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【第4話②】最悪ななりゆきの一番最悪な話 2

*  出発の日。  美斗は一人で新幹線に乗り、東京へと向かった。  仕事の都合上、忠臣氏は迎えに来ることが叶わなかったらしいと聞いた。東京駅には別の男が迎えに来た。 「桐野、と申します」  駅のホームで合流したその男は、使用人の一人らしい。物腰が柔らかく落ち着いた雰囲気のある人で、これから迎える新生活や駅を歩く膨大な数の人の波に強張っていた美斗の緊張がほぐれる。    そこから、桐野の運転する車に乗り込む。車を二十分ほど走らせた先に、その屋敷はあった。   伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている変わったデザインの屋敷だった。豪雪地を想定して作られたのですよ。と横の桐野が言った。東京の空気は乾いていて、故郷のように湿っぽさがない。  外階段を上がる桐野の後ろをついて歩く。桐野が玄関の扉を開けて、 「ただいま戻りました」と声をかけた。  すると、奥の部屋からブレザー姿の青年が顔を出した。  その整った顔立ちは、葬式会場で会った忠臣氏によく似ていた。すぐに忠臣氏が話していた彼の息子なのだということが分かった。 「へえ? その子? 父さんが言ってたのって」  アーモンド形の目元が、こちらを見据えた。 「ええ」  桐野が返答する。  なんとなく正臣の瞳の奥に冷たいものを感じて、美斗は目をそらした。すると、そんな様子を見ていた桐野が困ったように微笑んだ。 「美斗さん。この方は正臣様と言って、今日から貴方の兄になる方ですよ」  美斗に向かってそう説明する。美斗は正臣に向かい、挨拶をしようと唇を開いた。  しかし。 「父さんはなんて?」 正臣の視線は、すぐに桐野へと移動してしまった。 「……。『好きに使え』 そうおっしゃっておりました」 「そう。父さんらしい」 「……そうですね」 「まあいいや。気に入ったよ。泣き顔は結構そそりそうだ」 「旦那様にはなんとお伝えしましょうか」 「上手くやるよ。会社のためにもね」 「かしこまりました」 「心配かけたね。父さんにも、君にも」 「とんでもございません」  なんの話をしているのだろう。美斗は首を傾げる。  すると、正臣の瞳が再びこちらを見た。  表情を緩めて、美斗に向かって穏やかに笑う。  なんだ、案外優しい人なのかもしれない。そう思った。    次の瞬間だった。 「“Kneel”」  底冷えするような、そんな声がした。神経が反応する。  へたり、と美斗は床に膝をついていた。  なんだ、これ。  どうして自分は、座っているのだろう。  立ち上がらなければ。立ち上がって、それから――。  しかし、どう力を加えても膝はびくともしない。加えて、身体の奥が熱くなっていく感覚がした。  こんなのは、知らなかった。 「っは。いいね。想像以上かも」  正臣が笑う。どうしてこの人は笑っているのだろう。いったい自分に何をしたのだろう。  救いを求めて、横の桐野を見る。桐野は玄関先に佇み、一部始終を黙って見守っていた。  すると、正臣が美斗の髪を乱暴に掴んだ。 「いっ」  毛根が引っ張られる痛みに、美斗は眉間に皺を寄せる。生理的な涙が零れた。どうやらよそ見をしたことが気に障ったらしい。 「僕が躾けてあげる」  冷徹に、その人は告げた。  自分が引き取られた家が、そういう家だというのを、美斗はあとから知った。  徹底的にSub性を蔑視する家。その差別と偏見は、ダイナミクス性が発生した当初、正臣のひい祖父の代から始まったらしい。彼はNormalだったけれど、人に支配されて生きるSub性という人間が受け入れられなかった。Sub性の人間が会社や家系に入ること極端に嫌い、そういう人間の存在が会社の存続を危うくするとまで考えた。以来、社員をDom性かNormalの人間だけで固め、Sub性の人間は排除するようになった。それはいつしか伝統となり、須藤家に受け継がれていく。  しかし、そこに一人の子どもが生まれたことで、状況は一変した。  須藤家の次期当主・正臣である。  彼は、須藤家にはじめて生まれたDom性を持つ子どもだった。  生まれ持って支配欲の強い男だったが、須藤家の歪んだ伝統は、それをさらに加速させる。  思春期を迎える頃には彼のDom性は、物々しいまでの被虐とそれによる圧倒的な支配になっていた。  こんな家だから抑制剤などという発想があるわけもない。彼の欲求はとどまるところを知らず、周囲の人間に危害を加えるようになる。  次期当主がこんな状態なのはまずい。いずれ大きな問題になる前に手を打たなければならない。そんなとき、彼の父親・須藤忠臣は遠縁に身寄りのないSub性の子どもがいると聞いた。  須藤忠臣は、はじめから美斗を養育する気などなかった。  彼が求めたものは、息子の体のいい性処理具。  Sub性を家に入れることは伝統を破ることになるが、親のいない子どもなら何をされても文句は言えないし、正臣に決まった相手がいるのは都合がいい。  美斗は正臣の歪んだ性癖をなだめる人柱で、彼の単なる玩具だった。 *  その部屋には天窓がついていて、青い空の隙間から、太陽光が差し込んでいた。  淡い光が、そこにいる二人の姿を照らす。一人は服を着ていて、もう一人は裸だった。  痛い、苦しい、もうやめてほしい。そんな言葉を飲み込んで、裸の青年――美斗は唇を噛む。  