを身に纏い、腕を組みながら上体を壁に預けている。
その男の名は、須藤正臣という。
彼は、美斗の戸籍上の兄で、美斗の主だった。
「おかえり」
形のいい唇が開く。肩で切りそろえられた細くしなやかな黒髪を掻き上げると、彼の整った顔立ちが、いっそう際立って見えた。
緩慢な動作で、正臣は美斗を見据えた。媚眼秋波な目元の左側には、小さな泣きぼくろが二つ並んでいた。
美斗の身体がいっそう大きく震えだす。二、三歩後退りをするが、壊れたロボットみたいに固くなった肉体は、すぐに言うことを聞かなくなった。その場で膝を折る。
その様子を見て、彼は薄く口角を上げた。
「あの刑事、Domなんだってな」
心底楽しそうな声だった。
「可愛がってもらったか?」
「……っ……ふざけるな」
見上げる先で、美斗は正臣を睨みつける。この男はいつもこうだ。でも本能は屈しても、精神まで明け渡してやる義理はない。
すると、正臣はふう、と大げさにため息をついた。
次の瞬間。
「いっ……!」
乾いた音がその場に響き渡った。
バランスを崩した美斗の身体が、玄関フロアに転がる。
一瞬、何をされたのか分からなかった。ジンとした痛みが左頬に広がっていて、殴られたことに気が付く。奥歯からした鉄の味が、その衝撃の強さを物語っていた。
心底鬱陶し気に、正臣は右手を振った。薬指に指輪が光っている。美斗の首元につけられたものと同じデザインだ。美斗は膝を丸めて蹲る。そうすることしか、もう出来なかった。
「桐野。首輪の鍵を外してやれ」
正臣が言うと、後ろに控え、その一部始終を見守っていた男が動いた。痛みで動けない美斗を見下ろすと、彼の首に手をかける。手早く首輪にかかっていた南京錠が外された。
「三つ」
続けて、頭上から容赦のない声が飛んできた。
「え……?」
美斗は耳を疑った。
それは、兄のお気に入りのお仕置きの一つだった。金属製の首輪は、バックルが連なった腕時計と同じような仕組みになっていて、そこで長さ調節が自由に出来る仕様になっている。
つまり、それを三つ分、きつく締め直せと言っているのである。ただでさえ重苦しい首輪は、ぎりぎりの長さで首に巻き付いている。三つも締められるわけがなかった。二つまでなら締めた経験があるが、それだって相当きつかった。
「い、いやだっ……」
中留の部分を掴み、美斗が抵抗をする。けれど、そんなささやかな懇願を、この男が聞いてくれるわけがなかった。
「聞こえなかったのか? 僕は三つって言ったんだ」
「ひっ……」
向けられたのは、流氷のように冷え切った眼差しで。身体がすくむ。
兄は今、相当怒っているらしい。それもそうか。屋敷を抜け出し、別の男の元に身を寄せ、兄に口答えをした。そういう愚行を、兄が見逃すはずがなかった。数えてみればちょうど三つ分だ。
力の入らなくなった指先で、美斗は首輪の中留を外した。ぐっと力を入れてそれを三つ分、左へと締め直す。想像どおり中留は上手く止まらなくて、首の皮の一部分を噛む。鋭い痛みが走った。首輪の端から艶やかな赤い血が一筋流れていく。
気管がしまり、ただでさえ上手く出来なくなっていた呼吸が、さらに不自由なものへと変わる。空気中の酸素を一つも逃さないようにしないと、すぐに生命が止まってしまいそうだった。
自分は今日、このまま死ぬのかもしれない。いっそ殺してくれたらいいのに。そうしたらこの地獄から解放されるのだろうか。だけど死ぬことすら、兄は許してくれないのだろう。
「いつまで寝転がっているんだ? “Come” 美斗。陽の間だ」
向けられたコマンドに、本能が打ち震えた。
行きたくない。出来ることならこのまま玄関を突っ切り、青空のもとへと逃げ出してしまいたい。けれど本心とは裏腹に、美斗の身体は屋敷の奥へと動き出していた。
