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【第7話①】物語が始まる。1

 須藤家。別邸。  陽の間と呼ばれる部屋で、須藤正臣は佇んでいた。  天窓から差し込む月明かりが、仕立てのいいスーツを照らしている。その表情は殺風景で、なんの感情も写していない。ただ、彼の生まれ持った、類まれで綺麗な容姿だけが、不思議な威厳を与えていた。  廊下側から、コツコツと足音が聞こえる。その音は、部屋の入り口の辺りで止まった。足音の主は、一度だけ正臣の名前を呼ぶと、 「周辺の防犯カメラに、美斗さんの姿はないようでした」  と告げた。  それを聞いて、ふっ、と正臣は表情を緩める。 「……あの子はそれなりに頭が働く方だけど、防犯カメラに映らず姿を消すなんて真似は出来ないよ。協力者がいるはずだ」  正臣の目線の先には敷布団が敷いてあって、その横に脱ぎ散らかしたままの服が放置されていた。 「例の刑事の方は?」 「自宅を確認しましたがしばらく帰っていないようです。その後の足取りは掴めておりません」  直ぐに答えが返ってくるあたり、桐野は優秀だった。先回りして正臣の望みを叶えてくれる。 「……認識が甘かったかな。大人しくなると踏んでいたのだけれど」 今どき随分と正義感の強い人間がいるらしい。例の【脅し】だけでは足りなかったか。 「桐野」  背後の部下に向かって、振り向かないまま、正臣は呼びかける。 「引き続き、アパートを見張れ」 「かしこまりました」 *  くぁ、欠伸を一つ嚙み殺して、国近肇は庁舎を出る。  有給消化という名目の謹慎が開けてから、約一週間の月日が過ぎていた。異動になった部署は、刑事部に比べれば格段に業務は少ないが、それでも神経を使うことには変わりはない。  制服を着て仕事をするのも数年ぶりだった。  金曜日、午前九時半。  雲の隙間から射す陽の光が、夜勤明けの身体に沁みる。  昨夜はずっと、土砂降りの雨が降っていたけれど、今は止んだようだ。それでもアスファルトはまだ湿っていて、少し酸っぱい雨のにおいが残っていた。  花壇に植えられた紫陽花が、二、三滴地面に水滴を落とす。まだ梅雨入りは発表されていないけれど、そろそろ梅雨前線の活動も活発化するだろう。  夜勤のときは、車を運転しなくて済むよう、電車で通勤していた。  庁舎の裏手にある駐車場には回らずに敷地を出て、そのまま帰路へと足を踏み出す。  ビルの通りを抜けて、最寄駅へと向かう。  そこで、気が付いた。  右に三人、左に二人。明らかに自分を見張っている影がある。  伊達に十年も警察官をしていない。見張りなら寄こしてくるだろうと踏んでいた。先日は写真を取られたけろど、来ると分かっているなら、それに気がつくことぐらい造作もないことだった。  心の中で、国近は小さくため息をついた。  美斗のことを、大志が貸してくれたタワーマンションで保護している。  埼玉県との県境にあるそのマンションは、市の中心街から外れた場所にある。  築年数こそ二十年と古いが、周辺には豊かな自然と生活に困らないだけのインフラが広がっている。  人を匿うにはうってつけの場所だった。  国近がマンションの部屋を出たのは、謹慎が明ける約一週間前のことだ。  危険を避けるために、それから一切の連絡は取っていない。緊急の連絡手段は決めたけれど、今のところそれを使用する機会はなさそうだった。  背後の人影を、気がつかれないよう一瞬だけ目を向けて確認する。  素人だな。気配を隠せていなかった。  振り切ることも出来なくはない。しかし、疑われているのなら怪しい動きは見せないほうがいいだろう。国近は上司に無断で動いているし、何よりも彼を救うため少し乱暴な手段を取ってしまった。事実が露見すれば、国近が予想できる範囲内で最も重たい処分が下されるだろう。いや、それで済めば御の字だ。そして、そうなった時に美斗の安全はもう保障できない。  こちらの方が、少し分が悪い。  彼のことだ。自分がいなくても生活は出来るだろう。しかし、心配なことには変わりなかった。それに、せっかく心が通じあったのだ。本音は少しだけでも一緒にいてやりたかった。  はあ、もう一度国近はため息をついた。  しばらく、マンションには近寄らない方が安全だろうな。 *  モダン調のダブルベッドで、須藤美斗は瞼を開ける。緩慢な動作で身体を起こし、ベッドから降りると、寝ぼけ眼でリビングの扉を開けた。  シンと静まり返った部屋に、美斗の脳みそが一瞬にして覚醒する。  国近がこの部屋を出てから、おおよそ二週間ほどの月日が過ぎていた。  とぼとぼと歩いて、美斗は部屋の中央に置かれたソファーへと腰を掛けた。  この家は、あまり装飾品の類が置かれていない。  部屋の中央にある北欧を意識したデザインのソファーと、その目の前にある食事用のテーブル、それからその二つの先にある少し型式の古い薄型テレビだけが、リビングにある唯一の家具だった。  ソファーの左側、リビングが見渡せる造りになっているシステムキッチンがある。つい先日まで、国近はそこに立って、何かと栄養価の高そうな料理を振る舞っていた。  この部屋で彼と過ごした時間は、美斗の人生の中でおおよそ数十年ぶりの穏やかな日々だった。  部屋を出るまでの間、国近はまるで、二人の間に問題なんて一つもないかのように接してくれた。  ぼんやりと想いを馳せて、美斗はキッチンとは反対の方を向く。  ベランダの先で、どんよりとした雲が空を覆っていた。 水滴が建物を打つ音で、雨が降っていることに気が付く。  結露した窓ガラスの向こうで、雨粒が弾けては消えていた。    そう言えば、国近のアパート――502号室にはじめて足を踏み入れた日も雨が降っていた。あの時、自分はどうして彼を頼ったのだろう。頼る場所が他になかったからだろうか。いや、きっとそれだけではなかった。もしかしたら自分は、本能的に彼が安全だということを悟っていたのかもしれない。  パタリと美斗はソファーに倒れ込んだ。  この部屋に来てから、外に出るのはゴミを捨てる時ぐらいになっている。  食事も家も、何もかも国近の世話になりっぱなしだ。以前のように多少なりと収入を得ることが出来ればいいが、自分が外に出ることで国近が被る被害を考えたら、そんなことをする気にはなれなかった。  須藤家で憔悴状態になっていた自分を国近が救ってから約ひと月。兄はもう、とっくに自分が消えたことには気が付いているだろう。今頃血眼になって自分を探しているはずだ。そして、自分の逃亡に加担した人間として、国近に目をつけている。  シュンと、美斗は目を伏せた。自分は、きっと、彼から大切なものを奪っている。  時々考えてしまう。彼にはもっと、相応しい人がいるのではないか。きっと、自分じゃなくても――。    このまま、国近が帰ってこなくなっても、自分はきっと責めない。けれど、あいつは帰ってくるのだろう。  はあ、ため息を一つ吐いて、美斗は思考を止める。  生産性のない日々は、気が滅入ってしまっていけない。  対等になりたかった。こんな下らないことを、考えなくて済むように。 *  そうして、夏が過ぎた。  目下の日常は、本を読むことだった。  ソファーの下に腰をかけ、文庫本を開く。 ――ユダヤ人には手がないのか? 目がないのか? 臓器や肉体、感覚や、喜怒哀楽がないというのか。同じ食べ物で肥え、同じ武器で傷がつく。同じ病気に罹ったならば、その治療法も同じだ。冬や夏には、同じように暑さや寒さを感じるのに。お前らに刺されて、私たちが血を流さないとでも? お前らにくすぐられて、私たちが笑わないとでも? お前らに毒を盛られて、私たちが死なないとでもいうのか。不当な目に合わされても――。  そこで、美斗は顔をあげた。リビングの向こう、玄関先から、微かな物音が聞こえてきた。几帳面で堂々とした革靴の音に、聞き覚えがある。その足音は玄関の前で止まり、少し遅れてカチャリと、鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえてきた。  文庫本を、開いたままソファーの上に載せる。立ち上がって、美斗は玄関へと向かった。  ちょうど鍵穴が九十度回転して、ドアノブを回していた。  開いたドアの先。背の高い男が立っていた。長い脚を踏み出して、部屋の中へと入る。  ピンとのりの張ったスーツを着ているところを見れば、仕事帰りなのだろう。前に会ったときよりも、また少し日焼けをしたようだった。  視線の先に自分を見つけると、その表情が柔らかく綻ぶ。  