ほんの数時間の間に、美斗の身体には無数の擦り傷やあざが出来ていた。  首輪は依然きつく締められたままで、呼吸はままならない。  正臣は怒ると後ろを慣らしてくれないから、美斗の蕾は切れて、艶やかな血が流れていた。  朦朧とする意識の端で、どうしてこんなことになってしまったのかを考える。  両親が生きていた頃、自分は幸せだったはずなのに。どうして、彼らは自分の前からいなくなってしまったのだろう。  耳の奥で、父の言葉が聞こえてきた。 『遅くなるかもしれないけれど、必ず帰るから。だから留守番してて』    嘘つきだ。出来ない約束なら、して欲しくなかった。父が死んだせいで、自分を置いていったせいで、ただそれだけで、美斗はこんなにも不幸だった。  ああ、でもそう言えば、あいつはちゃんと帰ってきたな。帰ってくるか不安だったんだ。そう言って、いなくなってしまった人たちを知っていたから。大人しく彼を待っていたのは、彼に言われたからだけじゃない。  彼が無事に帰ってくることを心から願っていた。  もう、きっと会うこともないその人の顔を、繰り返し、美斗は想った。  一筋の涙が、美斗の頬を伝った。泣けばきっと酷くなるから、どうにか泣かないようにしていた。だけどもう、堪えることは出来なかった。  あの場所に帰りたかった。  502号室に。国近のそばに。  そこだけが、美斗が唯一落ち着ける場所だった。そんなことに、今さら気づかされた。  一度考え出すと、もう止められなかった。 「かえり、たいっ、ぐずっ、ぁ、かえり、たい」  気が付くと、美斗はしゃくりあげて泣いていた。 「ははっ。傑作だなあ」  頭上で、支配者が笑う。 「お前は僕のものだよ。お前の家はここだし、一生僕から逃げられない」  それは、美斗にずっと染みついている呪いの言葉だった。 *  沈黙を破ったのは、ノックの音だった。 「失礼いたします」  声に反応して、国近は出入り口を振り返る。 「……柏木警部」  一課の上司が立っていた。 「国近警部補をお借りしてもよろしいですか?」  彼は俊敏な動きで机に近づくと、厳かな顔立ちでそう言った。柏木警部は、国近のちょうど一回り年上の刑事で、国近が一課に配属されてからずっと世話になっている人だ。 「彼は今日付けで異動になった。もう君の部下ではないが?」  刑事部長が冷たく返答する。  柏木は動じなかった。 「存じております。ですがあまりに急な異動ゆえ、急ぎの案件がいくつか滞っております。引継ぎを終えなければいつまで経っても警部補は休暇には移れませんが?」  はっきりとした口調でそう告げた。刑事部長は一瞬眉をピクリと動かし、押し黙った。  長い沈黙の後、 「もう行きなさい」という不本意そうな声が聞こえてきた。  柏木が国近に向き直る。顎だけで合図し、自分についてくるようにと指示を出す。  けれど、国近の腹の中から湧いて出てくる黒い感情は収まらなかった。  まだだ。まだ自分は、この男に聞かなければならないことがある。自分から彼を奪い、彼を苦しめようとしているこの男を、どうしてやろうか。  指の骨を一本ずつ手折っていけば、彼の居場所ぐらいは吐いてくれるだろうか。  国近は刑事部長に手を伸ばす。 「国近!」  柏木の怒号が飛んだ。 「ここで騒ぎを起こしたら、懲戒免職どころじゃ済まないぞ!」  構わなかった。自分はこんなことをするために、警察官になったわけじゃない。  彼を助けられないのなら、喜んでこの地位も名誉も捨ててやる。  刑事部長の黒い瞳が、国近を捕らえる。許せないと、そう思った。  すると、柏木が国近の胸倉を掴んだ。そのまま力づくに国近を引っ張り、壁の方へと乱暴に押し付ける。 「いっ……!」  大きな音と共に、背中が壁に叩きつけられる。身体中が痺れるような衝撃だった。全く抵抗が出来なかった。腕っぷしで、国近は柏木に叶ったことがない。 「……だ?」  耳元で薄く、柏木が囁いた。その言葉にはっとして、国近は柏木の顔を見つめた。刑事部長にはちょうど国近の顔が見られない位置で、柏木の言った言葉は聞こえていないようだった。見上げて、柏木と視線を合わせる。柏木が一回だけ強く頷いた。 「……すいません」  国近が眉を下げる。 「外に出れるな」 「はい」  柏木の言葉に、国近はゆっくりと身体を起こす。 「きつく言っておきます」  柏木が刑事部長にそう言って、二人はその場を後にした。 *  扉をしめる。廊下で、国近は深く息を吸い込んだ。  興奮していた神経が徐々に弛緩していく。  気が付かないうちにDefense状態になっていたらしい。柏木に止めてもらえなかったら危険だった。あの場で何をしていたか分からない。口元からため息が零れる。  自分はいったい、いつから彼のことを、こんなにも大切に想っていたのだろう。  ハルトのことが心配で堪らなかった。 「面倒なことに巻き込まれたな」  横で、柏木が言った。今しがた柏木から言われた言葉を思い出し、国近は柏木を見つめる。 『君が仕事を失ったら、彼をどう守るんだ?』  国近の耳元で、彼はそう言った。  つまり、言外に自分は味方だと、そう伝えているようだった。 「さて、国近」  柏木が呼ぶ。一瞬だけ刑事部長室を見た彼の視線が、まっすぐに国近に向かい合った。 「彼を助けに行くというのなら止めはしないが、少し話をしないか? 有益な情報を提供しよう」

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