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【第6話①】言ったら全部、叶えてやる。1
最奥の部屋で、彼を見つけた。その部屋には天窓がついていて、柔い月明かりが彼の身体を照らしている。
虚ろな瞳がこちらを見据える。肩が大きく跳ねた。
「ひっ!」
人の気配に反応して、怯えだす。
「ごめ、ごめんなさい」
もう逃げない、もうやらない、だから許して。そう言って、腕を使って顔をかばう。
色白の肌に映る、無数の牡丹のような痣に、国近は顔を歪めた。
連れ戻されてから三日。この日を選んだのは国近だ。今後を考えた時、今日が一番安全だった。
それでも、今この瞬間、目の前で苦しんでいる彼を目の当たりにすると、もっと早くは助けに来られたのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
振り下ろした拳が、背後の襖を殴る寸で止まる。
深く、息を吸い込んだ。
そうだった。痕跡を残したらいけない。なによりも、これ以上ハルトを怖がらせたくない。
「ハルト」
呼びかける。
「へ……?」
腕が解かれて、不思議そうな瞳がこちらを見つめた。
彼を刺激しないよう、ゆっくりと近づき、布団のそばで片膝をついた。
頬を撫でる。
汗ばんで頬に張り付いた浅黄色の髪をどける。顔にはひと際大きな青あざが出来ていて、唇の端が切れてしまっていた。瞳は泣きはらしたように腫れている。身体の状態も、近くでみると、いっそうひどいものだった。
傷もそうだが、精液、血液、涙の残り、得体の知れない体液が固まって、彼に張りついている。
背中に見える傷は、きっと鞭だろう。臀部は不自然に赤く腫れていた。
首元には重厚な首輪がついていて、無数の線状痕が前よりも酷くなっていた。また乱暴に、ひっかいてしまったのかもしれない。
唯一救いなのは、どこも折れてなさそうなところぐらいだろうか。骨折はさすがに、国近だけじゃ対処ができない。病院には連れていけない。外部の機関を頼った時点で見つかる可能性は高い。
腕を引っ張り、抱き起す。なるべく傷が少なそうなところを選んで触った。
そのまま強く抱きしめると、張りつめていた彼の身体が弛緩した。
「……た」
唇が、小さく動く。国近に向かって、何かを伝えようとしている様子だが、先程の大声のせいで喉が掠れてしまったのか上手く言葉を紡げないようだった。その場でじっと、彼の言葉を待ってやる。
「“かえりたい”」
今にも掻き消えてしまいそうな呼吸の隙間で、彼が言った。
国近は息をのんだ。その言葉は……。
「……覚えてたのか」
彼が控えめに、国近の服の裾を掴んだ。それはまるで、もう離れないと言っているようだった。心から愛おしいと、そう思った。
「ああ。分かった。ちゃんと言えて、美斗はいい子だね」
そう言って、国近は泣き出しそうな顔で笑う。
優しく頭を撫でると、安心したのだろう。美斗は瞼を閉じて、上体を国近に預けた。
そのまま、彼の意識は途絶えた。
か細げな寝息を立てはじめた彼に、自らの上着を被せる。
邪魔になるかとも思ったが、薄手のコートを羽織ってきたのは正解だった。
目の前には美斗の服らしきものが散らかっていたけれど、この部屋を思い出させるようなものを、国近はなるべく持ち帰りたくなかった。
『セーフワードは、“かえりたい”』。
『やめてほしい時の合図だよ。俺は君が嫌がることをする気はないけれど、嫌なことは言ってくれなきゃ分からないだろ? どうしても無理だ、出来ないって思ったら今の言葉を口にして』
あれは、国近が教えた言葉だ。
自分たちのセーフワード。
彼のSOSだった。
出来ることなら一生、使わせたくなかった。
*
半日後。モダン調なダブルベッドで、須藤美斗の意識はゆるやかに浮上した。