きゅっと結んだ唇の奥で、美斗はかける言葉を探した。  久しぶりだな? いや、元気そうだなか?  いや、どれも違うような気がする。こういう時はなんて言ったらいいのだろう。人と関わる方法なんて、遠い昔に忘れてしまったから分からない。 「ハルト」  すると、穏やかな声が自分を呼んだ。 「ただいま」  そう言って、また、ふわりとその男――国近肇は笑った。 「え……ぁ、うん……おか、えり」  玄関先に、国近が持っていたビジネスバックを置いた。 「おいで」  そう言って、美斗に向かって両手を広げる。  ゆっくりと美斗は国近の元へと足を踏み出した。二人の距離が近くなると、国近は優しく美斗を抱きしめ、ポンポンと美斗の頭を撫でた。 「あ……」  ほっと、美斗は息を吐く。  温かい。どうしてこいつの手はこんなにも温かいのだろう。 「元気そうでよかった。一人にしてごめんな」  小さく首を振る。元はと言えば自分のせいだ。国近のせいじゃない。 それに、離れていても国近は定期的に生活必需品を送ってくれた。送り主の名前は違う名前だったけれど、その中には毎回、美斗の大好きな甘いものや、小説の数々が入っていた。 たとえ会えなかったとしても、美斗は国近の影を感じていた。 「ちゃんと、食べてたか?」 「……食べた」  時々抜くこともあったけれど。 「薬は?」 「……飲んでる」  飲まなきゃお前、怒るだろ。 「そうか」  いい子だね。そう言って、また頭を撫でられた。その手はそのまま肩口の方へと移動していく。  肩に触れるぐらいに伸びた髪の一束を掴んだ。 「だいぶ伸びたな。あとで切ってやる」  少し離れて、国近は足元のビジネスバックの方へと視線を向けた。 「食事、まだだろう。あらかた食材は買ってきたけれど、何か食べたいものはある?」  言われて、美斗もそちらへと目を向ける。バッグの隣には中身の詰まったレジ袋があった。10個入りの卵や野菜、魚の切り身なんかが透けて見える。その中の一つ――鶏肉のパックを見つけて、美斗の食欲が刺激された。  強請ってもいいのだろうか。不思議な話だ。先ほどリビングで本を読んでいた時には、ほとんど食欲なんて感じなかった。今日は抜こうかと考えていたぐらいなのに。 「……じゃあ、からあげ」  と、美斗は言った。  国近が目を細める。 「ああ。いいな。いいよ」 *  システムキッチンにジャケットを脱いだ国近が立つ。  あらかたの食材を冷蔵庫にしまったら、カウンターの上に鶏肉を置いた。  リビング側の笠木の近くに立って、美斗はその様子を覗き込んだ。  もっとも、美斗自身料理はからっきしに出来ない。料理の様子を眺めているからと言って、美斗が手伝えることはなかった、けれど、なんとなく彼が料理をしている間、何もしていないのが気まずくて、最近はこうやって観察をするようにしている。  ただ、それでも一つの料理が出来ていく過程というのは、見ていて興味深いものがあった。  鶏肉を一口大に切ると、それをボールに入れていく。続いてそこに調味料が加えられた。  にんにく、しょうが、醤油、卵……。  そこで、あることに気が付いて美斗は声をかけた。 「みりん……使ってたか?」  確か、以前はみりんではなく日本酒を使っていたはずだ。 「ああ。みりんの方がアルコール特有の苦みが少ないんだって。ハルト、あんまりお酒好きじゃないだろう」  そこで、美斗は目を丸くする。確かにお酒はあまり好きじゃない。というか、嗜好品としての酒類なら飲んだことがなかった。それでも、料理に酒を使うことがあるのは知っている。 時折苦みを感じることもあるけれど、入っていたからと言って食べられないわけではなかった。そもそも食べられないのなら、からあげなんてリクエストしていない。  ボールから、国近が顔を上げる。柔らかな瞳と視線がぶつかった。 「漬け込んだほうが美味しいから、このまま少し置いておこうか」 *  夏が過ぎると、国近に張り付いていた見張りは、幾分か穏やかなものに変わった。  国近は細心の注意を払って生活をしていた。一部の隙も見せないように任務をこなし、仕事が終われば502号室に帰宅する。外出は生活必需品の買い物だけに留めた。もっとも、食材以外の日用品はほとんどネット通販を利用しているので、外出をする機会はほとんどなかった。  