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【第5話①】 “ ◯◯◯◯◯ ” 1

 ベランダで、赤いマルボロを取り出す。  煙草は、普段吸わない。けれど持っていれば捜査上便利なため持ち歩いていた。 喫煙を口実に被疑者やその関係者に近づくことができる。  手早くライターを使って、火をつける。  深く、煙を吸い込んだ。喉につかえるような苦い味に、顔をしかめる。この味を、国近はどうにも好きになれない。  それでも、今は吸いたい気分だった。  ゆっくりと、煙を吐き出す。その横目で、アパートの周辺を観察した。  ジョギング中の中年男性が一人、目線の先を通り抜けていく。  休日とだけあって、どこかから子どもの遊ぶ声が聞こえてきた。  心の中で、国近は呟く。  (ここも、問題なし)  ここに来るまでに寝室の方へ寄って来た。  中央に置かれたベッドにはもう、彼の影はなかった。乱れたままのシーツの上。枕元に控えめに、国近が彼に貸したスマートフォンが載っていた。何か困ったことがあったら連絡するようにと告げていたけれど、結局、彼がそれを使うことはなかったみたいだ。  目線をずらし、腕時計を確認する。  午前十一時。  あの場所で彼の頭を撫でてから、そんなに長く時間は経っていないのに、それがずっと昔のことのように感じられた。  再び、国近はアパートの外へと目を向ける。  ここと、書斎と、寝室。  国近の部屋にある窓はそれで全部だ。全ての窓を確認した。  怪しげな人影はない。見張りはついていないようだった。  目的を達成したのだ。自分に見張りをつけても意味はないと思うが、用心するに越したことはない。  今から国近がやろうとしていることは、敵だけではなく味方も、警戒しなければならないことだった。もう、ミスは許されない。  煙草はまだ半分ほど残っていた。国近はそれを、乱暴に携帯灰皿に押し付ける。  室内に戻る。  着替えはすでに終えていた。国近は今、スーツを脱ぎ捨て、ラフな私服姿になっている。  目深に帽子をかぶり、外に出た。 *  約二時間前。警視庁。 「昔、港区の署に勤めていた時、妙な噂があった」  庁内でもほとんど人通りがない廊下で、柏木誠一警部は口を開いた。 「噂、ですか?」  国近が問いかける。 「ああ。ある家に手を出したら、警察にいられなくなるんだと」  『ある家』という言葉に反応して、国近は柏木の顔を見つめる。それは、国近にも身に覚えがあることだった。 「まあ、単なる噂だ。俺は、当時その署の刑事部にいたんだが、その『ある家』に関わることはなかったし、とりたてて変わったこともなかったよ。でもある日、一人の巡査が刑事部を訪ねてきて言ったんだ」  柏木の話をまとめると、こういうことらしかった。その巡査は、柏木の元を訪ねて一つの依頼をした。大きな家の次男が、妙なことを言っているから調査をしてほしい。そんな依頼だったという。  巡査は所轄内の交番に勤めていた。ある日、一人の少年がその交番を訪ねてきたという。  彼はひどく怯えていて、自分はある家の次男であること。家族から虐待――それも主にダイナミクス性を利用した性的な暴行を受けていることを訴えた。  少年の鬼気迫った様子を見て、巡査はすぐに上司を呼び相談した。彼が話していることが本当ならば、それは大きな問題になる。所轄で捜査が必要だと考えた。    しかし、    上司は全く相手にする気がなかった。  『嘘を言うな』と少年に向かってそう返したという。そして奥に戻ると、巡査に向かってこう言った。 『勘弁してくれよ。あの家に手を出したら、俺ここにいられなくなっちゃうよ』  やがて、一人の男が少年を迎えに来た。少年は嫌がっている様子だったが、家に帰されたという。その少年は大きな会社の息子で、どうやら心を病んでいるらしいと説明された。  その場はそれで有耶無耶になったけれど、巡査はどうも納得出来なかったらしい。後日、所轄の刑事部を訪ねて捜査を依頼した。  