視界の先に見慣れない天井が広がっている。そのことに若干の違和感を覚えながらも、その理由を考えられるほど、回復はしていない。頭の奥は靄がかかったみたいにはっきりしなかった。
目の奥がチカチカとして、美斗は数回まばたきをした。
視界がぐるぐると回る。胃の内側を泡だて器か何かで乱暴にかき混ぜられているような、激しい吐き気がした。
肉体は鉛のように重たく、とくに頭の左側から伝わってくる鈍痛はひどいものだ。
肺は、押しつぶされてしまったかのように正常に機能しない。
生きているのが不思議なくらいだった。
ぼんやりとした意識の端で、誰かの怒鳴り声が聞こえた。声の主は、美斗を殴り、蹴り、打ち、痛めつける。自分がコマンドを上手く聞けなくて、機嫌を損ねたからだ。
訳もわからず涙が溢れてきて、頬を伝っていく。
ふいに、部屋の扉が開いた。涙に歪んだ視界に、人影が写る。
一人の男が入ってきた。
「ああ……目が覚めたのか」
その途端、男の姿を認識した脳みそが、鋭く警鐘を鳴らした。
ああ、Domだ。Domがいる。
「ひっ!」
飛び起きて、毛布を使って身体をかばう。重たい肉体も、自己防衛のためならしっかりと動いてくれるのだから不思議だ。
Domは嫌だ。きっとまた自分を傷つける。それに、また命令をきけなかったら、今度はどうしたらいいのだろう。もう死ぬしかないのではないか。死んで償うぐらいしか道がない。
男は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
カタカタと震えながら。美斗は後ろに後退りをした。
「ハルト!」
突然、彼が叫んだ。そこで、ベッドシーツを踏んでいた手のひらの感触が、空気を蹴っていたことに気が付いた。
「あ…ぇ…?」
バランスを崩した身体が、逆さまになって、ベッドサイドに落ちていく。
痛みに備えて、美斗はぎゅっと目を閉じた。
けれど衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
恐る恐る、瞼を開ける。
「大丈夫か!? けがは!?」
心配そうな顔がこちらを覗き込んでいた。先ほどまで部屋の入口にいた男がベッドに乗り出していて、美斗の身体を抱えていた。
じんわりとした体温が、身体に伝わっていく。
「あ……」
ふいに向けられた優しさに訳が分からず、美斗は瞳を揺らす。
「ごめ、なさ」
こんな自分に、庇ってもらったり心配してもらったりする価値などないのに。
すると薄く、彼が笑った。
「……謝るのはこちらの方だ。急に大きな声を出してすまない」
傷に障るから、あんまり動かない方がいい。そう言って、優しく美斗の頭を撫でる。
それから、眉を下げた。
「俺が近くにいるのは怖いか? もしそうなら、俺は向こうの部屋にいるから何かあったら――」
美斗から離れ、ベッドから降りようとする。
「あ……」
彼の服の袖を、ぎゅっと美斗は掴んで、引き留めた。
Domは嫌だ。きっとまた自分を傷つける。美斗にとって、Domという人種は恐怖の対象以外の何ものでもなかった。そして何よりも、また命令をきけなくなる自分のことが怖い。
けれど、確かに怖いけれど、一人にされるのはもっと怖くて辛かった。
薄く息を吐いた彼が、再びベッドサイドに腰をかける。
壊れものを扱うような丁寧な動作で、美斗をベッドに寝かせた。
ひんやりとした手のひらが、頭の上に載せられる。
「ああ……ひどい熱だな」
呟いた。
額の冷たさが心地よくて、目を細める。
歪む視界に、人の良さそうな顔が映った。
どうして……。
そう思った。
どうして、国近がここにいるのだろう。
けれど、そんな疑問は長くは続かなかった。
美斗の意識は再び、深い眠りの中へと落ちていく。
*
文庫本を片手に、国近肇はベッドに腰を掛けていた。
長い脚をベッドの下部へと投げ出している。
ふいに、ページを繰る手が止まった。