泣き出しそうな瞳が、一度だけ振り返り、玄関先を見る。無表情に佇む桐野の横で、引き戸はまだ数センチほど開いていた。
朦朧とする意識の隙間。覗いた空に、青白く光る粒を見た気がして、それが幻覚であると気が付く。
美斗は目線を屋敷の方へと戻す。広い廊下の先に、支配者の背中が見えた。美斗の瞳は、もう諦めたように色を失っていた。
屋敷の最奥。陽の間の襖が、ひっそりと閉められる。
*
最悪ななりゆきの、一番最悪な話をしよう。
その頃、美斗はまだ十歳で、彼はまだ『須藤』ではなかった。
美斗が生まれ育った町は、一年の半分は雪が降るような山沿いの小さな田舎町だ。
その日は、春先だというのに明け方から降り出した雪が止まず、庭先を白く染め上げていた。点けっぱなしにされたリビングのテレビで、季節外れの降雪情報が流れていた。平日だったけれど、雪の影響で学校は休校になり、美斗は暇を持て余していた。午前中は家にある絵本やら児童文学やらを読んで過ごしていたけれど、午後になればそれも読み終えてしまう。
窓の近くに腰を掛け、結露で白く染まった窓ガラスに、指先で絵を描く。そうして遊んでいた。
しばらくすると、奥の部屋から父が顔を出した。窓ガラスに映った父の顔を見つけて、美斗がそちらを振り返る。
父の指先には、無数のペンダコが出来ていた。小指から手の付け根の部分が黒く染まっている。
美斗の父は小説家だった。インターネットが普及をし始めてすでに何十年も経っていたけれど、彼は機械の類が全く使えず、手書きで原稿を書いていた。だから、父の利き手はいつもペンダコと鉛筆の炭が付いていた。
「あら、出かけるの?」
リビングで休んでいた母が、同じように父を見つけた。父の手の中には、分厚い封筒があって、その横には財布と車のキーが握られていた。
「ああ、原稿を届けにいかないと」
父の小説は結構好評らしい。父は雑誌連載をいくつも掛け持ちしていた。美斗の家には時折、出版社の人間が原稿を取りに来ることがあった。今日も担当編集が来る予定だったけれど、雪の影響で県境から最寄り駅までの電車が運休しているらしい。
「雪が止んでからじゃだめなの?」
母が言った。その日、ニュースではこの辺一帯に大雪警報が発令されていた。中心街に出れば少しマシだろうが、危険なことには変わりない。
すると、父はあー……と声にならない呻きを上げた。申し訳なさそうに頬を掻く。
「〆切だいぶ過ぎちゃって。校了日まで時間がないし、今日はこのまま担当さんと直す予定だったんだ」
あらあらと、母の困った声が聞こえてくる。母は数秒悩んで、
「あなた、ここのところ寝てないでしょう? 私が運転するわ」
そう言って、父から車のキーを奪った。
美斗は二人の様子を不思議そうに眺めていた。しばらく見つめていると、父と目が合った。
「美斗」
父が呼ぶ。美斗の方へと近づくと、膝をたたんで美斗に目線を合わせてくれた。父の目元が優しげに緩む。
「遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて」
そっと、父の手が頭に置かれた。優し気な手つきで美斗を撫でてくれる。万年筆しか握ったことがないような父の手は、薄っぺらくてあまり頼りがいがなかった。けれど、そんな父の手のひらが美斗は大好きだった。
利き手の手のひらとたった一本のペンで、まっさらな原稿用紙に物語を紡ぐ。そんな父が誇らしかった。留守番は寂しかったけれど、父の仕事のためだというのならば耐えられた。
「ああ、分かった」
そう言って、美斗は笑った。その頃、美斗は幸せで、とても良く笑う、明るい子どもだった。
けれど。
美斗が父と母を見たのは、それが最期だった。
自宅へと向かう帰り道。県境。
急カーブでスリップしたトラックが、二人の乗った車に突っ込む。
即死だった。
必ず帰ると約束した二人は、二度と、美斗の元には戻ってこなかった。
