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【第7話②】物語が始まる。2

*  北欧調を意識したソファーに、二人並んで腰を掛ける。  最近はただくつろぐためにソファーに座ることにも、随分と慣れた。  美斗の横で、国近はここ最近の出来事を話し始めた。  須藤家の見張りがついていたこと。この場所はまだ悟られてはいないこと。今日を終えたら、またしばらく来られないかもしれないこと。  それは、このマンションに来てから国近がはじめて話す、核心の話だった。 国近はしばらく話すと、 「すまない。少しだけ、君のことを調べた。素性は聞かないと言っていたのに、約束を破ってしまった」  という言葉でその話題を締めくくった。  随分今さらな謝罪だ。このマンションでdropが明けた時から、美斗はそのことには気が付いていた。  それから、少し間があって。  ふいに、国近は立ち上がり、リビングに移動してあったビジネスバックに手を伸ばした。  不思議そうに、美斗はその様子を見つめる。国近はバッグを開けると、その中から一冊のハードカバーを取り出して、美斗の方へと差し出した。  薄桃色でレイアウトされた表紙に見覚えがある。太字で印字されたタイトルの下、右の方に、見知った名前がプリントされていた。それを見て、美斗の瞳が大きく見開かれた。 『雨宮 千秋』  それは、父のペンネームだった。  国近の声が続く。  見張りが緩くなってから、国近は時折書店で美斗の父親――雨宮千秋が書いた本を探すようになったという。父が書いた本は、もう全部が絶版になってしまっていて、古本屋で唯一全盛期の作品の一冊を見つけたらしい。 「手元に置いておきたいかと思って探したんだ。迷惑だったか?」  どう反応していいのか分からなくて、美斗は差し出されるがまま、その本を手に取った。  胸の奥に何かがつまって、やっとの思いで唇を、小さく開いた。 「……迷惑じゃ、ない。はじめが、俺の素性や事情を全部知ってるってことも、ずっと前から分かってた……」 「そうか」  凹凸のある装丁を撫でる。表紙は和紙を使っているのだろうか。紙の温みが暖かかった、  ふっと、国近の顔が優しそうに微笑む。 「油使うから、しばらくキッチンに来ちゃだめだよ」  美斗の頭を一度だけ撫でて、キッチンの方へと向かった。 *  ふつふつと泡立つ油の中に、下味をつけた鶏肉を入れていく。  菜箸を使って鍋の中身をかき混ぜながら、ふと、国近は笠木の向こうを見た。  北欧調を意識したソファーに、美斗が座っている。  小説を胸に抱かかえ、肩を震わせていた。 瞼の下が、淡く光っている。  先ほど国近がその本を渡した時には、今にも泣き出してしまいそうに唇を噛んでいた。  あまり見つめていれば、きっとちゃんと泣けないだろう。  そっと視線を外して、国近は再び、鍋の中へと目線を向けた。 *  午後八時。  夕食を終えた美斗は、再びソファーに腰を掛ける。  久しぶりに食べた国近の手料理は絶品だった。おかずはまだいくつか余っているから、明日の朝はトーストに挟んで食べたら美味しいかもしれない。マヨネーズと、付け合わせの野菜を一緒に挟んで。コーヒーも淹れよう。朝になったら、きっともう、あいつはいないだろうけれど、それぐらいなら一人でもできるはずだ。  そんなことを考えながら、足をふらふらと遊ばせる。  そうしていると、バスルームの方から国近が顔を出した。 リビングの入り口の辺りに立ち、問いかける。 「入浴剤、使わなかったのか?」  洗面台に置かれていた、未開封の箱を片手に持っていた。国近が送ってくれた日用品の中に入っていた入浴剤だ。一人だと湯を張るが面倒で、封を開けなかった。 「どれがいい?」  個包装になっているそれは、四種ほどの異なる香が楽しめる仕様になっている。  パッケージを数秒眺めて、美斗は答える。 「……ゆず」 「ああ、分かった」  数分後、風呂の支度を終えた国近がリビングへと戻ってきた。 「お湯、溜めている間に髪……ああ、爪もだいぶ伸びてるな」  そう言うと、どこからか爪切りを取り出して、美斗の隣に腰をかける。  おもむろに美斗の手を掴もうと手を伸ばした。  慌てて美斗はその手を引っ込める。 「それぐらい自分でする」 「いいから。