目線の先が、横にいる美斗をとらえる。彼は今、国近の隣で、小さく丸まって寝息を立てていた。思えば、彼は眠るとき、決まっていつもこの体勢だった。まるで何かから自分を守るように、身体を丸める。502号室のソファーでも、彼はそうやっていた。
彼の身体のところどころには、青あざや擦り傷が出来ていた。血が出ていた部分は消毒し、ひどい部分は包帯を巻いてやったが、依然、痛々しいことには変わりはない。
うっすらと、美斗の瞳が開く。その瞳には涙が溜まっていた。およそ半日前に一度目覚めてから、ずっとこんな調子だ。数時間おきに目を覚まして、一筋か二筋の涙を流して、また眠りにつく。
SubDrop。彼は今、その状態だ。
おそらく、はじめて会った日よりもずっと重い。
通常、Play中の主導権はSubが握っている。DomがSubとPlayをする時は、同意を確認し、セーフワードを設定するのが常だ。
従う本能を利用され、同意もセーフワードもないまま無理やりコントロールを奪われれば、パニックになるのは当たり前だ。
また、Play中のSubは一時的にトランス状態に入るのだが、Domのアフターケアによって徐々にトランス状態から戻っていく。アフターケアもないまま放置されれば、Subはトランス状態から急に戻され、虚無感や疲労感に苛まれる。
文庫本を、開いたまま膝に乗せる。
右手の腕時計が十九時を指していた。
そろそろ夕食の時間だが……。
国近の脳内に、ほんの二、三時間前の記憶が蘇った。
「水、飲むか?」
500mlのペットボトルを片手に、国近が呼びかける。
虚ろな瞳がこちらを見つめた。拒否はされなかった。
身体を抱き起し、ペットボトルのフタを開けた。飲み口を口元に近づける。
ひどく乾燥した唇が、水を含んだ。頬が一瞬膨らむ。
その時だった。
「ぅぐ、ぁ、げほっ」
ベッドシーツに沁みが広がっていく。せっかく含んだ水を、彼は盛大に吐き出し、モダン調のダブルベッドに飲ませてしまった。
「あ……」
呆然とする美斗の瞳に、再び怯えの色が浮かぶ。ごめんなさいともう何度も聞いた言葉を紡ぐ。
「謝らなくていい。急に飲ませたこちらが悪い」
濡れたシャツを手早くティッシュで拭ってやりながら、国近が言う。
シュンと美斗が眉を下げた。指先が小刻みに震えている。
屋敷から連れ出して丸一日。いや、おそらく屋敷にいたときから、ろくに水分も食事もとっていないだろうことは明白だった。これ以上は生命に関わる。
「恨み言は、元気になったらいくらでも聞くから」
ペットボトルを、今度は自分の唇に当てた。口内に水を含む。
美斗の顎を優しく持ち上げて、顔を寄せる。
ゆっくりと唇を重ねた。口内の水を美斗に渡す。
「ぅ! ふっぅ、ぐ」
大きく目を見開いた彼が、国近の腕を掴んで爪を立てた。国近の手首に擦り傷が刻まれる。混乱した彼が自傷をするかもしれないから、あとで切っておこうと国近は思った。
水は何度か逆流して国近の元に戻って来た。それを根気強く美斗に渡すと、やがて諦めたように彼の力が抜けたのが分かった。
ゴクと美斗の喉が鳴ったのを確認して、唇を離す。
「ごめんな。水は飲んだ方がいい」
国近の目線が隣の美斗に戻る。彼は再び、か細い呼吸を立てて眠っていた。
水を少し飲むだけであれだ。まだ食事は難しいだろう。
身体の傷は、いくらでも治すことが出来る。けれど、心の傷はどうだろうか。
頬に伝う涙を、指で拭ってやる。
そっと、頭を撫でた。もう聞こえていないだろう彼に、優しく声をかける。
「大丈夫だよ。ハルトはいい子だね」
自分のケアが、どこまで効くかは分からない。それでも、少しだけでも、彼の救いになればいい。そう思った。
*
須藤美斗の意識がはっきりと浮上したのは、それから数日後の深夜のことだった。
横を見ると、隣で国近が穏やかに寝息を立てていた。そう言えば、彼の寝顔を見るのははじめてだった。国近の家では別々の場所で眠っていたし、美斗が目覚めるときには決まって国近はもう目が覚めて、出勤する準備を始めていた。