美斗の分の生活必需品は、大志が協力して彼に送ってくれた。  上司の息子。それは、美斗の居場所を隠す上で、絶妙な立ち位置だった。  いずれ自分と大志の関係性が露見するのは承知の上だが、須藤家の調査が大志に到達するには少しだけ時間がかかるだろう。  この間、一度だけ庁内で刑事部長と話す機会があった。  当たり障りのない挨拶と体調の確認。  美斗のことは、耳に入っていないようだった。  先日刑事部長室で話したとき、彼は国近のキャリアを気にする様子を見せていた。あれは、自分の不正を知った部下に対する反応としては少し不自然だった。となれば、彼は須藤家の件には関与しているが、彼が動いている主な理由は何らかの圧力。いわば、板挟みの状態なのかもしれない。  本当の黒幕は他にいる。きっと、刑事部長よりもさらに上だ。  そんな日々が過ぎるうちに、見張りは徐々に緩やかなものに変わっていった。  須藤家側がそうする理由は分からない。国近の見張りに力を入れるよりも有効な手段を考えた可能性もある。  引き続き油断はできないけれど、ひとまずは美斗の様子を見に行くことぐらいはできそうだった。  その日、仕事が終わると、以前のような見張りはついていなかった。  たまたま電車で通勤していたため、そのまま地下鉄に乗り込み、国近はマンションへと向かった。  最寄り駅を降りたところで見かけたスーパーで、あらかたの食材を買い込む。  長月の風がひんやりと肌を撫でた。  約二カ月半も一人きりにさせてしまった。  美斗の好みそうな食べ物は定期的に送っていたけれど、レトルト食品にもそろそろ飽きた頃だろう。今日は、美味しいものを作ってやりたかった。 *  午後六時。  辺りは、まだ少し明るかった。  借り物の鍵を慎重にさして、国近はマンションの扉を開ける。  部屋の奥の方から、浅黄色の髪と線の細い影が現れた。  柔らかな髪は、会っていないうちに随分と伸びたようだ。肩に触れてところどころ跳ねている。  寝不足なのだろうか。目の下には薄っすらとクマが出来ていた。けれど、国近が想像していたよりもずっと元気そうな様子だった。  ただ、彼の肌は夏を終えたばかりにしては、不自然なほど青白い。  特別外出を止めてはいなかったけれど、夏の間、外に出ることがなかったのかもしれない。  彼のことだから、自分に気を使ってそうしたのだろう。  青年――美斗の瞳がこちらを見つめる。  なんて言っていいのか迷っているような、そんな表情だった。 「ハルト」  彼の名を呼ぶ。 「ただいま」  そういって、国近は笑った。 *  ジャケットを脱いで、国近はキッチンに立つ。  パートナーになってから、美斗が自分の希望を言ってくれる機会も増えた。  今日はからあげが食べたいというので、国近は早々にキッチンに立ち、食材の下ごしらえを始めた。  鶏肉を一口大に切ると、それをボールに入れる。続いてそこに調味料を加えた。  にんにく、しょうが、醤油、卵……。  リビングの笠木の近くに立って、美斗はその様子を覗き込んでいた。最近、国近が調理をしている時はいつもこうだ。料理に興味でもあるのだろうか。今度誘ってみたら喜んでくれるだろうか。  するとふいに、美斗が国近に声をかけた。 「みりん……使ってたか?」  驚いた。観察しながら、レシピを覚えていたのだろうか。  国近は柔らかく表情を緩める。 「ああ。みりんの方がアルコール特有の苦みが少ないんだって。ハルト、あんまりお酒好きじゃないだろう」  他人の表情から、ちょっとした感情の機微を感じとってしまうのは職業病なのかもしれない。以前、同じ物を作った際には、日本酒を入れすぎてしまって、からあげを頬張る美斗の眉が、ほんの少し歪んでいた。そのことを、国近は覚えていた。  もちろん、きちんとアルコールを飛ばしたり適切な量を入れたりすれば、苦みはそれほど感じない。けれど、国近が本格的に料理を始めるようになったのは美斗と暮らすようになってからで、適量を量るのはまだ不得手だった。  手のひらを使って、鶏肉をもみ込む。それが終わって見上げると、美斗の少し驚いたような瞳と目が合った。 「漬け込んだ方が美味しいから、このまま少し置いておこうか」

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