巡査がたまたま声をかけたのが、柏木だった。巡査から事情を聞いた柏木は、戸惑いながらも独自で調査を開始した。  そんな、ある日のことだった。  柏木は上司に呼び出される。あの巡査は精神を病んでいて、警察を依願退職することになった。彼から依頼された案件は彼の主観に満ちたもので、調べる価値がないから手を引くように。そう言われたという。  どこかで聞いたことがある話だった。 「そんな馬鹿な話があるかと思ったよ。でも、俺はその少年から直接話を聞いたわけじゃないし、巡査とは音信不通になって、これ以上出来ることはなかった。俺はそのあとすぐに本庁に異動が決まって、この件はそれで終わりだ」  柏木は言う。証拠がなければ、警察は動けない。柏木を責めることは出来なかった。 「今日、刑事部長からあの青年とお前の写真を見せられた時にピンと来たんだ。あの時の少年と、君の家にいた青年は同一人物だな」  短く頷き、国近は思考を巡らせる。だいたい状況が掴めてきた。柏木の証言からして国近の仮説はほぼ確定だ。ハルトのパートナーは身内の誰かで、ハルトはその人物に不当な支配をされている。 「……その巡査が、当時勤めていた交番は?」  問いかけた。  国近の予想が正しければ、上層部は須藤家と癒着している。  しかし不正をするなら、それを知っている人間は出来る限り少ない方がいいはずだ。おそらく警察内部でも一部の人間にだけ、須藤家に手を出さないようにと通達を出しているだろう。たとえば、屋敷からほど近い交番の責任者とか。もし逃げ出して、近場の交番に駆け込んでも、そこで相手にしてもらえなければもう警察に頼ろうなどという気はなくなる。そうやって逃げ道を塞がれたに違いない。  その証拠に、所轄に勤めていた柏木や、長く本庁勤めをしている国近は内部で須藤の名を聞いたことがなかった。 「南町の……」  柏木が答えた。  都内で須藤グループが所有している建物は、膨大な数に上るはずだ。隣県や個人名義の建物にまで視野を広げればもっと多いだろう。その中からピンポイントでハルトの居場所を特定するのは至難の業だ。  けれど、安全地帯が出来ているのなら、同じ場所でことに及んだ方がいい。  その交番からほど近く、中高生(少年というからそのぐらいの年齢だろう)が歩いていける範囲で、須藤家の血筋もしくは会社の名義になっている建物を当たればそこにハルトがいる可能性は高い。  確かに、有益な情報だった。 「ありがとうございます」  国近が頭を下げる。 「……必ず戻ってこい」  と柏木が言った。国近は柏木の顔を見つめた。 「お前みたいな優秀な刑事を放っておけるほど、うちは人手が足りているわけじゃない。彼の今後を作るなら、お前が捜一にいるということは必ず役に立つ」  柏木の目元には、濃いクマが出来ている。無理もない。彼は今日の明け方まで、国近と同じく強盗事件を追っていた。被疑者の取り調べは、おそらくまだ終わっていない。それでも、自分に力を貸すため彼は駆けつけてくれた。 「はい」  強く、国近は頷いた。大丈夫。一人じゃない。きっと取り戻せる。そう思った。  おもむろに、柏木は胸ポケットから手帳を取り出した。手早くそこにメモを取り、国近に渡す。 「俺は表立っては動けない。刑事部長が目を光らせているし、俺が動けば逆に上に悟られる。ここの住所を訪ねろ。きっと協力してくれるはずだ」  じゃあ、上手くやれよ。そう言って、尊敬すべき上司は国近の肩を叩いた。 *  メモにあった住所は、地下鉄に乗って七駅先のところにあった。そこは大学や短大などが多く立ち並ぶ学生街で、目当ての場所は、商店街を抜けた先にある寂れた二階建てのアパートだった。  101号室。そこが、柏木に指定された部屋だ。  ネームプレートはついていない。壁が薄いのだろうか。頭上から、上階の部屋の生活音が聞こえてくる。国近はチャイムを鳴らそうと手を伸ばした。  扉が開いたのは、ちょうどその時だった。 「国近肇さんですね。お待ちしておりました」 扉から顔を出したのは、まだ年端もいかぬ青年で。 