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【第5話②】“ ◯◯◯◯◯ ” 2
二時間後。
国近が目を覚ますと、テーブルの上には新しい資料が数枚用意されていた。
それぞれ、国近が寝る前に調べた建物の写真だった。
「おやすみの間に、下見に行ってきました」
「……助かる」
一度建物の周辺を確認しておきたかったが、自分は顔が割れている。ちょうど頼もうと思っていたところだ。
数枚の写真を国近は見極める。それぞれ、屋敷の正面、横、後ろを映している。カメラワークが少し上からなのは、近場の展望台から望遠レンズを使って撮影したからだろう。抜かりがなかった。今になって柏木が、どうして息子を巻き込んだのか、分かった気がした。
順番に、写真を繰って確認していく。
ふいに、あることに気が付いて、国近は手を止めた。
「ここだ」
それは、須藤家別邸の写真だった。伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている屋敷だ。
「ここだけ監視カメラがない」
それに、他の二つの屋敷に比べて、庭の手入れがあまりされていないようだった。第二別邸の方はイベントや茶会などで使うというから、庭が綺麗に手入れされているのは当たり前だが、本邸の方にも荘厳なイングリッシュガーデンがあり、写真には庭師らしき人物がバラの花を間引きしている様子が写っていた。ここだけ何もしていないというのは違和感だった。
屋敷の外門、セキュリティシステムのシールが貼られているけれど、そのデザインは随分と古い。その警備会社のロゴデザインは、数年前に更新されていて、今は別のデザインのものが使われているはずだった。
よほど外部の人間を入れたくないと見える。
横から、大志が写真を覗き込んだ。
「撮りに行った時に気が付いたのですが、この建物……『太陽の館』ですね」
「太陽の館?」
首を傾げる。
「N県にある建築作品です。建築学科の友人が話しているのを聞いたことがあります」
国近は手元のキーボードを叩き、検索をかけた。該当の建物は、N県で観光名物になっているらしく、検索画面のトップにホームページが表示された。
ダブルクリックでページを開く。トップ画面に屋敷の写真が写った。背景は異なるが、建物の造りは須藤別邸と瓜二つだ。別邸の方は巧妙に作られたレプリカなのかもしれない。
「その友人に、連絡は取れるか?」
国近が問いかける。
「はい、可能です」
「なら間取りが分かるかもしれない。聞いてみてくれ」
「了解しました」
歯切れのいい返事をして、大志は手持ちのスマートフォンを開いた。手早くそれを操作し、メッセージを打つ。
それが終わると、今度はスマートフォンの画面を上に向けて、テーブルに置いた。
「それからもう一つ。父から興味深い情報が届きました」
一件のメールを開き、添付ファイルをタップする。
「ハルトさんは養子です」
画像は、遠い雪国の地方新聞の一面だった。県境で起きた交通事故を伝えている。
「十歳の頃にご両親を事故で亡くして、その後遠縁だった忠臣氏に引き取られているようです」
ハルトの実父は、そこそこ名の知れた小説家だったらしい。その記事の中には小さく、父親の顔写真が載っていた。
線の細い顔立ちの優男だ。強い意志の感じられる凛とした目許は、ハルトにとてもよく似ていた。
今朝、刑事部長に言われた言葉が、国近の頭の中で再生された。
――可哀そうに。この青年は心の病を患っていて、虚言癖があるらしい。
「……嘘なんか、一つも吐いてないじゃないか」
薄く、国近は呟いた。
胸が痛んだ。彼は、こんな当たり前の悲しみすら、享受することができないのだろうか。
気丈な振る舞いと、乱暴な口調。線の細い身体。その中に、いったいどれだけの苦悩を抱えていたのだろうか。
気付いてやれなかった。きっと、それに気が付くことが出来るのは、自分だけだったはずなのに。
必ず救ってみせる。
スマートフォンを大志に返却し、手元の資料を開く。確か須藤グループ本社の予定表が入っていたはずだ。それによれば確か――。
「あった」
本社では三日後、名古屋支店で社内講習会が行われる予定だ。役員の何人かも出席するらしく、代表者として正臣氏の名前も載っていた。
「叩くなら、その前でしょうか?」
横で、大志が言った。
これは紛うことなき犯罪だ。
居場所は突き止めた。柏木の証言もある、あとはハルトの訴えがあれば立件はできる。最悪突入して現行犯で逮捕してもいい。
相手の懐にいる以上、何をされているのか分からない。今この瞬間も、きっと国近が想像もできないような酷い目にあっているかもしれない。
本当は今すぐにでも助けに行きたい。けれど……。
「いや、動き出すのは三日後。正臣氏が家を空けたあとだ」
国近は答えた。こちらを伺うような瞳が、国近を見つめた。
「意味がない。上が絡んでいる以上立件したところで揉み消されて終わりだ。ハルトの保護を優先する。正臣氏が家を空ける三日後なら、確実に救い出せる」
