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【幕間1】ミートソースに溶かされる。

 ち、が、う。  口元に差し出されたホットサンドを睨みながら、須藤美斗はそう思った。  リビング(見知らぬ部屋だからおそらくだが)、ソファーの上。そこに背の高い男が腰を掛けている。  その男の間、後ろから抱きしめられるような形で美斗は座らされ、男から食事を与えられていた。  骨ばった指がこんがりと焼けたトーストを挟んでいる。それは三角にカットされ、真っ赤なミートソースと、とろりと溶けたチーズが隙間から見えていた。 「ハルト?」  その男――国近肇が、不思議そうに美斗を覗き込んだ。  差し出された食事を、一向に食べようとしない美斗を心配している。 「やっぱり、まだ食欲ないか?」  頭上で、国近が問いかける。  そうではない。目の前のホットサンドは痺れるぐらいに美味しそうだ。先ほどから胃の奥はぐうぐうと鳴っているし、口内の水分量も多くなっている。おおよそ数日ぶりのまともなカロリーを、肉体はきっと求めている。  そうではないけれど……。  背中に伝わる、じんわりとした体温に美斗は頬を赤く染めた。  片腕は腰に巻かれていて、逃れる術はない。  違う、と思った。  確かに、『食わせろ』とは言った。  数十分ほど前のことだ。  でも美斗が想像していたのは、彼がソファーに、自分が床に座って食べさせてもらう方法だ。  こんなに密着するなんて聞いていない。    そもそも美斗はソファーなんてものに、ほとんど座った経験がなかった。遠い昔、彼がまだ両親と暮らしていたころにはあったかもしれないが、それはもう十年以上も前の話だ。  国近と暮らしはじめてからは、彼の部屋のソファーを借りて眠っていたけれど、それはソファーを寝床として捉えていただけ。つまりはベッドと同じ認識だった。  食事をする時は、決まっていつも床に座って食べていた。  なので、ただくつろぐためだけにソファーに座っているというこの状況は、非常に居心地が悪い。しかも、本来遥か頭上にあるはずのパートナーが、同じ場所に腰を掛けている。 「ハルト?」  もう一度、国近が問いかける。 「う……」  もうやけだ。  観念して、美斗は口を開けた。トーストを噛み切る。  トマトソースの酸味が口の中ではじけた。中にはゴロゴロとひき肉が入っていて、それがほどよくとろけたチーズと混ざり合う。ミートソースは市販のものだけれど、国近は隠し味に醤油を少し垂らしているらしい。時々、和の風味がした。焼き加減もちょうどいい。  もぐもぐ、と美斗は咀嚼する。  ふ、と国近が息を吐いた。 「美味しい?」  と問いかける。 「……ふつ、……ぁ……」  普通、と言いかけて、美斗は止まる。  それは、数時間前のことだ。 『嘘を吐いたハルトには、お仕置きしないとな』  彼のためを思って吐いた嘘。それを、彼に叱られた。  お仕置き、と称して散々焦らされたことを忘れるはずはなかった。  約四半時もそこだけを重点的に責められた胸の飾りは、今なおぷくりと腫れあがっている。服に擦れるたびに思い出す。  またあんなことをされたら溜まったものではない。  いや、あれはあれで良かっ……。  いやいや、良くない。断じて良くない。最悪だった。  ブンブンと2、3回かぶりを振って、国近を伺い見た。 「……美、味い」  と、答えた。 「そうか」  短い声が返ってくる。  美味いよ。お前の飯はいつだって。心の中で、美斗はそう付け足した。 *  テーブルに置かれた食器が空になると、空腹は結構おさまっていた。 「デザートは?」  国近が問いかける。 「……食べる」  甘い物は好きだ。滅多に食べられるものではないから、食べられる時に食べておかなければならない。 「りょーかい」  美斗から少し離れて、国近が立ちあがった。  手早く食器をまとめて、キッチンへと向かう。  数分後。  戻ってきた彼が持っていたのは、器に盛られたヨーグルトだった。  真っ白なフォルムの中央、とびきり甘そうな、深紅のいちごジャムがかかっていた。 「このジャム……」  大きめにカットされたいちごに、見覚えがある。  一週間ほど前まで、美斗は食品加工工場で単発のアルバイトをしていた。およそひと月半後(もう数週間後だろうが)、都内の大型百貨店で物産展が開かれるらしく、そこに商品を卸すため、人を増員していたらしい。  美斗はそこで、ジャムの箱詰め作業を担当していた。  その時、バイトの指導係を担当していた人が、いくつか余った商品を分けてくれた。  賞味期限が近くて、返品になったからと言って。 「ああ、冷蔵庫に入っていたから、君のものかと思って持ってきたんだ」  ヨーグルトにスプーンを指しながら、国近が言う。  ということは、ホットサンドに入っていたミートソースやチーズも、あの工場のものだろうか。無駄にせずに済んだのならよかった。  そこで、あることに気が付いて、美斗は目を伏せた。  そう言えば、工場に連絡を入れるのをすっかり忘れていた。確か契約期間は、まだ二週間ほど残っていたはずだ。  シュンと、美斗は眉を下げる。  何も言わずに仕事をすっぽかして辞めることになって、さぞ怒っているだろう。優しくしてもらったのに、期待に応えられなかった。  すると、国近が言った。 「連絡、いれといたよ」  え、と美斗は顔を上げる。 「また機会があったらいつでも働いてほしいって」  言いながら、隣に腰を掛ける。 「これは自分で食べるか?」 「……ああ」  頷くと、器を美斗の手に載せた。  ひんやりとした冷たさが、手のひらに伝う。 「君のこと褒めてたよ。とても真面目な青年だって」  横目で、国近を見た。すごいな。と嬉しそうに笑っていた。    喜んで、くれるのか。この人は。  かつての美斗のパートナー、兄は言っていた。あれは、多分、中学を卒業する少し前のことだ。美斗は中学までは普通に通わせて貰うことが出来た。今思えば、それはその方が体裁がいいからだろうが、進路を決める頃になって、兄に尋ねたことがある。自分は高校に行ってもいいのか。そういう質問だったと思う。  けれど。 『高校? 行かなくてもいいでしょう。お前には必要ないよ』  返ってきたのは、そんな冷淡な言葉だった。 『生きる術を身に着けて、それが何になるの? お前みたいなSubは、Dom(ぼくたち)に従うしか能がないんだから、無駄なことはしない方がいいよ』  苦い、記憶だ。  そっと、美斗は首筋に触れた。  そこにあった首輪は、今はもうない。 「終わったら、風呂に入るか?」 「……入る」  今朝がた、シャワーは浴びた気がするけれど、浴槽に浸かった記憶はない。  入れるなら入りたい。 「……その前に、コーヒー。砂糖とミルクいっぱい入ったやつ」 「ああ、分かった」  ほっ、と美斗は息を吐く。  国近の隣は、随分と呼吸がしやすい。 「なあ」  呼びかける。優し気な目がこちらを向いた。 「また、作ってくれるか? ホットサンド」  ふ、と国近の顔が綻ぶ。 「いいよ」  と、彼は答えた。

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