「君は……」  意外な人物の登場に、国近は目を見開く。 「柏木大志と申します」  父がいつもお世話になっております。そう頭を下げたその青年は、柏木警部の一人息子のはずだ。 何度か庁内に柏木の着替えを届けに来ていた姿を見かけたことがある。  確か国立夜間大学に通う四回生で、学部は法学部。とても優秀で、在学中に司法試験に合格したと聞いた。将来は弁護士を目指していて、大学を卒業したあとは司法修習が控えているらしい。  国近よりも頭一つ分小さな大志の顔を、国近は見下ろす。灰色交じりのくすんだ黒い髪に、キリリとした目元。今までまじまじと見たことはなかったが、確かに柏木の話どおり、聡明そうな顔立ちをしていた。 「事情は父から聞きました。中へどうぞ」  促され、室内に足を踏み入れる。部屋は1Kで、整頓されたキッチンの奥に洋室があった。  部屋の中央に小さなテーブルがあり、そこに折りたたまれたノートパソコンが載っている。  壁側に置かれたピーコックブルーの本棚には、法学部の学生らしく、判例集や六法全書が並んでいた。部屋の奥の方で、つけっぱなしになったテレビがニュース番組を映し出していた。  座ってくださいと言われて、国近はテーブルの近くに腰を掛けた。  テーブルの上に、コピー用紙の束が置かれる。 「須藤グループホールディングス、およびその会長・須藤忠臣氏、その息子・須藤正臣氏に関する調査結果です」  束は三つに分かれていて、それぞれバインダークリップで留められていた。 「こんな短時間で調べたのか」  柏木と別れてから、まだほんの数時間しか経っていない。そこから柏木に連絡をもらい、調べたにしては十分すぎるほどの厚みだった。 「あくまで素人が調査できる範囲内ですが……。使ってください」 「ありがとう」  薄く、国近は笑った。柏木の息子なら信用できる。一般人の大学生を巻き込むことはどうかと思ったが、ここまでの調査能力を持っている人間は稀だろう。四面楚歌な国近にとって、柏木親子というピンチヒッターの登場は心強かった。 「細かいところは後で確認する。差し当たって要点だけを早急に教えてくれ」  頼らない手はない。 「了解しました」  短く頷いた大志は、国近の隣に腰を下ろす。一番上に置かれた束を開いた。明朝体で『須藤グループホールディングス 調査結果』と書かれている。 「まず、須藤グループホールディングスですが、不動産業、建築業、ホテル運営事業、リゾート開発事業の主に四つの事業で収益をあげている会社です。現在は不動産業務を縮小しており、ホテル運営とリゾート開発が主な事業のようです。不動産業で所有していた広大な土地を使い、建築業のノウハウを活かして設計されたホテルやリゾートは、各界から人気で、政治家や各国の富豪にも利用されています。須藤グループが運営するホテルは都内に十三、全国を合わせれば七十近くに上ります。全国に三十の支店と二十三の子会社があり、それを取り仕切っているのが東京丸の内にある本社ビルです」  開かれた資料の中には、須藤グループが経営しているホテルの展開と、支店の場所が書かれた地図が載っていた。  続いて、大志は二つ目の束を開く。それは須藤グループの会長・須藤忠臣氏に関する調査結果だ。眉目秀麗な荘厳な顔つきをした男の顔写真が露になった。 「須藤グループホールディングスで取締役会長兼社長を務めているのが、須藤忠臣氏です。敏腕で有名で、彼が着任してから会社の業績は上がり続けているとのことです。総資産は約数千億。リゾート開発事業も、忠臣氏の代から着手した事業です」  しかし、と大志が言い淀む。 「その忠臣氏ですが、三年前にくも膜下出血で倒れ、現在は意識不明の状態が続いているそうです。会長不在のまま役員会で会社を運営しているそうですが、社内の決定権はほとんど嫡男の正臣氏にあると言っていいでしょう」  以上です。と大志は説明を終えた。残った三つ目の束は、須藤正臣氏に関する調査結果のようだった。前の二つの束に比べて、随分と分厚い。