自分の部屋に、荒らされた形跡はなかった。だとしたら、ハルトは自分から着いていったことになる。ハルトのあの性格からして、迎えが来たからといって素直に応じるとは思えない。おおかた自分の異動でもぶら下げて脅されたのだろう。
ほんの短い間の付き合いだが、国近には分かる。ハルトはそういう奴だ。
強がりで、意地っ張りで、でもそのくせ律儀で、義理堅い。
世話になっている人間が、自分のせいで仕事を失うかもしれないと思えば、喜んで出ていくだろう。
助けてほしいとか、どうにかしてほしいだとか、ハルトは絶対に言わない。
だとしたら尚更上手くやらなければ。
国近がこの地位を失ってしまったら、彼はきっと、自分のところに戻って来られなくなる。
「分かりました。では、そのように」
薄く和らげに微笑み、大志が頷く。
「周辺の防犯カメラとNシステムの位置を、柏木警部に送ってもらえないか確認してもらえるか?」
「聞いてみます。他に必要なものは?」
「厚手の手袋と、針金を二本。それから車を一台用意したい」
「了解しました。手袋と針金は明日買ってきます。車の方は、貸してくれるあていくつかあるので、そちらを当たってみますがよろしいですか?」
「ああ」
頷いて、国近は窓の方へと目線を向けた。
もうすっかり日が傾いている。赤い夕陽が部屋の中に差し込み、家具を朱色に変えていた。
道具は揃った。自分がしくじらなければ、ハルトを連れ帰るのは造作もないことだろう。
けれど、問題はもう一つあった。
それは、どこで彼を匿うのかということだ。
国近の家は、もう安全じゃない。あそこに行けば、すぐにまた連れ戻されるだろう。せっかく救い出せてもそれなら意味がない。
別のアパートを用意することが出来ないわけではないが、国近の名義なら同じことだろう。
となれば何処かホテルの部屋を用意するのが現実的だが……。
資料を見つめて、国近は顔を曇らせた。ホテル運営は、須藤グループのメイン事業だ。
調べられればすぐに居場所を突き止められてしまう。
何か策を練らなければ。
額に指を置き、熟考する。
「こちらを」
すると、そんな様子を見ていた大志が、こちらに向き直った。
机の上。一本の鍵が置かれる。キーホルダーも何もついていない、裸の鍵だ。
それは、夕日の光を浴びて、机上できらきらと輝いていた。
「俺の名義になっているマンションです。使ってください。貴方の家には、もう帰れないでしょう」
この子は本当に機転が利く。きっと優秀な弁護士になるだろう。そう思った。
その鍵に、国近は触れる。ひんやりとした金属の感触が指先に伝わっていく。
「ただ、すいません。はじめにお伝えしておきます」
言いながら、大志は申し訳なさそうに目を伏せた。
「事故物件です」
思いがけない言葉に、国近は一瞬目を丸くする。
しかし、すぐに目元を緩め、優しく微笑んだ。
「いや、十分だ。ありがとう」
国近の記憶が正しければ、柏木は今年四十路になる。大学生の息子がいるにしては若すぎる。そのことを、柏木は何も言わないけれど。
『俺は、俺の目的のために貴方を利用しているに過ぎません』
彼にもきっと、何か事情があるのかもしれない。そう思った。
*
三日後。午後八時。
高級住宅街の入り口で、国近 肇は車を降りた。
目的の建物は、約四百メートル先にある。ここから特定の路地裏を通っていけば、周辺の防犯カメラに姿を残さず、屋敷まで辿り着くことができる。
もっとも、周辺の住人は、その路地がカメラの死角になっているとは夢にも思っていないだろうけれど。
一軒一軒の間隔が広いからなのか、この時間帯にしては、人通りはほとんどないに等しかった。
国近は、車へと向き直る。
運転席には柏木大志の姿があった。国近は一人で向かうつもりだったけれど、自分がいた方が時間を節約できるからと、大志は着いてきてくれた。
目線を合わせ、二人は短く、頷く。
ここから国近は屋敷の中に忍び込み、ハルトを回収して車に戻る。手順は単純明快だった。
被っていた帽子を、今一度深くかぶり直して国近は一歩を踏み出した。
足早に路地を駆けていく。
しばらくして、木製の塀が見えてきた。高さは二メートルぐらいだろうか。ちょうど、国近の身長よりも二十センチほど高い位置まで建っている。この塀の向こうに、目当ての屋敷はあった。
手早く周辺を観察する。
誰もいないことを確認して、国近は塀の上部に手をかけた。
ぐっと力を入れ込み、軽い動作で飛び越える。音も立てずに、芝生の上に着地した。
目線の先に、壮大な日本家屋が現れた。
そこはちょうど屋敷の左横側で、建物の造りがよく分かった。
周囲に人の気配はない。夕方、大志が屋敷から出発する正臣氏とその部下の姿を確認しているから、おかしなことではないけれど、物音の一つも聞こえないのは異様だった。これだけ広大な土地なら、使用人の一人でも置いていてもいいはずだが。
セキュリティシステムのアラームも聞こえない。
事前に集めた情報によれば、裏口はないそうだ。正面から入るより他、方法はない。
国近は右手の腕時計を確認する。