手出して」  けれど国近の圧は凄まじかった。戸惑いながらもおずおずと手のひらを差し出す。  伸びた爪を、国近が丁寧にカットしていく。  パチン、パチンと短い音だけが部屋に響いた。  慎重に美斗の爪を手入れしている国近の顔は真剣そのものだ。指先を見つめる視線がむず痒くて、美斗は目線の置き場を探した。  なんだか今日はいつもにもまして世話焼きだ。  というか、そんなことよりも……。  身体のどこかから湧いてくる熱に気が付いて、美斗は内腿の間に目をやる。  なんで。と思った。  爪を切ってもらっているだけなのに。そんなに自分は欲求不満だっただろうか。  確かに約二カ月半、全く解消をしなかった。ここ数週間はよく眠れていなかったけれど……。  きゅっと、内腿を摺り寄せて顔を上げる。  見上げた先で、鋭い瞳と視線がかち合った。かあっと美斗は頬を赤く染めた。 「も、もう、ほんとにいい」  そう言って、手のひらを引く。  国近は一瞬だけ薄く笑うと、パタンと爪切りを畳んだ。それをそのままテーブルの上に置く。  その直後だった。 「ハルト。“Kneel”」  その言葉を認識した途端、身体に電流が走る。  半ば転がり落ちるような形でソファーから下りて、国近の足元に膝をつく。 「ひ!……ぁ?」  硬直した身体はもはや自分のものではなくなったみたいに上手く動かない。身体中に電磁波のようなものが流れて、それが美斗を小さく震わせる。  ただ、確実に言えるのは、内腿の間はさらに酷い状態になっているだろうということだけだった。  ふっと、優しく笑った国近が、ゆっくりと美斗の頬を撫でる。   「ベッドまで来れる?」  と問いかけた。  細められた瞳の奥に、あの日とおんなじのどす黒い欲を見つけて、美斗は思った。  ああ、違う。  こいつが外したのだ。我慢のタガを……。 「ふ、ふろは」  バスルームの方へと目を向ける。お湯はまだ溜まりきっていないはずだ。自動湯張り機能がついているからそのままにしても平気だけど……。  すると、クス、と国近は口角をあげた。  口元を美斗の耳元に寄せて、こう囁く。 「ちゃんと来れたら、いっぱいご褒美あげる」 *  むすっ。  バスルームの端で、裸の身体にタオルケットを羽織った美斗がむくれていた。  夕食の時とは違い、肩の辺りまで伸びた髪は綺麗に短く切りそろえられている。  視界の先に、国近の背中が見える。その背中を、げしっと美斗は軽く蹴り上げた。  鍛えられた身体はびくともしない。困ったように美斗の方を向いて、 「そろそろ機嫌直してくれないか」  と言った。  ふいっと美斗は顔をそむける。  黄緑色のお湯は、すっかり冷たくなってしまっていた。蛇口を絞り、熱めのお湯を国近が足していた。 「せっかくいい湯加減だったのに台無しじゃないか。地球に謝れこのクソ刑事。無駄に限りあるエネルギー資源を浪費してしまってすいませんでしたとな」 「はいはい。悪かった」 「だいたい……」  適当な相槌に次の文句が口から零れる。言い終わる前に国近は美斗の手を掴むと、それを浴槽の中に差し向けた。 「ほら、これでいいか?」  程よい温みが伝わって、美斗は眉間の皺を少し緩めた。 「……。……悪くない」  くくっと面白そうに国近が笑った。それを無視して美斗は立ち上がり、浴槽の中に足を踏み入れる。そのまま肩まで湯に浸かると、全身がゆずの香に包まれていく。 「風呂が好きなのか?」  蛇口を止めながら、国近が問いかける。  当たり前だ。嫌いな奴なんていないだろう。と答えると、国近は楽しそうに笑った。  そして、 「じゃあ、今度温泉にでも行こうか」  と言った。  温泉……。温泉か……。 「ああ……いいな。行って、みたい」 「なんだ。行ったことなかったのか」 「な……」  ないと言いかけて、美斗は止まった。 「あー……一回だけ」  思考の端に、断片的な記憶が蘇った。あれは、いくつの時だっただろう。  たった一度だけ、家族三人で旅行をしたことがある。美斗の故郷の近くには有名な温泉街があって、そこの旅館で一泊二日の日々を過ごした。  縁側から手入れが行き届いた日本庭園が見えて、その庭に石窯の露天風呂があったのを覚えている。  父は、そこでも小説を書いていたっけ。非日常な環境は文章が思い浮かびやすいらしい。