大志は正臣氏が怪しいと思っているのかもしれない。国近も同じ意見だった。忠臣氏が動けないとなれば、ハルトを連れ戻すことが出来るのは正臣氏だけだ。 「ありがとう」  もう一度、国近は大志に礼を言った。 「正臣氏の経歴と、過去に雑誌や新聞に掲載された記事がいくつか見つかりましたので、ピックアップしてあります」  言われて、国近は資料を開く。須藤 正臣は忠臣氏によく似た、とても綺麗な顔をしている男だった。まだ若く、年齢は国近よりも一つ下だ。  順に資料をめくっていく。  しばらくして、雑誌記事の中に一つの記述を見つけた。それは、若き実業家の話をまとめたインタビュー記事のようだった。およそ四ページ半に及ぶ記事で、見開きの片面に大きく、 正臣氏の写真が載っていた。会議室だろうか。机の上で手を組んでいる。  正臣氏の右手、薬指に重厚な金属製の指輪がついていた。そのデザインは、ハルトがつけていた首輪に、とてもよく似ている。 ――その指輪は、どうされたのですか? 『ああ。十六の時に、父に買ってもらったんです』  国近は目を細めた。  確定だった。 「……パソコンを借りても?」  横にいた大志に、声をかける。 「どうぞ」  と簡潔な返事が返ってきた。  書斎のノートパソコンを、国近は持ってこなかった。あとで中を調べられる恐れがあったからだ。帰りにネットカフェに寄ろうかと考えていたが、ここのパソコンを使ったほうが足はつかないだろう。  敵は分かった。あとは居場所が分かればいい。  ノートパソコンを開き、検索をかける。  港区で須藤グループが管理している建物は七つ。うち、南町の交番から徒歩圏内にあるのは五つだ。  二つは会社名義になっているホテルとマンションだった。人の出入りが多いところで、怪しい動きはできない。この二つは除外してもいい。  残る三つは、個人用の邸宅のようだ。  一、須藤家本邸  西町にある洋館で、忠臣氏と正臣氏が主に生活している屋敷らしい。  二、須藤家別邸  こちらは東町にある日本家屋だった。建物の形が、少し変わっている。  三、須藤家第二別邸  こちらは南町にある。和館と洋館に分かれた建物だった。普段は人が住んでおらず、主にイベントや茶会などで使っているらしい。    それぞれ屋敷の名義までは分からなかった。順当にいけば怪しいのは本邸だが、決めつけるのは危険だ。もっと冷静に――。  そこで、国近の意識が飛んだ。大仰な音を立て、机に頭が落ちた。資料が床に転がる。  身体が、動かなかった。  おそらく肉体が悲鳴を上げている。昨日からほとんど不眠不休でここまで動いていたことを思い出した。そして、思い出してしまえば尚更、肉体に溜まった疲労を意識せざるを得なかった。 「国近警部補」  横で、大志が呼ぶ。  点けっぱなしにされたテレビの音が、国近の耳元に届いた。  ちょうどキャスターが、昨夜まで国近が携わっていた事件を伝えていた。 『警視庁は昨夜未明、都内全域で起きていた強盗事件の容疑者の身柄を確保しました。この事件は――』  大志がそちらを、チラリと見て口を開く。 「少し休んでください。あの事件を追っていたと聞きました。眠れていないのでしょう」 「……君たちは」  重くなる瞼を、どうにか閉じないように堪えて、国近は口を開く。柏木と別れてからずっと、気になっていたことがあった。 「どうして協力してくれるんだ」 「……。……俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません。父も同じです。だから、貴方も、俺たちのことを利用してください」  返事になっているのか分からないような返答だ。国近は目を伏せる。  身体に疲労がたまっている以上、下手に動くのは危険だ。判断力が落ちる。余計なミスをしかねない。ここは素直に大志の提案に載ることにした。 「……二時間経ったら起こしてくれ」 「了解しました」

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