急ごう。長居すればするほど見つかる可能性は高くなる。
屋敷の正面へと回り込んだ。
その屋敷は、三メートル程度の高床式で、伝統的な日本家屋に、幅広の階段がついている。
階段の先、建物の二階部分に、屋敷の玄関があった。
周囲を警戒しながらゆっくりと階段を上る。
玄関の扉は引き戸になっていて、漆の光沢で光っていた。鍵の形状は、どうやらそこまで複雑な造りをしてないようだ。
国近はしゃがみこんだ。懐から針金を取り出し、鍵穴に差し込む、
わずか数秒後。カチャリと小気味のいい解錠の音が聞こえた。
(どっちが悪者なのか、これでは分からないな)
心の中で、国近は独りそう呟き、苦笑した。
引き戸に手をかける。それは、難なく開いて。
国近は屋敷の中へと、踏み出していった。
*
その屋敷には、調度品や家具の類は置かれていない。
あるのは大きなシステムキッチンと四角い小さな机だけだ。いくつかある収納スペースには、生活必需品の類は備蓄されているだろうが、内部はまるで、空き家と見紛うように殺風景だった。
その屋敷の最奥。陽の間と呼ばれる部屋で、須藤美斗は淡い呼吸を繰り返していた。
瞳はかろうじて開いているが、その身体はピクリとも動かない。
その部屋には天窓があって、淡い月明かりが美斗の身体を照らしていた。
その身体は、ところどころ痣や擦り傷が浮かんでいる。
天窓から差し込む光が、青から黄色、朱色に代わっていくのを、美斗は何回見ただろうか。
よく分からなかった。
美斗の首元。重厚な首輪がついている。
中留は元の位置に戻っているから呼吸は楽だが、南京錠はまだ付けられていない。
きっと、お仕置きはまだ終わっていないのだろう。それは、兄の気分次第で中留がまた締められたり緩められたりするということを意味していた。
鍵がついていようがいまいが、美斗は囚われていた。
ふいに、襖の向こうで物音がした。
色を失った美斗の目線が少しだけ動き、襖を捕らえる。
次の瞬間。扉が開く。
視界の先に、男の足先が現れた。
「ひっ!」
それを見て、美斗の肩が大きく跳ねる。
「ごめ、ごめんなさっ……!」
もう逃げない、もうやらない、だから許して。早口でそんな言葉を並び立てる。
大粒の涙が、その瞳に浮かんだ。あまり泣いていれば、きっと頬に一撃を食らうだろうから、腕で顔を覆って庇った。
今日は何をされるのだろうか。いったいこの責め苦は、いつまで続くのだろうか。
けれど。
いつまで待っても、平手や拳は飛んでこなかった。
「ハルト」
その代わりに、耳障りのいい、優しい声が自分を呼んだ。
「へ……?」
声に反応して、美斗は腕を解く。
兄では、なかった。
その人は美斗のいる少し手前で立ち止まると、そこで片膝をつく。
ああ。そんなことをしたら、きっと膝が汚れてしまう。場違いに、そんなことを思った。
今日はいったいどうしたのだろう。いつもなら、【彼】ははるか彼方から自分を見下ろして、自分を痛めつけるだけなのに。どうしてこのDomは、自分の前で膝をついているのだろう。膝をつくのは自分の役目なのに。
骨ばった、大きな手が美斗の頬を撫でた。
この手を知っている気がする。けれど、それをどこで知ったのか、美斗は思い出せなかった。
ふいに、その人が美斗の腕を引っ張り、抱き起こした。そのまま強く、抱きしめられる。
耳に響く心地のいい心臓の音と、嗅いだことのある柔軟剤の香がして、美斗は目を細める。
変な感じだ。
優しくなんか、してもらえるわけがないのに。
自分はまた、おかしな夢でも見ているのだろうか。
遠い意識の端で、誰かの声がした。
『セーフワードは、“ ”』
その言葉の意味を、その時教えてもらった。
『やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして』
言っても、いいのだろうか。
もう何度も同じ言葉を言っているけれど、目の前のDomがそれを聞き入れてくれる気配はない。むしろ美斗がその言葉を言うたびに、【彼】の行動はエスカレートしていく気がする。
それでも、この手の主だったら、聞いてくれるのだろうか。
「……た」
美斗の唇が、何かを伝えようと小さく開く。掠れた喉は、上手く言葉を紡げなかった。
それでも、その人は美斗の言葉を聞くまで、じっと待っていた。
「“かえりたい”」
それを聞くと、その人の肩がピクリと動いた。
「……覚えてたのか」
忘れるはずがない。だって、あんな風に気遣ってもらったのは、初めてだった。
「ああ。分かった。ちゃんと言えて、美斗はいい子だね」
そう言って、その人は泣き出しそうな顔で笑った。優しく、美斗の頭を撫でる。
それは、美斗にとって最上級のご褒美だった。
ほっと息を吐いて、ゆったりと瞼を閉じる。
暖かかった。
こういうのが、世間では幸せと言われるのだろうか。
願わくば、これが夢じゃなければいい。
そう思いながら、美斗は意識を手放した。
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