*
それからのことを、美斗はあまりよく覚えていない。
はじめに連絡をくれたのは担当編集で、父と母が事故にあったと聞かされた。そのあとで親戚が迎えにきて、搬送先の病院で二人の死亡が確認されたと聞いた。
気が付いた時には両親の通夜が始まっていて、美斗は花がいっぱいに手向けられた祭壇の前に座っていた。
「可哀そうに。まだ若いのに」
会場で、誰かが話す声が聞こえる。その話題の多くは、両親への同情と、
「美斗くんはどうするんだ」
自分を誰が引き取るのか、ということだった。
彼らは最前列に座った美斗をチラチラと伺い、コソコソと話していた。
「うちは無理よ」
中年の女性の声がした。たぶん、母方の叔母だっただろう。
「あの子、Subでしょう? うちの子に何か影響があったら」
それを聞いて、ぎゅっと、美斗は拳を握った。
ダイナミクス性が発現して、すでに半世紀が過ぎていた。はじめの頃は深刻な差別もあったそうだが、今では随分と解消されてきている。
けれど、美斗が育った小さな町では、第二性を持つものが極端に少なく、今でもそうした偏見があるようだった。両親は気にしなくていいと言っていたけれど、親戚が自分を遠巻きにしていることに、気が付かないはずはなかった。
第二性は生まれもった性質のようなものだ。誰かに悪い影響を与えることなんてない。
けれど、この町に降り積もる真っ白な雪は、そういう適切な情報から、人々を覆い隠してしまうのかもしれなかった。
目線の先。二つ分の笑った遺影が見える。
もう、帰れない。そのことだけが、美斗には分かった。
その人がやって来たのは、葬式が終わり、いよいよ火葬場に移動しようという時だった。
会場の入り口の方が急にざわめきだして、喪主をしていた父方の叔父がそちらへと向かう。
ほんの少し後、叔父が慌ただしく戻ってきた時、その後ろには一人の男がついていた。
男に向かい、叔父の唇が動く。声は聞き取れなかったけれど、「なんでまた」とか、「どうしてここに」とか、そういうことを聞いているのだろうと思った。
美斗はぼんやりとその男の方へと顔を向けた。足元まで覆う、重厚で高級感の漂うコートを身にまとい、背筋を伸ばして叔父の後ろを歩いている。
烏みたいに真っ黒なスーツは、その場にいた誰のものよりも澄んでいて、光沢があった。
それに、見る人が全員振り返るような、整った顔立ちをしていた。
その男の名は、須藤忠臣という。父方の遠縁にあたる人物だった。美斗が会ったことはなかったけれど、親戚の会話から、東京の大きな会社で取締役をしているのだということは分かった。
忠臣氏はそのまま棺へと近づき、ぞっとするほど綺麗な所作で焼香をした。思わず、目が離せなくなった。
しばらくして目を開けた彼の視線が、祭壇からほど近い位置にいた美斗とかち合う。
おもむろに美斗に近づくと、
「私の家に来るか?」
と言った。
彼は上背が高く、美斗は彼を見上げなければならなかった。
忠臣氏が続ける。
「君よりも少しだけ年上の息子がいるんだが、母親を亡くしてから家に閉じこもりがちでね。私は仕事柄家を空けることが多いし、遊び相手がいた方が安心だ。君と同じで第二性を持っているから、気も合うと思う」
それは、救いのような言葉だった。この場所にいても、自分の居場所がないということは、すでに分かっていた。
それに、『母親を亡くして』『第二性を持っている』という彼の息子が気になった。彼についていけば、自分と同じ状況の子どもに会えるのか。そうしたら、こんなに身がちぎれてしまいそうな孤独も、感じなくなるのだろうか。
親戚が固唾を飲んで二人の様子を見守っている。気がついたら美斗は頷いていた。
こうして、美斗は須藤の家の子になった。
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