美斗が彼に助けられたことに気が付いたのは、一昨日のことだ。おそらく屋敷に忍び込み、自分を回収したのだろう。その屋敷をどうやって調べたのかとか、どうして自分のパートナーが兄であることに気が付いたのかとか、そもそもそんなことをして彼の立場は大丈夫だったのかとか、色々と疑問は尽きないが、全く無茶をする男だった。
隣の国近の顔を、眺める。端正な顔立ちは、温和さの中にある種の威厳があった。しっかりとした黒髪の隙間から、健康そうな少しだけ日焼けをした肌が見える。首筋は太く、程よく筋肉がついていた。
眠りは深い様子で、美斗が身じろぎをしても動く気配はなかった。
身体を起こし、そっとベッドから抜け出す。モダン調のダブルベッドも、部屋も、見慣れないものばかりだった。ここはいったい誰の家なのだろう。
視界が一回、百八十度回転した。ぐらりとふらついて、美斗はベッドサイドに手をつく。
もう何日もろくに食事をしていない。用を足す以外で歩くこともなかった身体は、案の定上手く動かなかった。
それでも国近が懸命にケアをしてくれたから、数日前よりかは格段にマシだった。体温も平熱に戻っている。暗闇の中で何度も彼の声を聞いた。『大丈夫』『いい子』そんな根拠のない肯定が、自分を正常な場所に戻してくれた。
部屋の壁を伝い、入り口まで歩く。
廊下の先に、玄関を見つけた。
ここが何処かは分からない。でも大通りを探してタクシーを拾えば、帰ることは出来るだろう。屋敷の住所なら覚えている。
金銭の類は持ち合わせていないけれど、それぐらいだったらどうせ桐野が何とかするはずだ。
扉に、手をかけた。
きゅっと、胸がつまって美斗は唇を噛んだ。さよならだ。戻ってしまったらもう、二度と彼に会うことは叶わない。
悲しくはないはずだった。こんなのはきっと慣れたことだ。
それでも気を抜くと涙が溢れてしまいそうだった。
震える手で、ドアノブを回す。
その時だった。
「どこ、行くの?」
背後で、声がした。
驚いて、びくっと、美斗の肩が跳ねる。
気配は感じなかったはずなのに。
「……コンビニ」
咄嗟の嘘が口から零れた。
数秒の沈黙のあとで、優し気な声が返ってきた。
「何か必要なものでもあったか? まだ本調子じゃないだろう。俺が代わりに行ってくるよ」
そう言って、国近は靴を履こうと一歩踏み出す。
「いい。一人でいける」
冷たく突っぱねて、美斗はドアノブを、また回そうとした。
「……どこ、行くの?」
背後の声は、もう一度同じ質問を紡いだ。
はあ、と美斗はわざとらしくため息をつく。
「帰るんだよ」
振り向かないまま、そう答えた。
「……あの家に?」
「お前さ、なんで勝手に助けてんの? もしかして、俺が可哀そうだとでも思ったのか? 残念だけど、全部俺が望んでやっていることだよ。前にパートナーになるかって聞いたな。無理だって言った理由を教えてやろうか? お前みたいな生ぬるいPlayじゃ俺は満足できないし、それに――」
「ハルト」
必死に紡いだ早口の言い訳は、よく通る、低い声によって遮られた。
「こっちを見ろよ」
「いい加減しつこ……っ、ひっ!」
振り返った先。鋭く尖ったGlareが、こちらを射止めていた。
「あ……ちがっ」
逃げ道を探して、二、三歩後ずさった背中が、玄関の扉にせき止められる。
基本的に、国近はいつだって優しかった。コマンドを向けられたのも出会った日のあの一回、それも必要に迫られて向けただけで、それからは一切向けていない。美斗を落ち着かせるように、それらしい言葉をくれたことはあっても、無理やり美斗を従わせることはなかった。
その国近が、怒っている。
威圧に耐えられなくなった肉体が、カタカタと震えだす。足先はすぐに力が入らなくなった。ペタンと玄関先で膝を折る。