時々机の上で原稿用紙を広げていた。せっかくの旅行なのにと母が怒って。でも、きっと本気では怒っていなかったのだろう。笑って許していた。  父が原稿用紙を一枚くれた。すぐ済むから、その裏に絵を描いて待ってて、と言って。  父の様子を眺めながら、自分の知っている文字を書く。母が、「何をしているの?」と優しく聞いた。 『お父さんの真似!』  と、美斗は答えた。柔らかく、両親が笑う。 『俺ね……』  そこで、記憶は終わった。  どうして、今まで忘れていたのだろか。  思考が現実に戻る。シャワーの水滴がバスルームのタイルを弾く。  国近が身体を洗いはじめていた。 * 「もう上がるのか」  早々に浴槽を出た国近に向かって、美斗は声をかける。まだ数分ぐらいしか温まっていないはずだ。 「警察官は早風呂なんだよ。君はゆっくりしてるといい」  大きな手で前髪を掻き上げながら国近が答えた。  国近に言わせれば、美斗の方が長風呂らしい。でも浴槽に浸かれる機会なんかそんなに滅多にないじゃないか。堪能するに限る。  浴槽の縁に腕を乗せて、美斗は国近の背中を盗み見た。何だか今日は気が抜ける。  そのままそっと、目を閉じた。 「……ここで寝るなよ」  という声に、んー……と間のびのした返事を返す。小さなため息が聞こえてきた。 「あがったら、アイスでも食べるか?」  あいす。あいすか。  美斗は薄く瞼を開けた。 「……ダッツ?」 「……そういうところは坊ちゃんなんだな。ダッツもあるよ。美斗が好きな抹茶味も」  どうして、いつも分かるのだろう。料理に使われたお酒が苦手なのも、抹茶味を気に入っているってことも一度だって話したことはないのに。  空っぽのグラスに水が注がれていくような、むず痒い感覚。嬉しいような、それでいて腹立たしいような……。  もう一度、むすっと頬を膨らませて、美斗は浴槽のお湯へと顔を向けた。 「……少し溶けたのが美味い」 「ああ。じゃあ出しといてやる」 *  モダン調のダブルベッドで、須藤美斗は瞼を開ける。緩慢な動作で身体を起こしベッドから降りると、寝ぼけ眼でリビングの扉を開けた。  シンと静まり返った部屋に、美斗の脳みそが一瞬にして覚醒する。  少し遅れて、それが「寂しい」という感情であることに気がつく。  はあ。ため息を一つ吐いて、とりあえず水でも飲もうとキッチンに向かう。  冷蔵庫を開けた。  そこで、美斗は気が付いた。  タッパーに詰められたいくつかの作り置きが入っていた。昨日まではなかったものだ。いつの間に作ったのだろう。  中央の段の右奥。そこに置かれていた容器を取り出し、開けてみる。  白身魚に片栗粉をつけて、甘辛いタレで焼いた照り焼きのようだった。  行儀は悪いが、それをそのまま手で掴み、口に運ぶ。 「……美味い」  誰もいない部屋に、呟いた声が反響する。  タッパーが並んだ段の上の段には、昨日残したからあげがラップをかけてしまってあった。少し休んだら、予定通りそれをトーストに挟んで食べよう。  とぼとぼと歩いて、美斗は部屋の中央に置かれたソファーに腰をかけた。  思考を止めて、ぼんやりと、どこでもないところを見つめる。それから、目の前のテーブルへと目を向けた。  そこには、昨日国近がくれたハードカバーと、ノートパソコンが一台乗っている。このパソコンは国近の書斎にあったものだろう。本と一緒に、国近はそれを持ってきてくれていた。  昨晩の会話を思い出す。 「これからは、ネットを使って好きなものを買っていい」  でも。と美斗は言った。稼ぎの全くない自分がそこまでお前に甘えることは出来ないと答えた。  国近は困ったように笑って、しばらくしてからこう言った。 「だったら、いつか返してくれたらいい。前みたいに」  いつか……。  そんな日が来るのだろうか。『須藤』美斗としてではなくて、ただ一人の人間として生きていける日が……。  その時、自分はどんな人間になっているのだろう。真っ当な学歴も社会経験もない自分が生きていけるだけの仕事は見つかるのだろうか。  夢も、希望も、未来も、全てを奪われた。  今さらそれを取り戻すことが可能なのだろうか。

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