頭上の国近を見上げる。目をそらしたくても、こちらを見ろと言われてしまったため、そらすことは出来ない。何よりも美斗の本能が、彼に従うことを望んでいた。
緩慢な動作で、国近はしゃがみこみ、膝をついた。目線を美斗に合わせる。
「ゆっくりでいいから、ハルトの本当の望みを教えて。それが俺にとって不利益を被るものだとしても、俺は受け止めるから」
本当に出ていきたい? そう、聞いた。
「ち、が」
思わず、首を横に振っていた。
「じゃあ、どうして出ていこうとしたの?」
わなわなと痙攣する唇を、大人しく開く。
「……飛ばされたって、聞いたんだ。お前が」
誰かの人生一つ壊すぐらい平気でする。それが、両親を亡くしたばかりの可哀想な子どもだろうが関係ない。そのことにためらいもない。
あの家はそういう家だ。
虫けらみたいに、尊厳を踏みにじる。
「次はきっと、こんなもんじゃ済まない」
美斗は右手で、片方の服の袖をぎゅっと握った。
部屋にある、大量の警察小説。国近はそれを、父の形見だと言っていた。大切でないはずがない。この人から仕事を、尊厳を、奪いたくはない。
「ハルトのせいじゃない。俺が選んだだけだ。君を家に置くことを選んで、今回は、君を助けることを選んだ。それだけの話だ。だから気にしなくていい」
国近が眉を下げた。声が続く。
「それで、ハルトの本当の望みは?」
「へ……?」
ぐっと、拳を握る力を強くする。何を言っているのだろう。この人は。
「俺のことも、俺の仕事のことも抜きにして、ハルトはどうしたい?」
大きく、目を見開いた。その言葉の意味を理解して、もう一度、美斗は首を横に振った。
「っ、駄目だ」
そんなこと、言えるわけがない。言ってはいけない。
すると、国近の指先が唇に触れた。
「言えよ」
固く結んだ唇を、親指がゆっくりとほぐしていく。
「言ったら全部、叶えてやる」
真っ直ぐな目だった。
出会った日、Playのあとに自分と向き合った目。そのあと車で、自分に抑制剤と連絡先を渡した時と同じ目。
この目に自分は、逆らうことが出来ない。
上下する肩で呼吸をする。震える指先を、美斗は自らの首筋に当てた。【それ】は、まだそこにあった。金属製の首輪だ。美斗のパートナーがつけたもの。
自分を縛る、忌々しい呪い。
本当はずっと――。
ずっと、これを――。
「これ……」
それを言うのは苦しい。だってDomの意志に逆らってしまう。
「取って、外して」
でも、きちんと言えたら。もしも、これを外すことが出来たなら。きっと、
「お前がいい」
きっと、
「国近がっ、国近の、ぐずっ、パートナーに、なりたい」
気がついたら、美斗はポロポロと泣いていた。
心がぐちゃぐちゃだった。もう悲しいのか嬉しいのかもよく分からない。
服の袖を使って、涙を拭う。
ふう、と国近が小さく息を吐いた。
そっと、後頭部に彼の手のひらが置かれた。そのまま彼の肩に抱き寄せられる。
「ありがとう。怖がらせてごめんな」
美斗は戸惑いながら、国近の背中に手を回した。
温かな体温と、どこか懐かしい柔軟剤の香りにほっとする。
「う、ぁ、ぁあ、」
零れ落ちた涙が彼の肩口を湿らせた。
「ちゃんと言えて、ハルトはいい子だね」
ポンポンと骨ばった、大きな手が美斗の頭を撫でた。
この手が、この感触が、この仕草が、この声が。
好きだった。
本当は、ずっと前から彼に縋りたかった。彼に縋って、愛されたかった。
彼に命令されて、彼の前で膝を折って、彼のために頭を垂れて。彼にもっと、自分を褒めて欲しかった。認めて欲しかった。
愛して、欲しかった。
「ハルト」
彼が呼ぶ自分の名前が好きだった。何度だって呼んでほしいと思っていた。
国近がほんの少しだけ離れて、美斗の顔を見つめる。
薄く、泣き出しそうな顔で笑った彼が言った。
「ベッドに、行こうか」
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